その日はどこまでも晴れ渡った空がすがすがしかった。時折吹く風は爽やかで、大地を照らす日差しはとても優しい。久々に出た中庭で、ロゼーヌは静かに深呼吸した。
 普段は王宮の最奥にほとんど軟禁状態なのだが、一応『王妃』というジルベール国内第二の地位を持つロゼーヌ・ジルベールが庭に出ると言えば、その要求が拒絶されることはまずない。ただロゼーヌ自身が敵であるジルベールに人質として嫁いでいるという立場上、そして何より彼女自身の意思であてがわれた部屋から出たがらないだけだ。
 この国の王妃として嫁いで半年   
 王宮の最も奥に閉じ込めるように部屋をあてがわれてから、数えるほども部屋を出たことはない。夫であるはずの国王さえ訪れぬその部屋にただひとり、人質としてただ生きてきた。身の回りの世話をする侍女たちとも特に会話をするでもなし、一応監視役なのか騎士見習の少年とまれに口をきくだけだ。すべての感情を殺してただ時が過ぎ去るのを待つ生活。
 そんな生活にはもう慣れたはずだったが、窓の外から見える空の青さに誘われて、なんとなく中庭に出たくなったのだ。中庭に案内するよう監視役の少年に告げると、驚いた様子ではあったが素直に承諾し、腰に下げた剣を何度も確認して王妃を中庭に導いた。
 頬をなでる風のなんと心地よいことか!
 普段部屋にこもりきりのロゼーヌは風を感じるのも久しぶりだった。少年に気取られぬよう静かに深呼吸した。
 肺腑の奥まで吸い込んだ空気が、おいしかった。
 心を殺し、ただあるだけの毎日の内に、ごく当たり前に存在するささやかな歓びさえ忘れていたことに気づき、ロゼーヌは愕然とした。たった半年で空の青さも風の爽やかさも忘れかけていた。このままずっとこんな生活をしていたら、いつか本当にすべて忘れてしまうのではないか   
 ぞくり。
 自分が人形になったかのような錯覚に襲われて、ロゼーヌはとっさに自分自身を抱きしめた。
「ロゼーヌさま? 何かお召しになるものを   
「いえ」
 感覚は、確かにある。自分は人間。生きている人間。
 微笑を浮かべることなく王妃は告げた。
「……ひとりにして下さい。私は逃げも隠れもいたしませぬゆえ」
 躊躇したようだったが最終的に少年は王妃の要求を飲み、その場を去った。もしかしたら憎らしい騎士団長に報告に行ったのかもしれなかったが、そのときはそのときだ。
 この空のようにこの心が晴れ渡るのはいつだろう   

 しばらくしてやはりこころもち涼しくなったのか、ロゼーヌはひとりで部屋に戻ろうとした。が、普段から部屋を出ることがないロゼーヌはこの王宮の内部に詳しくない。さほど時間を要することもなく自室に戻る道を見失ってしまった。
(…………)
 ひとりにしてくれと言ったのは自分だし、それで道に迷いました部屋まで案内してくださいと誰かを呼びつけるのもみっともないし、どうしたものかとあてどなく歩いていたのだが、ふと甘い香りがして足を止めた。
「ロゼーヌさま?」
 振り返ると、そこに両手いっぱいに白い花を抱えたアープ夫人がいた。結婚して王宮から出たはずの彼女が何故ここに、と思っていると、先にアープ夫人の方から話しかけてきた。
「どうかされたのですか」
 ロゼーヌの故郷モルタヴィアでは下々の者が王族に話しかけることなどもっての他だった。だが歴史が浅いジルベールではそれほど窮屈なしきたりがあるわけではなく、アープ夫人に悪気がある訳ではないとわかってはいるのだが。
「王妃が王宮にいてはいけませんか」
 つい、角の立つ言い回しをしてしまった。
「い、いえ……申し訳ありません」
 深く頭を下げてアープ夫人はそのままロゼーヌの横を通り過ぎようとした。
「……その花は?」
 白く甘い香りを放つその花を、そんなにたくさんどうしようというのか。
「庭にあった花がこんなにも増えてしまって……。せっかくきれいに咲いたのだから陛下に届けるようにとアープが……」
 黙って話を聞いていたロゼーヌだったが、不意にアープ夫人に一輪の花を差し出されて目を丸くした。
「……」
「よろしければ、お受け取り下さいませ。花もきっと喜びます」
 言葉を失っている王妃にアープ夫人が微笑んだ。
「ですがこれは陛下への……」
 無理やり押し付けられた花を手に取ってしまってから、慌てて王妃が訴えたのだが、アープ夫人はとてもお似合いです、と微笑み一礼して踵を返してしまった。
 ……どうすれば……まあ、いいか。
 ジルベールに嫁いでから、誰かに純粋な好意で贈り物をされたことがなかったロゼーヌにとって、アープ夫人の無償の微笑みがまぶしくて。
 心から、嬉しかった。
 アープ夫人に道に迷ったことを打ち明ければよかったかと思いつつ、後悔先に立たずで適当に歩いていたのだが、扉が少し開いたままの部屋を見つけて足を止めた。
 それまで両手で持っていた花を左手に持つと、音を立てぬよう静かに右手で扉を開ける。書斎らしいそこは王宮にしては珍しくやや狭い部屋で、壁に何の飾りもなく実に質素だった。こんな部屋があったのかとロゼーヌは好奇心を刺激されてそっと部屋に入ると、そのまま扉を閉めた。
(……!?)
 扉の影で見えなかったソファに、誰かが横になっていた。顔に広げた本を乗せているため誰かは解らないが、男性であることだけは解る。
 仕事をサボっているのだろうか、数冊積んだ本を枕に、すやすやと規則正しい寝息を立てている。
 どうしたものかとその様子を眺めていたロゼーヌだったが、突然男が向きを変え、本が落ちた音にびくりと身体を震わせた。
    陛下!?
 こんな狭い書斎で居眠りをしていたのは国王ルーク・ジルベールその人であった。もしや気づかれたのかと思い身を強張らせていたのだが、単に寝返りを打っただけらしく、目を覚ます気配はない。
(何故こんなところで)
 だいたいの位置しか把握していないが、王の執務室はここから離れているはずだ。こんなところでひとりで寝転がっているということは、こっそり仕事を抜け出したというところだろうか。
 初めて見る夫の寝顔は、モルタヴィアに攻め入ったのと同一人物であるとは思えないほどに無防備で、どこかあどけなかった。
 もう、ルークは忘れてしまったのだろうか。永い戦争に終わりを告げたあのときよりも以前に、ふたりめぐり合っていたことを。
 ロゼーヌの父ファリウスは病に伏していた。もう長くはないであろう父をせめて慰めようと、王宮を抜け出して花を摘みに行ったのだ。そこで出会った見知らぬ騎士。言葉も交わさぬまま花を捧げてくれた瞬間に、ロゼーヌは名も知らぬ騎士に夢中になっていた。
 まさかそれが、敵国の王であるとは思いもしなかったけれど。
 どんな運命の皮肉か、その敵国の王の元に嫁ぐことになった。
 父の敵に嫁ぐなんて、人質として生きていくなんてと思う反面、心のどこかではやはり嬉しかった。夢にまで見たあの騎士の花嫁になれることが、純粋な少女として嬉しかったのだ。
 だが現実は冷たかった。
 夫となったルークは優しい言葉どころか声さえかけてくれることはなく、婚礼のときに接吻した以外には触れてくることもなかった。妻を王宮の奥に閉じ込めて、顔を合わせることもほとんどない。名を呼んでくれたことさえ、一度もない。
 あのとき花を捧げてくれたのは、ただの気まぐれだったのだろうか。それとも誰にでもそうしているのだろうか。あるいは、モルタヴィアの王女と知って忌み嫌われてしまったのだろうか   
 急に涙がこぼれそうになって、ロゼーヌは慌てて乱暴に目をこすった。

