風になる刻
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16.
遠ざかっていく学校をミラー越しに見つめながら、飛鳥はシートベルトを締めた。運転席に座る神沢はいつもの無表情に戻り、ハンドルを握っている。
返り血で汚れた制服を着替える余裕もなかったので、上から神沢のコートを着せられている。小柄な飛鳥に長身の神沢のコートは裾も袖もいっそ面白いくらいに長過ぎたのだが、スカートの裾まで隠れてしまうのでちょうど良かったかもしれない。長生きしたら背が伸びるだろうかなどと考えながら袖をもてあそんでいたのだが、コートに抱きしめられているような気がして、つい先刻の感触が鮮明に甦ってきた。
(そうだよね、私さっき抱きしめられてたんだよね)
改めて思い出してみると恐ろしく恥ずかしい気がしてならない。顔が赤くなったのではないかと慌てて両手で顔を押さえる。
「どうかしましたか」
「あ、う、えっと」
「ウェットティッシュなら後ろにありますよ」
うろたえているのは気付かれなかっただろうか。びくびくしながら後ろのシートを見ると、ウェットティッシュが転がっていた。顔にこびりついた血もそのままだったので、一旦シートベルトを外して手を伸ばし、なんとかウェットティッシュを掴み取る。
「あのさ……聞いてもいい?」
シートベルトを締め直し、手と顔を拭いながら飛鳥が呟く。
「私で答えられることでしたら」
「私とお姉さんって似てる?」
飛鳥の問いに、応えはなかった。聞かないほうが良かったかと後悔しても取り返しがつかない。ただ飛鳥はうつむいて黙り込むしかなかった。
「……似てませんよ」
考え込んでいたのか、神沢が口を開いた。
「似てるところと言えば、黒髪と黒い瞳ですかね。あとは全然似てませんよ。姉はもっと背が高いですし」
一番気にしていることを言われてムッとした飛鳥に、神沢は追い討ちをかけるように続ける。
「姉が封印されたのは飛鳥さんと同じ年でしたけど、剣はすでに達人で魔法だって使えましたし、切れ長の瞳の美人でしたし、面倒見は良かったし、何よりも強かったですよ」
ドサクサに紛れて失礼なことを言われたような気がしないでもないが、とにかく自分の前世はすべてにおいて非の打ち所のない人だったんだなあと愕然とする。それに比べて自分はどうなのだ、と。飛鳥は鍛錬を積んだ訳でもなく、一人っ子だった。前世とは環境だってまるで違うのだから仕方ないとは解っていても。
「でも、姉は強すぎました」
落ち込んだ飛鳥の気持ちを知ってか知らずか、神沢はさらに続けた。
「あまりに強すぎたんです。だから他を受け入れようとはしなかった。飛鳥さんのように突然別次元の話をした私を信じるようなことも、裏切った相手をなお信じようとすることも、姉にはできませんでした。飛鳥さんが道端に咲いているタンポポだとすれば、姉は大きな杉でした。強い風が吹いたとき、草は受け流すことができても木は倒されるしかない……もし姉にあなたのようなしなやかさがあれば、母に真実を告げられたときに飛び出してしまうこともなかったと思いますよ」
台風で木が倒されたという話は聞いたことがあるが、草が根こそぎ吹っ飛ばされたという話は聞いたことがない。飛鳥は強くはないがそれが悪いことではないのだと、少し安心する。
「少々悪い言い方をするなら、頭が固かったんでしょうね。いませんか? 生徒の主張に耳を貸さない教師とか」
「いるいるっ」
「まあ、そういう感じだったと思いますよ」
神沢が苦笑する。その様子を見て飛鳥がはっとする。
「あのさ……私、勝手に決めちゃったけど、お姉さんに会いたいと思う?」
「どうでしょう。そんなこと、今までに一度だって考えたことはありませんでしたから」
封印した時点で、二度と会えないと覚悟を決めていた。謝罪することも真実を告げることももうできないからこそ、永遠に生きることで罪を償おうとしたのだ。悠久の時を生きてきた神沢自身でさえ考えもしなかったことを、隣に座る少女は実行しようとしている。
「会えたとしたら、一体どんな罵声を浴びせられるんでしょうね。考えただけでも背筋が寒くなりますよ」
「やっぱり、いや?」
「……どちらとも……。会えるのなら会って謝りたいと思うし、同時に合わせる顔がないとも思いますし……」
「あんたでもハッキリしないことがあるんだ」
「曖昧なことなんて誰にだってあるでしょう?」
「そうだけどさ。何を訊いてもいつもちゃんとした答えが返ってきてたから」
「知識と自分の感情は別物ですよ」
どんなに長く生きたとしても、自分の感情を完全に把握することはできない。人を超越したところにいながら、心はいつまでも揺れ続ける人間のままなのだろう。
「お姉さんのこと、好き?」
「さっき飛鳥さんがそう言っていたでしょう」
「言ったけど、あんたの口からは聞いてないもん」
