緑影騎士−竜騎士の降臨−

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6.

「はあ!? お前それでいいのかよ?」
 延々と五分は続くガゼルの呆れと怒りが入り交じった大声を浴び続け、リグルは憮然として厨房に立っていた。
 夕食を用意しようとしていたガゼルにエリスはしばらく戻らないと告げると、そこから延々お説教にも似たありがたくもないお言葉が続いてしまい、仕方なくリグルが自分で用意しようとするとその手を止められてしまったのだ。特に空腹も感じていなかったのでいっそ食事を抜こうかとも思ったのだが、立ちはだかるガゼルの巨体はリグルを逃がしてはくれなさそうだ。

 エルフとともにエリスが消えてから──。
 リグルは伸ばした手の先に、触れるはずの存在がいないことを認識するまでに随分の時を要した。まさに触れ合う寸前だった指先にはエリスの温もりの余韻さえ感じるのに、目の前に彼女の姿はなく、ただ風がひゅうと通り抜けるだけだ。
 一瞬で、別れを惜しむ時間すらなく消えてしまった彼女は、この世界のどこにも存在しない。この世界と精霊界の隙間にいる彼女の気配を感じることはできない。
 ──ああ、エリスはいないんだ。
 ようやくその事実を飲み込んで、リグルはひとりで村に戻り、いつもそうするように宿屋の馬小屋で馬の世話をし、薪を割り、井戸から水を汲んだ。
 いつもなら夕方にエリスを迎えに行き、彼女を連れて宿屋に戻りガゼルとともに三人で食事を取る。夕方になってもエリスを迎えに行こうとしないリグルを不審に思ったガゼルが声をかけ、事の次第を説明したところで冒頭に戻る。
「それでいいのかって言われても、エリスが了承済みだよ。俺に止める権利なんかない」
 ただ、その場でいなくなるとは思わなかっただけで。
「お前さあ、エリスが他の男と自分の手の届かない場所で二人っきりだぜ? 平気なのかよ」
「は……?」
「しかもそれ、あのエルフがいなきゃ行けない場所だろ。エリスの意思じゃ出られないかもしれない場所だぜ? そういうの平気なのかって聞いてるんだよ」
「そういうの、って。言われても」
 好きな女が他の男と誰の手も届かない場所で二人きりで、長期間滞在する。それに伴う危険性を、リグルは気にしないのか。
(いやこれ、気にしないっつうか、気付いてないのか?)
 ガゼルは二人の関係性は恋人同士だと思っていたのだが、勘違いだったのか。本当に単なる幼馴染としか思っていないのか、そもそも男女が二人きりで過ごすことに関して何とも思っていない──というより、考えが及ばないのではないか。
「あー……、うん。まあ、お前が気にしないなら、まあ、いいけどよ」
 言いながら軽く手でリグルをしっしと払うと、若干眉間に皺を寄せながら厨房を出る。
「メシ。食うだろ」
 空腹は感じていなかったが、用意されるならとリグルは無言で頷いた。
「じゃあ食堂でちょっと待ってろ」
 リグルを完全に追い払ってしまうと、ガゼルは籠の中から野菜をいくつか取り出して手際よく皮をむきひと口大に切っていく。
(恋人とかじゃなくてもよ、なんかこう、お互い好き合ってるもんだと思ってたんだがなあ)
 二人がやってきた日の翌朝の会話を思い出す。確かにどちらも相手をどう想っているかは一言も言っていない。お互いにそばにいたいとは思っているようだが、男女が求め合うそれとは違うのかもしれない。
 火を通した野菜にひとつまみの乾燥した香草を加えると、清々しい香りが厨房を満たしてガゼルの煮詰まった頭をすっとさせたが、だからといって考えがまとまるはずもない。調味料で味を整え味見すると、ガゼルはひとり頷いて大皿に料理を盛った。

