合格祝い

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 車で神沢が迎えに行くと、飛鳥が親に買ってもらったというグレーのスーツを着て手を振っていた。
「あのね、合格したの!受かったんだよ!」
 そう留守番電話に入っていたのは一週間前だ。そのとき神沢は折悪しく仕事中で、どうしても都合がつかず、今日になってようやく空いたのでお祝いにと食事に誘ったのだ。
「遅くなってすみません」
「え?時間通りだよ?」
「いえ、そうではなくて」
 助手席に乗り込みシートベルトを締める飛鳥の膝の上に、ぽんとそれを置いた。
「合格おめでとうございます」
「えっ、何?開けてもいい?」
「ええ、どうぞ」
 細長い箱状のものがキレイにラッピングされていた。リボンをそっとほどいて、包装をできるだけ破らないように注意しながら開けていく。ようやく出てきたのは、ふたつの細長い箱だった。どこかで見覚えのある柄の方を開けると、1本のペンが出てきた。
「ボールペン?」
「…万年筆ですよ。これからいろいろと使うでしょうし」
「って、この格子柄見覚えがあるよ。高かったんじゃない?貰っていいの?」
「そのために買ってきたんですから、遠慮なく貰って下さい」
「ねえ、こっちのガラスのは何?」
「ガラスペンですよ。その万年筆を見に行ったときに、一緒に売ってたんです。珍しかったしキレイだったので」
「そんなのあるんだ。私こういうの大好き、ありがとう!」
 嬉しそうに箱に戻すと、包装紙とリボンをキレイにたたんで、一緒にカバンの中にしまう。スーツは新調してもカバンまでは気が回らなかったのか、エンジ色のカバンがスーツに不釣合いだったが、それもまた微笑ましい。
「一緒にでかけるのって久しぶりだよね」
「そうですね、ハロウィン以来ですからね。冬休みには何度かお会いしましたが」
「そ…その節はご無理を……」
 どうしても不安で仕方が無くて、神沢を呼びつけて勉強を見てもらったのだ。ちょうど仕事が忙しかったのに、わずかな時間を都合して来てくれたのが嬉しかった。
「これで落ちられたら目も当てられませんけどね。受かったんだからいいですよ。お役に立てて幸いです」
 出会った頃の一年前ならイヤミにしか聞こえなかったであろう言葉が、今はすんなりと耳に入ってくるのは何故だろう。そして同時に思うのだ。自分は神沢の何か役に立てないだろうかと。いつも守られるばかりで、一度でも神沢の力になれたことがあっただろうか。
「今日は何処に行くの?」
「ホテルですよ。食事の前にコンサートに行きましょう。何とかチケットが取れて良かった」
「コンサート?何なに?」
「スカイチャペルでフルートのコンサートがあるそうですよ」
「スカイチャペル!行きたい行きたい!!」
 隣ではしゃぐ飛鳥を横目で見ながら、神沢もそっと微笑んだ。


「うわ…っ」
 その景色に飛鳥は言葉を失った。
「ギリギリだったので席が後ろの方になってしまって」
「そんなの全然…すごい、鐘の向こうに星空がある」
 白を基調にしたそのチャペルには、鐘の背景に大きな窓があった。高層ホテルの最上階に位置するチャペルから見るその景色は、何ものにも遮られることのない満天の星空だ。夢のような幻想的な景色に、飛鳥は感嘆のため息しかでない。
 時計を見て席に座るよう飛鳥に促して、神沢も隣に腰掛けた。まだきょろきょろとしている飛鳥の手に触れて、そっと囁く。
「後でお話があるんです。聞いていただけますか」
「?うん、いいよ」
 何だろうと首を傾げた飛鳥だったが、コンサートの始まりを告げる鐘に、視線をステージに戻した。