「……好きですよ」
少しはにかみながら言う神沢が、かわいかった。
「姉がいてくれれば、何もいりませんでした」
「そっか」
くすぐったくて、飛鳥もまた微笑んだ。
「よかった。『好きでした』って過去形で言われたら切ないもんね」
今でも姉を慕っている神沢にとって、彼女のいないこの世界は 会うことの叶わないこの世界で生きることは、どれだけ辛いことだっただろう。できることならこの姉弟を会わせてやりたい。
照れくさかったのかアクセルを踏むと、神沢がいつもの無表情に戻って切り出した。
「ところで、本当に魔王を倒せるのですか? 何か勝算が?」
「うーん、多分大丈夫だと思うよ?」
「……多分?」
「うん、勝てる気がする。よく解らないけど、そんな気がする」
「その根拠のない自信だけで魔王を倒そうと決めるとは、恐れ入りました」
「なくないよ」
力に振り回されてばかりで、思うように操れる訳ではない。それでも『鍵』と繋がったあの感覚 魔王に勝てる、そう思ったのだ。
「解るよ。今の私じゃ無理だけど、『鍵』にたどり着ければ……」
「……いいでしょう。私にできることは、あなたをその場所へ無事にお連れすることだけです。あなたはその後のことだけ考えていて下さい」
「ちゃんと私を守ってよね……って、ねえ、ここ今高速走ってる?」
家族でドライブということが滅多にない飛鳥でも、走っている道がいつのまにか変わっていることくらいは解る。
「ええ、高速道路ですね」
「高速道路ってゲートみたいなところで料金払ったり切符見せたりするんじゃないの!?」
切符?
「……ETCってご存知ですか?」
首を傾げた飛鳥にどう説明したものだろうか。
「その料金を払ったり切符を見せたりする手間を省いたシステムですよ。完全普及はまだ当分先だと思いますが」
「へえ? そんなのあるんだ。物知りだね」
「物知りというかどうかは解りませんが、時間だけはうんざりするほどありましたから。いろんなことを学びましたよ」
途方も無い時間が与えられたとしたら、飛鳥はどうするだろうか。今日やれることもすべて先延ばしにして、結局最後まで何もしないような気がする。神沢はその制限のない時間の中で、苦痛から逃れるために学び続けたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、ふと学校のことを思い出す。
「学校、どうなったかな……渡辺さんもどうなるんだろう」
「大騒ぎでしょうね。その中でひとりだけ生徒がいなくなっている訳ですし……。彼女はまだ願いを成就させていませんから、死ぬことはないはずです。ただ元の人間にも戻れないでしょうが」
「渡辺さんに乗り移ってるのは魔王の一部なんだよね?」
「はい」
「じゃあ、魔王を倒せば元に戻れる?」
「あなたの中にある『破邪の剣』の力があれば、もしかしたらそれも可能かもしれません。本来は邪悪なものだけを滅ぼす力ですから」
遠隔地にいるはずの飛鳥と『鍵』の意識が繋がったように、渡辺と魔王が繋がっているのなら、本体を消せばなんとかなるかもしれない。飛鳥はそれに一縷の望みを賭けるしかなかった。
「そこまで大切な友人だったんですか」
「私にとってはね」
明らかな殺意を向けられてなお友人だと思える飛鳥の強さは、一体何処からくるのだろう。もし渡辺の中の魔王を消すことができたとしても、もう二度と以前のようには振舞えないであろうに。例え飛鳥がそう望んだとしても、渡辺にはそれは不可能だろう。神沢は打ち切るように、今後の予定を話す。
「このまま富士山を目指しますが、途中どこかで車中泊しましょう。私は魔力を使い果たしてしまっていますから、休まないと飛鳥さんの援護ができませんし、飛鳥さんもあれだけの力を使ったのですから休んだ方がいいでしょう。夜が明けたら、『封印の地』へ向かいます。よろしいですか」
「構わないけど……」
「どうか?」
「後ろの車、もしかして……」
「気付きましたか」
いつからそうなのかは解らないが、適当な車間距離を維持しつつも、ずっと神沢の車の後についてくる黒い車がある。高速道路なのだからそんなこともままあるだろうが、車線変更まで同じタイミングとなると、いくらなんでも怪しい。
「どうするの?」
「危害は加えてはこないと思うのですが、とりあえず撒いておきましょうか。しっかり捕まっていて下さい」
「え? え、あっ、ちょっとー!!」
言うなりアクセル全開で走行車線から追い越し車線へと、ほぼ直角に入られて飛鳥はガクリと身体を揺らした。捕まれと言われても何処に捕まればいいのか解らない飛鳥は、身体をずらして横向きに座り直し、シートにしがみついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! スピード……!」
「制限速度なんて守ってたらいつまで経っても撒けませんよ」