 大皿ひとつ、小鉢二つ。作り置きのスープに酒の入ったコップをどんとテーブルにふたつ置くと、ガゼルはリグルの正面にどかりと座った。きつい酒の匂いにリグルが眉間に皺を寄せたが、お構いなしにガゼルが喉をごくりとならしながら酒を飲む。
 何かまたお小言をもらうのではないか、あるいは酔わせて何かを吐かせようとしているのではないかと危惧したが、リグルの心配に反してガゼルは無言で酒を飲み、料理を平らげていく。
「明日、一度家に帰るよ」
 沈黙を先に破ったのはリグルだった。無言で圧をかけていたガゼルは気の抜けたようにコップを置いた。
「急だな」
「元々剣ができるまでのひと月くらいのつもりだったから……半年もこっちにいる予定じゃなかったから、一度戻って準備をしないと。それに家の整理もしたいし」
「……そうか」
「一週間で戻るよ。エリスの部屋はそのままにしておいてくれるかな」
「分かった。例の奴、用意しとくか」
「頼んでもいいかな」
「おう」
 エリスの件でいろいろと問い詰めたいことがあったのだが、今更言う気にもなれず、ガゼルは無言で酒を仰いだ。リグルもただ静かに食事を口に運んだ。香草の清々しい香りが頭の中の靄をすっと消してくれる。それを言葉にしようとして、リグルは野菜と共に飲み込んだ。
 こんな時、料理の感想を言うのはいつもエリスだった。彼女が美味しいと言えばリグルが頷き、ガゼルが得意そうに料理の隠し味や素材について話し出す。だが彼女は今、ここにはいない。
 ──静かな食事時だった。

 リグルはエリスの部屋の扉をノックして、静かに誰もいない部屋に入った。夜も更けて暗い部屋に明かりを灯すと、きちんと整理されたベッドや机が照らし出される。
 寝衣はきれいに畳んで枕元に置かれ、荷物もすべてまとめられている。最初にここに来た時とほとんど変わらない状態だった。
 整えられたベッドに腰を下ろし、そのまま倒れ込むように横になった。魔法の訓練で疲れ果てたエリスは、きっと何度も意識を失うように眠りについたことだろう。
 仰向けになって天井を見つめる。耳を澄ませばまだ階下でガゼルが片付けている物音がする。だがその音も止んでしまえばそこは静寂が支配する夜の時間だ。
 寝返りを打って枕に顔を沈めてみても、洗濯されたであろうそこにエリスの気配は微塵も残ってはいない。自分の手を見つめれば、触れ合う寸前だった彼女の指先の温もりさえ思い出せるのに。
「そうか、エリスはいないのか……」
 夕食を終えて部屋に戻れば、翌朝まで顔を合わせないことなどざらだった。なのに今夜に限って、この居所のなさのような、薄ら寒いような、肌がざわついて落ち着かないような感じは何なのだろう。
 今頃は剣と魔法の訓練に明け暮れているのだろうか。行ったこともない場所で彼女がどう過ごしているかなど、想像すらできない。ただ何となく、泣いてはいないのだろうと思う。きっと泣く暇などないはずだ。
 この部屋でエリスは何度ひとりで泣いただろう。大丈夫かと問えば笑顔で答える彼女の気丈さが、心配であり寂しくもあり──
 そこまで考えて、リグルはぎゅうと胸を掴んで固く目を閉じた。
(朝になったらこの変な感じも消えてくれるのかな……)
 祈る気持ちで睡魔を待ち続け、ようやく眠りについたのは夜半過ぎのことだった。