(え……)

 一瞬、涙がこぼれてルークの頬に落ちたのかと思った。
 だが間違いなくそれはルークの閉じられたままの瞳から頬に伝ったものだった。

 涙   

 国王ルークが、どんな夢を見ているのだろう。まるでロゼーヌと心を合わせたかのように、眠りについたままで泣いていた。
 ルーク・ジルベールを憎く思うのは本当。
 だが同時に、憎みきれないのも、事実だ。
 思いもよらぬルークの涙に困惑しながらも、ロゼーヌはそっと夫の髪をなでた。
 涙が乾くまで、いつまでも……。

「ロゼーヌさま! こんなところにいらしたのですね」
 日が傾いた頃部屋を出ると、しばらく歩いたところで少年に会った。多分あの後、立ち去ったフリをして様子を窺っていたのだろう。でなければこんな都合よく現れる訳がない。
「何事もなかったからよかったようなものの、もしロゼーヌさまに何かあったらどうされるのです。今後は……」
「私の身に何かあって、誰が心配するというのです」
 小うるさい少年に冷たく言い放った。自分が王妃とは名ばかりで、ジルベールの者たちにとってはモルタヴィアの王女でしかないことを知っている。
 少年は一瞬言葉に詰まったようだったが、うつむいて呟いたのだった。
「……私が悲しいです……」
 うつむいたまま拳を握り締めている少年に何と言っていいか解らず、ロゼーヌは困惑してしまった。こんなふうに、自分の心配をしてくれる者もいるのか。
「花瓶はありますか」
「え?」
 唐突に訊かれ、少年が何事か解らずに顔をあげる。
「アープ夫人にいただいた花を生けたいのです」
「えっと……いろいろあると思いますが……侍女に持って来てもらい……」
「いえ、あなたが選んでください。この花に似合う花瓶を」
 ロゼーヌに向けられた突然の微笑に、少年は赤くなった。
「いい加減に起きろッ!!」
 黒髪の騎士ウュリア・シルヴィアに蹴っ飛ばされて、ルークはようやく目を覚ました。
「どれだけ探しても見つからないと思ったら……!!」
「……なんだ、夢か……」
 たたき起こされて噛み付いてくるかと思っていたのだが、予想に反する国王の反応に拍子抜けしてしまった。
「いい夢でも見たのか?」
「ん〜……」
「よーく眠れたみたいだしなぁ、仕事をサボッた分はきっちり働いてもらうからな」
 言い淀んだルークの答えを待たずにウュリアは国王の腕を掴んだ。
「い、いやその」
「リーヴが部屋でお待ちかねだぞ。楽しみだなあ」
 意地悪な笑顔で国王を連行する。いったいどれだけ小言をもらえば解放されるというのか。

 絶対にあり得るはずのない、それは夢。
 自分のかたわらで、愛する妻が微笑みかけてくれるなどと。
 ただの夢なのに、ひどく生々しくて、思い出しただけで胸が高鳴りそうな。
 絶対にあり得るはずのない、それは夢。
 彼女の敵である自分に微笑が向けられることなど、ない。
 それでも。
 夢に見るだけで、しあわせだった。

 ウュリアに引っ張り出され、夢の名残を惜しむように部屋を振り返ったが、何かあるはずもなく、ルークは思い切るように扉を閉めた。

 その部屋に残ったのは、甘やかな香りだけ   

2003.02.08

■後書■
 外伝「英雄王」内1エピソード? ロゼーヌは結構アープ夫人のことは気に入ってる様子。