緑影騎士−竜騎士の降臨−
21.
それは重苦しい沈黙だった。
あの戦いは無駄ではなかった。少なくとも独裁政治は終わりを告げた。けれどそれは戦いの副産物でしかない。ディーンにとっての目的は、戦いの序盤ですでに失われていたのだ。
ディーンのすぐそばでずっと支えていたエリスもアレクも、かける言葉が見つからない。リグルは自分もまた同じように、母を救出するという目的は果たされなかったのだと、胸の奥に苦いものが広がるのを感じていた。
沈黙の重圧を断ち切るように、ラスフィールが立ち上がった。両手を後ろ手で縛られているため一瞬よろめきはしたが、その場で踵を揃え背筋を伸ばす。
アレクが慌てて取り押さえようとするよりも早く、ラスフィールは跪いた。
「遅くなりました。ご即位にあたり心よりお祝いを申し上げます。ディーン陛下に太陽神と地母神のご加護があらんことを」
先王の騎士が跪き、新王の即位を祝う。それは叛意がないことを示している。ただし、それが表面上のものなのか、本心なのかは騎士でない者には解らない。
ルーク、ロゼーヌと先代、先々代の王に仕えた翡翠騎士団長に跪かれた現国王ディーンは、取り押さえようとするアレクを制した。
「先の戦いで翡翠騎士副団長、イグナ・レイを討ったのは私だ。あなたは私が憎くないのか」
一瞬、アレクの心が震え上がった。何故今それをここで告げるのか。
試しているのか、それとも刃を向けさせようとしているのか。
「ディー……」
「彼は最期にどんな顔をしていましたか」
遮ろうとしたアレクに気付いたのか否か、ラスフィールが跪き頭を垂れたまま問う。
翡翠騎士副団長イグナ・レイ。騎士団長ラスフィール・アルシオーネとは性格も体格も剣筋も対照的だった。最初は反発もされたが、次第に剣を磨き合うようになった。
翡翠騎士は六名いたが、女王ロゼーヌに心から忠誠を誓っていたのはラスフィールとイグナの二人だけであろう。女王の盾となれなかった彼は、最期にどんな表情をしたのか。
「……満足そうな、穏やかな顔をしていた」
ディーンの剣で胸を貫かれ、吐いた血で身体を染め上げながら、それでも立ち上がった誇り高き翡翠騎士副団長は、地に倒れてとてもやすらかな表情をしていた。
「そうですか」
ラスフィールが顔を上げる。
「では、彼は己の騎士道を全うしたのでしょう。陛下を憎む理由がございません」
目が合った。
ラスフィールの蒼い瞳から表情を読み取ることはできないが、少なくとも彼の言葉に嘘がないことは感じられた。
「……騎士とはそういうものなのか」
ディーンは強い剣士になりたいと思ったことはあっても、騎士になりたいと思ったことはない。騎士道の果てに命を落として、穏やかに眠れるというのか。リグルもそうなのだろうかと、心の奥底で思う。
「少なくとも、我々は」
ラスフィールの言う我々が、どこまでを指しているのか。
ディーンが立ち尽くしたまましばしの思考に浸っていると、静寂の室内にノックの音が響いて扉が少しだけ開いた。
「アレク、取り込み中悪いんだが、ルティナが……」
「ルティナが? あー……いい、出る。代わってくれるか」
入口の見張りのひとりが入ろうとすると、扉の隙間から髪を結った少女が覗き込んでアレクの姿を探した。
「ねえアレクさん、エリスさん達が戻ってきたって聞いたんだけど、夕食は……」
アレクの姿はすぐに見つかった。執務室の中央で。そのすぐ隣で、ディーンの前に跪いている銀髪の、その背中は。
聞き覚えのある声に、ラスフィールが弾かれるように振り返った。
「君は」
「きゃああああ!」
わずかに顔を覗かせていた少女が、悲鳴と共に髪を揺らして姿を消した。
「待……」
「動くな!」
立ち上がろうとしたラスフィールの頭をアレクが容赦なく押さえ付ける。受け身を取ることもできず、ラスフィールは床に顔面を叩きつけられた。
「こいつは適当に縛り付けておいてくれ、俺はルティナを追う」
頭を打ち付けて動けないラスフィールを見張りに委ね、アレクはルティナを追って部屋を飛び出した。その背中を見送りながら、