 寝た気がしないまま目覚めたリグルは結局心の靄も晴れないままで、のろのろと身体を起こした。部屋を見渡せば見慣れない景色で、エリスの部屋でそのまま寝てしまったことを思い出す。
(ああ、そうだった)
 エリスがいないことを改めて思い知らされて、大きくため息をついて天井を見上げた。昨日の朝までは彼女はこの景色を見ていたのかと思いを馳せても、心はざらつくばかりで一向にすっきりとしない。心の靄を振り払うようにベッドから降りると、リグルは足早に部屋を後にした。
 階段を降りるとちょうど階段を上ろうとしたガゼルと出くわした。
「おうリグル、今朝は珍しく遅かったな。メシの準備できてるぜ?」
 リグルを呼びに行こうとしていたらしいガゼルは、声をかけるとそのまま踵を返して食堂へと向かう。
「昨夜ちょっと寝付けなくてね」
「へえ? エリスがいなくなって寂しいのか?」
 からかうようなガゼルの声に、ぴたりとリグルの足が止まる。
「寂しい……?」
「あーん? 何だ違うのかよ。ま、何でもいいけどさっさと食っちまってくれよ。片付けが終わらねえ」
 ガゼルに催促されてリグルが食堂に向かうと、テーブルにはいつもの朝食と、床には大きな荷袋が置かれていた。
「昨日言ってた奴、用意しておいたぜ。いつ出る?」
「朝食を食べたらすぐ行くよ。今回は馬は置いていくから、世話を頼めるかな」
「あの森じゃあ馬は可哀想だもんな。借りてもいいか?」
「いいけど、気が荒いから気を付けろよ」
 ひとしきり笑うとガゼルもリグルの向かいに座り、世間話をしながら朝食を平らげた。
「半年か。長いな」
「向こうじゃあっと言う間なんだろうけどね」
「お前はその間どうするんだよ」
「今回は一週間くらい帰るけど、もう一回くらいは戻らないと。やらなきゃいけないこともあるし。半年きっかりで修行が終わるのかどうか分からないから、その前後はこっちにいるようにするよ。エリスが帰ってくるときにはこっちにいたいしね」
「おう、そうだな」
 食器を片付けようと立ち上がったリグルに続いて、ガゼルも立ち上がった。
「後片付けはやっとくからよ。お前は少し休んどけよ。一応荷物の点検も頼む」
「うん? 分かった」
 リグルが荷袋を開けるのを確認して、ガゼルは重ねた食器を持って足早に食堂を後にする。
(あ〜何だよ〜やっぱり会いてえんじゃねえか〜)
 エリスが半年もいなくなるというのに随分あっさりした反応だな、と昨夜は思っていたが、感情の表現が薄いだけであって心の中はそうではないと知れただけで、無駄に気分が揚がってしまう。思わず顔がにやけそうになり、厨房に駆け込むなりガゼルは口元を手で覆った。
(何だよ何だよ、昨夜すげえ心配したっつうの! あ〜もう早くエリス帰って来ねえかな〜リグルのあの顔見せてやりてえ〜!)
 エリスが帰ってくるときにはこちらにいたい。そう言った時の、花の蕾が開くようなリグルの笑顔。エリスが帰ってくるのを想像したのだろうが、実際に再会したらどんな表情をするのか、ガゼルはそれが見たくて仕方ない。
 野次馬根性もいいところなのだが、見たいものは見たいし気になるものは気になるし、あの二人がもたもたしてる間に何が起こるかも分からないので早々にくっついて欲しいとガゼルは心から願っている。
(あいつら、さっさと幸せにならねえかな)
 エリスが帰って来たときにはどんなご馳走を用意しようかと、半年先の食事を考えながらガゼルは食器を洗い始めた。