 レストランの椅子にかけてもまだ夢見心地の飛鳥は、フォークとナイフを手にしたままでぽや〜っとしていた。そんな飛鳥を苦笑しながら神沢が見守っている。
「いいなあ…ああいうの憧れだなぁ…」
 おそらくスカイチャペルでウエディングドレスに身を包んだ自分の将来の姿を想像しているのだろう。その隣に立つ相手も想像に含まれているんだろうかと思いつつ、神沢も飛鳥のウエディング姿を想像して微笑んだ。きっと愛らしい花嫁になるだろう。
「満足していただけたようで何よりです」
「いいよね〜…昼間だったら街とかが見えるんだろうな〜」
「案内を見ましたが、昼は海が見えるそうですよ」
「海!?星空もいいけど海もいいな〜」
 空高くにあるチャペルに降り注ぐ太陽光は、あの白い壁と窓から見える紺碧の海の見事なコントラストを描くことだろう。目を輝かせながら語る飛鳥の頭の中は、まだ見ぬ幻想の景色で彩られているようだった。きっとコンサートが始まる前に言ったことなど忘れてしまっているだろう。
「ところで、お伺いしても?」
「なに?」
「何故栄養士になりたいと?」
 飛鳥が選んだ大学はそういった大学だった。別に疑問がある訳でもなかったが、何となく気になった。栄養士が悪い訳ではないが、そういった働き口が多い訳でもなく、就職に有利になるとも思えなかったのだ。
「んー…」
 フォークとナイフをかちゃかちゃと言わせながら、飛鳥はしばらく考え込んだ。何か悪いことを言ったのだろうかと不安に思った神沢が他の話題を振る前に、歯切れ悪く飛鳥が答えた。
「ご飯食べてないみたいだったから」
「…は?」
「だから、忙しくてあんまりちゃんとご飯食べてないみたいだったから。栄養とか考えた方がいいと思うんだけど、家庭科で習う範囲じゃちょっと解らなかったし。…だから」
 主語が抜けているのは故意だろうか。できればその、主語を入れてもう一度言って欲しいのだが。
「あの、飛鳥さん」
「だいたいね、おかしいんだってばあの冷蔵庫!何で氷と飲み物と冷凍のうどんしか入ってない訳!?うどん入れとくならせめて葱とか買って来なさいよ!」
 神沢が探偵事務所を移転したときに、しばらくしてから飛鳥が遊びに来たことがある。事務所兼自宅のそこの冷蔵庫の中身は、確かにとてもスッキリしてはいたが。
「いえその、生鮮食品は以前腐らせたことがあるので…素うどん好きですし」
「うどんの麺なんて炭水化物でしょう!?ちゃんとビタミンとか取らなきゃダメじゃない」
「それはサプリメントとか、外食もしますし」
「基本的な問題の解決になってないの!外食って言ったって、こんなレストランじゃないでしょう?コンビニ弁当とかチェーン店のカツ丼とかでしょう」
「…見てたんですか」
「ゴミにお弁当の容器入ってたし。仕事中だと多分そんなところだろうなーと思って」
「なかなか推理力がおありで」
「ごまかされないから」
 まさか飛鳥に説教食らうとは思っていなかった神沢は大人しく口をつぐんで食事を進めていたのだが、ふとその手を止めた。
「えっと、その……要約すると、もしかして私のため、でしょうか」
「さっきからそう言ってるじゃないっ」
 言ってません。とりあえず主語抜けてます。
 手を止めた神沢とは反対に、がちゃがちゃと慌しく手と口を動かす飛鳥を眺めて、口元がだらしなく緩むのを必死にこらえた。ややうつむいていても、頬が紅潮しているのが解る。そんな飛鳥がどうしようもなく、愛しい。
「ありがとうございます」
 うやうやしく頭を垂れる神沢に、飛鳥がぷぅっとふてくされた。そんな他人行儀じゃなくて、もっとその…ああもう、何て言えばいいんだろう。
「別に…ずっと迷惑ばっかりかけてたから、何か役に立てればいいなって思っただけ」
 本音を言えば、もっとふたりの距離を縮めたい。なのに神沢はどこまで行っても一定の距離を保つのだ。ハロウィンのときも結局ほっぺちゅー止まりだったし、いつになったらもっと近づけるのだろう。
「そういえば、話があるって言ってなかった?」
 デザートを持ってきたウェイターが下がってから、思い出したように飛鳥が切り出した。ふてくされたままでこの場を立つのはいやだった。
「覚えていてくれたんですか」
「どういう意味」
「忘れられてしまったかと思いました」
 いや、確かに少し忘れてたかも。
「で、何?」
 チョコソースのかけられたバニラアイスを口に運びながら、飛鳥が尋ねる。で? などと言われるとどうしたものかとも思うのだが、神沢もここまできて尻尾を巻いて逃げ出すのもどうかと腹を括った。
「実はまだ、飛鳥さんに言ってないことがあったんです」
「…言ってないこと?」
 何だろうかと手を止めた飛鳥と、神沢の目が合った。
「好きです」
 短いが、ハッキリとした声で神沢が言った。
「えっと………え?」
「結構覚悟が要ったんですけど、もう一度言わないといけませんか?」
「だって…えっと、だって……だって」
 混乱して何を言っていいか解らない飛鳥を見て、神沢がわずかにうつむいた。飛鳥が自分に好意を持ってくれているのは知っていたが、自分と彼女の「好意」には隔たりがあったのかと、小さくため息をつく。
「すみません、ご迷惑でしたら聞かなかったことにして下さい」
「ち、違うの、そうじゃなくて!」
 迷惑な訳がない。そしてふと思うのだ。飛鳥もまた、『言っていないこと』があったのではないかと。
「私も…好きだから」
 飛鳥もまたうつむいて、ざくりとアイスにスプーンを突き立てた。少し大きめのかたまりを口に入れても、味がまるで解らなかった。その間、神沢がどんな表情をしていたのかは解らない。ただ、アイスを食べ終わった後にどれだけかしてから、出ましょうかという声に従っただけだった。