「……さて、どうしたものかな」
ディーンが深いため息をついた。
***
夕食は食堂ではなく王の執務室に近い部屋で、広いテーブルにディーン、リグル、エリス、アレクの四人が掛けていた。普段はディーンとアレクの二人で、食事の用意と配膳はルティナが行っている。
王宮内で仕事をする者にはかつての兵士用の食堂で用意されるが、いつも決まった時間に食事ができるとは限らないディーンの分は、別にルティナに用意してもらっていた。厨房も別である。これは毒を盛られる可能性を懸念したことと、一時でもエリスと一緒に食事を作っていたルティナなら多少は味付けが似ているだろうというアレクの考えである。
「これからどうするんだ? しばらくこちらにいるのか」
食事をしながらディーンがリグルに問う。
「エリスとも話したんだけど、しばらく滞在しようと思う。あの竜が舞い戻ってこないとも限らないし、万が一の時に備えて戦力は多い方がいいだろうから」
「その間、手伝えることがあったら何でも言って? 私でやれることなら頑張るから」
後を続けたエリスが笑う。
いつもより食が進んでいるディーンを眺めながら、十年前もきっとこうだったのだろうとアレクは思いを馳せた。何てことない雑談も、三人の会話はそこで世界が完結していて他人に入る余地を与えない。
「じゃあさっそくで悪ぃ、エリスに頼みがある」
入る余地がなくても無理矢理入る。うん、と頷いたエリスがスープに浸したパンを咀嚼しながらアレクに向き直る。
「いつも食事はルティナが担当なんだけどよ。明日の朝食から代わって欲しい。朝と夜はこの面子で揃ってここで食事、昼は携帯食を頼む。食材や厨房なんかの詳しいことは明日ルティナに聞いてくれ」
「分かったわ。……でもルティナ、大丈夫かしら」
パンを飲み込んでエリスが視線を落とす。
「そうか、彼女は目の前で父親を殺されたんだったな……」
ディーンの言葉にリグルの手が止まる。
ルティナは目の前で父親を斬殺され、身寄りの無い彼女は反乱軍を頼ってきたのだ。その親の仇がラスフィールである。思いもよらぬ再会の衝撃は、彼女の悲鳴が物語っていた。
「あー……その件なんだが、あの銀髪のことは俺に預けてくれねえか」
「アレク、何か考えが?」
「今はどこもかしこも人手不足だ。使えるもんなら親の仇でも使うっつうの」
アレク自身もラスフィールに斬られて重傷を負ったというのに、復讐ではなく人材として活用するのが合理主義の彼らしい。
「なるほど、アレクらしいな。彼のことは任せる。いいようにしてくれ」
「おう」
アレクがパンに齧り付いた。
「飯が終わったらお前ら二人で風呂に入って来いよ。前の時はそんな余裕もなかったし、少しゆっくりしてきたらどうだ」
お前ら二人で。それはつまり、ディーンとリグルを指している。
驚いたリグルが顔を上げると、アレクの濃茶の瞳と目が合った。
ディーンが眼を瞬かせながら、
「珍しい風の吹き回しじゃないか?」
アレクはリグルのことを嫌っている。理由は十年前に国を捨てたからというよりも、その時にエリスを泣かせたことと、エリスを連れて行ったことに起因している。
「ディーンもまだ病み上がりだからな。ひとりじゃ心許ないだろ」
「熱は昨日下がったし、もうひとりで歩けるのに」
「風呂は溺れる可能性があるからな。見張りはいた方がいい」
ディーンとアレクのやりとりを聞きながら、リグルは黙々と食事を進めた。エリスは会話には入らないが楽しそうに見守っている。
リグルがジルベールを離れていた十年間。その間も残されたディーンとエリスはジルベールで生活を続けていて、リグルがいなくなった後に築かれた関係性もたくさんあるだろう。それを垣間見ているようで、何となく落ち着かない。
「アレクは心配性だなあ……」
苦笑するディーンと、笑うエリスと。続く談笑と。
ここでは自分がよそ者であることを感じながら──リグルはその思いをスープと一緒に飲み込んだのだった。