どこか遠くで、懐かしい声がする。
 あれは誰の声だったろう。
 闇の中で、けれど優しい声がする……。

「女の子でしょうか、男の子でしょうか……どちらだと思います?」
「どちらでもいいさ。元気な子なら」
 穏やかな優しい声は……そう、サウィンの声だ。やはり穏やかでハスキーな声は、魔道士リーヴ・アープの声に間違いない。
「元気なことだけは間違いないかと……だってこんなにもお腹を蹴るんですもの」
「その、お腹を蹴るというのは……解るものなのか?」
「解りますよ、触ってみますか?」
「え、触っ……て……」
「ほら」
 どうしたものかとためらったリーヴの右手を捕まえて、サウィンが自分の大きくなった腹部にあてる。
「……ちゃんと解るのですね。こんなにも元気に動いて」
「……ああ、本当だ……」
 リーヴが手を当てたそこに、胎児がかわいらしい蹴りを入れてきた。まだ呼吸もしていないのに、生まれてもいないのに、新しい生命としてこんなにも主張している。生命としてこんなにも強く瞬いている。
「なんというか、その……」
「どうか?」
「うん……」
 そっとサウィンから手を離すと、その手をじっと見つめて歯切れ悪く呟いた。
「おかしなものだな……。お前と出会う前は、私は生涯妻を娶ることはないと思っていたのだが……それがこうして父親になるとは、なんというか、その」
 どんなことに対してもきちんと論理的に説明する彼にしては非常に珍しく、頭をかいて口の中でもごもご呟いている。そんな姿を自分以外にはほとんど見せたことがないのだと知っているサウィンは、そんなリーヴを見てつい嬉しくなってしまう。
「それも、運命というものでしょうか?」
「さて……?」
 首を傾げて微笑み合い、ふと真顔に戻ってリーヴが呟く。
「だが……この子は運命を背負っている。生まれる前からすでに重い運命を背負わされて……生まれてくる。この子が大きくなったとき、私は何と言ってやればよいのだろう」
 その答えを、サウィンは知らない。だがこの子に運命を背負わせたことを罪とリーヴが苦しむのなら、それはサウィンも同罪なのだ。彼女もまた知っていたから。ふたりが出会い結ばれて生まれてくる子は、重く辛い運命を背負うことになるのだと。それは最初から予言されていたことだ。知ったうえで、ふたりは互いを求めたのだ。
「この子は私を呪うだろうか? それとも憎むだろうか? あるいは殺したいとさえ思うのだろうか?」
 その重い運命を嘆き苦しんで、両親を恨むだろうか。そうなることを知っていたのに何故、といつか掴みかかってくるのだろうか。
 サウィンはただ、黙って聞いている。あの予言を突きつけられたとき、それでも信じたいと言ったのは彼女だ。運命を変えてみせると言ったのはリーヴだった。叶うものなら、あの予言を覆してしまいたい。そのためにできることならば、どんなことでもしてみせるだろう。
「それでも   
 一度言葉を切って、リーヴは再びサウィンの腹部に手を当てる。
「それでもきっと、私はこの子を守ってみせる。どんなことをしても   
 お腹の中にいる運命の子に語りかけるようでもあり、自分自身に言い聞かせるようでもあったリーヴの呟き。その決意は、サウィンと何ら変わることはない。父として、母として、やれるだけの精一杯をこの子にしてやりたい、その思いだけは譲れない。
 やはりサウィンは無言だった。だが、ふとリーヴと目を合わせて微笑んだ。硬い表情のままだったリーヴも、そっと微笑んだ。
「……守るのは、この子だけですか?」
 拗ねたように訴えたサウィンに、リーヴが思わず小さく吹き出してしまった。まさかそうくるとは全く予想していなかった。
 答える代わりに、腹部に触れていた右手でサウィンの頬に触れる。男性にしては華奢な手に包まれて、サウィンは静かに目を閉じた。最初に出会ったとき   あの運命の刻もこうして頬に触れられたなと、あの優しい温もりを思い出しながら。
「私は……お前にめぐり逢えたことをしあわせに思うよ」
 やはりリーヴも同じことを思い出していたのだろう。サウィンも何か言いかけたのだが、それを言葉にする前に優しく唇を塞がれてしまって、何も言えなくなってしまった。
    私もしあわせに思います。
 そう、言いたかったのだが。
 今は夫のぬくもりを感じていよう。

 ドンドンドンッ!

「……」
「……」

 ドンドンドンッ!

「……」
「…………」

 ドンドンッ!
「誰もいないのか?リーヴ?」

「あの、バカ」
 身体を離したリーヴが頭を抱えて吐き捨てた。そんな様子を見てサウィンが苦笑する。
「いったい何だと……追い返してやろうか」
「でも、きっと……」
 言いかけたサウィンの言葉を代弁するように、ドアの向こうでもうひとりの声がする。
「ダメよ、そんなに乱暴に叩いたら。サウィンさんは今身重なんだから静かにしないと」
 鈴をころがすような、愛らしい聞きなれた声。
「ほら、ご一緒ですもの」
「……追い返す訳にはいかなくなったな」
 本気で追い返す気だったんだろうか。
「それ以上叩くな、ドアが壊れる!」
 仕方ないというのを背中で語りながら、リーヴが扉に向かっていく。そんな夫の背中を見つめながらサウィンは今の小さなしあわせをかみしめていた。
 こんな当たり前の日常が、いつまでも続けばいいと祈りながら   




「……エリス?」
 すぐ耳元でした声に、エリスはハッと目を覚ました。
「リグルさん?」
「悲しい夢でも……?」
 温かい指で涙を拭われて、エリスは初めて自分が泣いていたことを知る。
「悲しかったわけじゃないと……思うんだけど……」
 どんな夢だったのだろう。たった今まで見ていた夢だというのに、もう思い出せないでいる。
「あのね、夢に両親が出てきたの……私が生まれる前だと思うんだけど……。それにね、ウュリアおじ様やベルティーナおば様もいたのよ? 何を話してたのかは覚えてないんだけど、なんとなく……しあわせな夢だったような気がする……」
「しあわせだったんだ?」
「うん、そう。なのになんで泣いてたんだろう?」
「……そんなこともあるよね」
 悲しいわけじゃないのに涙が溢れてくることも、ある。
「リグルさんはずっと起きてたの?」
 急に話を振られてしばし瞬きをしたが、なんとなく目が覚めたんだよと微笑んだ。
「ほら、まだ夜中だよ。明日も早いからちゃんと寝ないと」
「うん……あのね、ひとつお願いしてもいい?」
 何? とリグルが首を傾げると、エリスは頬を赤らめて、
「……いいこ いいこ、して……」
 笑われるかと思ってきゅーっと目を閉じてしまったが、ふわりと触れる感触にそっと片目を開いて様子を見てみる。言われた通りにエリスの頭をなでているリグルが、狭い視界の中で微笑んでいた。
「いつまでたっても変わらないなあ」
「……そんなこと、ないもん……」
 そんなことないと言いつつも、幼い日の頃のようにウトウトし始めるエリスだった。やがて呼吸音が規則正しくなると、リグルはようやくエリスの頭をなでるのをやめ、そっと彼女の前髪をかきあげた。
「おやすみ、エリス」
 閉じられた彼女のまぶたに、優しくくちづけた。
 もう涙があふれてきませんように、と。



2002.10.25

■後書■
 外伝「金色の魔道士」の後を夢に見ている本編後のエリス。