「解ってるけど! いくらなんでも出しすぎなんじゃ……そのメーター何処まで上がるの!?」
「振り切るまでですよ」
「イヤアアア!! 何もできないままで目的地にたどり着く前に事故死なんてイヤアアア!!」
「失礼な。アウトバーンではこれくらいで普通ですよ」
「アウトバーンってドイツでしょー!? ここは日本だってばー!!」
ギャアギャアと騒ぎ立てる飛鳥をよそに、神沢は涼しい顔でハンドルを切る。黒い車はやはり速度を上げて後を追ってくる。何らかの攻撃をしかけてくる様子はないが、尾行しているのは確実だった。前方に車を発見して、またしてもほぼ直角に車線変更して一気に追い抜く。走行車線からの追い越しもしっかり違反なのだが、飛鳥はそれを知らないのか舌を噛みそうになっただのと、シートにしがみついたままで叫び散らしていた。
「あれっ、だんだん離れてく?」
「エンジンの違いでしょうね。このままで行けば撒けそうですよ」
「このまま!? このままなの!?」
「減速したら追いつかれるでしょう」
「そうだけどっ」
黒い車との距離はわずかずつではあったが確実に広がっていた。神沢の車は元々追跡用にと選んだもので、速度もかなり出る。仕事中に追跡することがあった場合、逃げられましたでは話にならない。今回はそれが幸いしたようだった。
「なーんかずっと後ろからイヤァな音が聞こえてくるんですけど」
「なんとか……」
がんばりますよ、と神沢が言いかけたときだった。
右前方で、爆発音がしたのが先か、それとも異物を視界に捕らえるのが先だったか。
反対車線から中央分離帯を越えて、車が突っ込んできた。
「あ……!!」
飛鳥さん、伏せて!!
そう言う余裕も、ハンドルを切る暇さえなかった。
ボンネットをくの字に曲げ、フロントガラスの破片を周囲に散らしながら、その車は飛鳥たちを狙い定めて飛んできた。
「シルヴィア!」
固く目を閉じ、飛鳥が叫ぶ。それは飛鳥にとっては耳慣れぬ、しかし神沢にとっては遠く懐かしい言葉だった。
それは、一瞬。
飛んできた車が接触する寸前、突風が吹いた。ハンドルを切ることさえ忘れた神沢の目の前で、衝突するはずだった車は宙返りをして神沢の車を飛び越えて、後ろを走ってきた黒い車の前に落ちた。奇跡を起こすことの叶わぬ黒い車は、そこへまっすぐに突っ込んだ。
はるか後方の景色となったその場所で、二台の車が炎上していた。神沢たちを追ってきていたパトカーはそちらにかかりきりになることだろう。突然閃いた信じ難い奇跡に呆然としながらも、飛鳥はほっと胸をなでおろした。
「今の……私がやったんだよね」
「飛鳥さん、今のは……」
「『名を呼べば、いつでも助けに行く』って……声がしたの。私を守ってくれてる風の力の名前、シルヴィアっていうんだね」
振り回されてばかりだった風の力。それが今は助けてくれる。
「遠い昔……太陽神が転生の途中で風の精霊とそういう契約を交わしたそうです。こういう形で現実に目の当たりにするのは初めてですが……」
「私ね、この数日で何で『力』なんてあるんだろうって何度も思ったんだけど……今はちょっとだけ嬉しい」
「嬉しい?」
「うん、嬉しい。いつ契約したのかは知らないけど、ずっと長い間シルヴィアは守ってくれてたんでしょう? 私も知らなかったけど、当人が気付いてなくてもずっと約束を守っててくれたんだなあっていうのが、嬉しいの」
減速し始めたのを確認すると、飛鳥は姿勢を戻しながら微笑んだ。『名を呼べば助けに行く』などという契約さえ知らなかった飛鳥にも、それを履行してくれることが嬉しかったのだ。飛鳥よりも前の転生でもきっとそうだったのだろう。呼ばれることがなくてもずっと寄り添っていてくれたのかと思うと、どこかくすぐったい。
「……頭痛はしませんか?」
「頭痛?」
「怒りを覚えたり、不正を見たら頭痛がしていたでしょう。今はどうですか?」
「うーん、そういえばしないなあ……?」
「完全に『力』を制御できるようになったんですね。速度違反も立派な不正ですから」
渡辺と対峙したときには、頭痛がした。不正がどうのという部分では克服したのかもしれないが、感情の爆発に対してはその限りではないのだろう。
「どうだろ? 学校で『力』を使い果たしちゃってるからかもね」
飛鳥自身の『力』と『シルヴィア』は別物だ。『力』を使いきっていても、名を呼べばシルヴィアは来てくれる。完全に制御できているかどうかはまた別問題だ。
「鬼ごっこのおかげでだいぶ走りましたから、予定している場所には早く着くと思いますよ。そこでちゃんと休みましょう」
追いかけてきた車も公務中のパトカーも、今はもう神沢を追うどころではない。当面の危機は去り、ふたりはわずかな休息を得たのだった。
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