 今、ものすごくしあわせなはずなのに、混乱して頭がついていかない。エレベータの前で並ぶ神沢はいつも通りなのに、どうして自分ばかりがこんな取り乱すのかと、みっともない姿を見せて恥ずかしいと、どうしようもないことばかり考えてしまう。あれは聞き違いだったのだろうか、空耳だったのだろうか?
 長いこと待たされたエレベータには、乗客は他に誰もいなかった。何を言っていいか解らず黙り込む飛鳥に、その密室は苦しかった。
「飛鳥さん」
「は、はいっ!?」
 弾かれるように顔を上げると、神沢が笑っていた。
「…チョコレートがついていますよ」
 アイスにかかっていたソースだろう。あまりの恥ずかしさに手の甲で口を拭おうとした飛鳥だったが、その手を神沢に止められてしまった。余計に恥ずかしくなって顔を真っ赤にして何か訴えようとしたのだが、意味をなさない言葉が出てくるよりも早く、神沢の唇がそれを塞いでしまった。
「ん……っ」
 重苦しかったはずの密室の空気が、一瞬で薔薇色に染まったような気がした。混乱していた頭の中が、一気に整理されていく。聞き間違いでも、空耳でもない。確かに神沢は言ってくれたのだ、飛鳥が望んだままの言葉を。
「ウソです」
 身体を離して神沢が囁いた。ぽかんとした飛鳥の耳元で、続ける。
「チョコレートなんて、ついてませんよ」
 ただ、そうしたかっただけ。
「〜〜〜!!」
 言いかけた飛鳥を阻むように、エレベータの扉が開いた。悔しそうな飛鳥の表情に、神沢がこらえきれずに小さく吹きだした。反論する代わりに思い切り神沢の足をヒールで踏みつけると、ずかずかとエレベータから飛び出す。
「なんてことするんですか」
「舌を抜かれるよりマシでしょ」
「確かに」
 顔を見合わせて、笑った。
「さて、遅くなってしまいました。ご両親に心配をかけてはいけませんしね」
「え…私」
 今日は帰りたくない、ずっと一緒にいたいと言いかけた飛鳥の頭をなでて、神沢が続ける。
「ゴールデンウィークになったら、富士五湖めぐりに行きませんか」
「富士五湖?」
「ええ、富士五湖です。晴れたら富士山が鏡を五つも持っているというのが解りますよ」
「ちょっと遠くない? 大丈夫?」
「ええ、だから泊まりになってしまいますけど」
 目を合わせられなかった。代わりに、そっと手をつなぐ。
「…ちゃんとスケジュール空けといてくれるんでしょうね? 仕事でドタキャンとかないでしょうね」
「ええ。飛鳥さんこそ新しくできたお友達と約束とか入れないで下さいね」
 きゅっと手を握り返す。そのぬくもりさえ、愛しい。

 見つめあわなくても、つながっていられる。手を離しても残るぬくもりが、いつまでも心に残る。運転席と助手席で、目を合わせることもなく、ついに言葉を発することもなかったが、ふたり思い描くことは同じだった。
 あのスカイチャペルの鐘を鳴らすのはいつだろう、と。

2004.01.25

■後書■
 本編終了から1年後。飛鳥も無事に高校を卒業できました。
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