 リグルが自宅に戻ったのはちょうど昼頃だった。
 朝食後に荷物の点検をした後、馬小屋に寄って白馬に事の次第とあまり迷惑かけるなよ、と言って鼻先をなでると、理解したのか否かすんとリグルに鼻をすり寄せた。他には特に挨拶することもなく、ひとりで黙々と来た道を戻った。
 リグルがドワーフの村を訪れる時は、いつも父ウュリアと一緒だった。今回来るときはエリスと一緒だった。この転移魔法をひとりで使うのは初めてだ。
「ただいま」
 ドアを開けても、当然の如く返事はない明かりをつけて食糧庫に向かい、荷袋の中身を開けた。
 この森の中の一軒家はかつてエリスの先祖であるアープが住んでおり、少なくとも曾祖父が他の初代三英雄と共にジルベールを建国してからは空き家だったという。そこへ二代目アープ、エリスの祖母にあたるジエルがやってきてドワーフ達に「いつかこの家を訪れる者のために管理して欲しい」と頼んだという。それから三ヶ月に一度、この家に保存食を持ってきてはそれまでの手つかずの保存食を持ち帰っていたという。
 リグルがそれを知ったのは、シルヴィア一家がこの森にやってきて一月も経たない内である。保存食の入れ替えにやってきたガゼルと出くわしたのだ。それ以降、聖母なる森から一番近いジルベールでは魔物が棲むと言われ近づく者はおらず、幸か不幸かこの家にやってきたのはこの十年でシルヴィア一家のみである。
 食糧庫内の保存食を一度持ち出してテーブルに積み上げ、荷袋から出した保存食を庫内に順番に並べて入れ替えていく。それから家からは少し離れた場所にある畑の手入れと野菜の収穫など、黙々と作業を片付けていく。
 森の中の夜は早く、日が暮れるよりも早く周囲が暗くなる。リグルは早めに家に戻ると食事の用意を始めた。
 この森にやってきた時、リグルはまだ十かそこらだった。すべての作業を両親とリグルの三人でこなさなければならないため、料理の手伝いももちろんしていた。おかげでひとりでも食事の用意に困ることはない、のだが。
「……あれ、ひとり分って……?」
 いつも三人分で用意していたため、三人分の分量しか分からない。ガゼルの宿の手伝いもしたが、その時は大人数分を一気に作る。エリスが来てからは主にエリスに任せていたので、いざ自分の分だけ作ろうとしても、どうしていいのか分からない。
 自分が食べる分だけ。食材の量は分かっても、味付けがさっぱり分からない。何となくいつもの三分の一を意識しながら作った料理は、味がぼけてしまって美味しくない上に量を見誤って多く作ってしまった。
 風の音さえない夜の静寂に、咀嚼する音だけがやけに大きく聞こえる。
 ただでさえ美味しくない料理が、沈黙の重みで急速に味を無くしていくようだった。
 いつもは少し手狭に感じていたテーブルも、ひとりではやけに広く感じる。父も、母も、もういない。エリスも今はここにはいない。多少薄暗くても気にすることもなかった明かりが、今は陰鬱にさえ見える。
 何なんだろう、これは。
 無理矢理腹に詰め込むだけの食事を終えて片付けまでしてしまうと、まずは父の部屋の扉を開けた。あの日、突然帰らぬ人となった父の部屋は、未だ主の帰りを待っているようだった。触れてもいないベッドのシーツは、あの日の朝、父が使ったままだ。ところどころに皺が寄り、寝衣も適当に畳んでベッドの上に放り投げられている。部屋の整理をしようと一歩足を踏み入れたところで、リグルは足を止め──踏み出した足を戻して静かに扉を閉めた。
 すぐ隣の母の部屋を開ければ、そこにはもう母の気配はない。たった五日間しかいなかったのに、その部屋はもうエリスの部屋になっていた。出発の日の朝のまま、整えられた部屋がそこにある。
 その隣の自室に入るなり、リグルはベッドに倒れ込んだ。明かりもつけない暗い部屋の天井を見上げても、隣からすすり泣く声が聞こえることもなく──耳が痛くなりそうな程に静かな夜は、かえってリグルの心の落ち着きを奪っていく。頭を、胸を、身体中をかきむしりたい衝動にかられながら、それを実行したところで苛立ちにも似た心の空虚を埋めることはできないことを本能が理解している。
 ──会いたい。
 夜の静けさから逃げるように、リグルは毛布を頭から被って強く目を閉じた。
 半年もこんな夜が続くのかという絶望と、半年後には会えるのだという希望の狭間で揺れながら、リグルは疲れ果てたように眠りに落ちていった。

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