緑影騎士−竜騎士の降臨−
38.
完全に油断した。
エリスは実の兄を傷つけるようなことはしないだろうと思い込んでいた。まして他者を囮にして、その囮ごと刃で貫くなど──とても予想できなかった。
それは魔王が取り込んだディーンの意識からの影響もあったが、エリスを見くびりすぎていた。
三対の漆黒の翼は虚しく羽ばたき、三人を宙に留める。
エリスが破邪の剣を引き抜くと、ほぼ同時にディーンとラスフィールが血を吐いた。
マントの内側に隠れていたエリスがラスフィールの左肩に触れると、急速にラスフィールが落下した。落下していくラスフィールの肩を蹴り上げて、エリスが滞空する。
鮮血が舞う中でディーンの深紅の瞳がエリスを捉えた。青い瞳が真っ直ぐに見つめ返してくる。
怒りだろうか。悲しみだろうか。
今にもこぼれ落ちそうな涙で揺れる瞳にディーン・アープを映し出す。
「兄さん」
破邪の剣が再びディーンの胸を貫いた。
柄まで深く突き刺さった剣は背中まで貫通し、柄を握るエリスの両手は血に塗れていた。
「……エリ、ス」
ディーンは抜いたままだった剣を鞘に収めると、左手を真っ赤に染まったエリスの両手に重ね──右手でエリスを抱き寄せた。
「辛い思いをさせたな……」
竜の咆哮が響き渡った。
「ラスフィール! ラスフィール!!」
悲鳴のような少女の呼びかけにラスフィールは意識を取り戻した。
重い瞼を開けてみれば、目の前に泣きじゃくるルティナがいる。
「ラス、良かった。まだ止血をしただけだから動かないで」
背後からリグルの声がする。どうやら上半身だけ起こして、リグルにもたれかかっているようだった。
エリスの魔法で落下の衝撃は和らげられたはずだ。先に着地したリグルが落下したラスフィールを安全な場所まで運んだところに、ルティナが駆けつけて治癒魔法をかけたのだろう。右肩と胸に激しい痛みはあるが、右手に剣を握る感覚がある。
ひとつ息をついて空を見上げれば、空に穴があいたかのような漆黒の太陽を背に銀竜が旋回していた。ひとつ大きな咆哮を上げると、地上には見向きもせずに空の彼方へと消えていった。
「……終わったのか」
ラスフィールは震える手で覇皇剣を鞘に収めると、そのまま地面に置いた。リグルが借りていたラスフィールの剣を地面に置き、代わりに覇皇剣を手に取る。
「そうみたいだ。ごめん、俺、行くから」
そっとラスフィールから手を放すと、リグルは立ち上がり駆け出した。
リグルの背中を見送る間も、ルティナはラスフィールにしがみついて泣きじゃくっている。
「ラスフィール、なんて無茶するのよ! 勝手に死ぬなんて許さないって言ったでしょう!? 本当に、本当に……ラスフィール、生きててよかった……ラスフィール……」
何度も何度も、祈るようにラスフィールの名をルティナが呼ぶ。
あの時彼女が叫ばなければ──ラスフィールの意識を呼び止めていなければ、ディーンを掴むこともできず、ただ落下して唯一の好機を逃しただろう。
ラスフィールは幾度もしゃくり上げるルティナの肩を抱き寄せて、
「ラスでいい──ルゥ」
こつりと額を寄せた。
一瞬、涙も声も、息すら止まった。
顔を上げたルティナの目の前に、血に汚れてなお神々しささえ感じるラスフィールの笑顔がある。
「……ラス、フィール」
「ラスでいい」
「ラス」
「……ああ」
吐息とともに、ラスフィールが頷いた。
「ラス──ラス、ラス」
止まったはずの涙がまたぼろぼろとルティナの瞳からこぼれ落ちた。何か言おうとしても嗚咽しか出てこない。
「泣かせるつもりではなかったのだが……」
困惑したまましゃくりあげるルティナを見守っていたが、血に汚れた白いマントを外してルティナに預けると、
「陛下のところへ行かなければ──」
剣を杖代わりにして、ラスフィールが立ち上がった。
三対の漆黒の翼が大きくゆっくりと羽ばたいた。羽ばたく度に翼が少しずつ漆黒の液体となってその滴を零しながら、徐々に地に落ちていく。
「破邪の剣、か……」
エリスを抱きしめたままディーンが小さく呟いた。
「兄さん? 兄さんよね? 魔王は倒せたの?」
エリスが顔を上げれば、そこには青空を切り取ったような澄んだ瞳の兄が寂しそうに笑っていた。
「そうだな……魔王は当分動けなさそうだ。破邪の剣は、かつて魔王を封印した時に使われたそうだ。そんなものをどうしてエリスが……」
「父さんと母さんが遺してくれたの」
苦しそうに話すディーンを心配そうに見上げた。説明していたら時間がかかりすぎる。早く剣を抜いて治癒魔法をかけなければ──
「兄さん、手を放して。一度剣を抜いて、すぐ治癒魔法を」
「エリス」
剣を握るエリスの手をぎゅっと握る。
「魔王は消せない。倒せないんだ」
ディーンの言葉にエリスの顔が青ざめる。
「嘘、だって今、魔王はもう、兄さんは兄さんなのに」
唇が震えて舌がもつれる。喉の奥が急速に締め付けられるようで、声が出ない。
「倒すことはできないが……私が共に連れて行くことはできる」
エリスの爪先が地に降りた。エリスを抱えたままゆっくりと降下したディーンは、一度手を放して両手で大切な妹を抱きしめた。
「私の魂は魔王と一部同化している。完全に分離することは不可能なんだ」
「どうして……!」
「高熱でうなされていたあの時、魔王の思念を夢で感じた。その時に共鳴したんだ。彼が魔王になる前の魂の慟哭に──」
魔王は最初から魔王ではなかった。最初は人として命を芽吹かせた。生まれた後の運命を定められて作られた命は、生まれる前にその運命が他者に託されることになり、生まれてくるはずの命は母体もろとも封印された。
母親の嘆き、怒り、憎しみ、嫉妬、絶望、それらすべてを糧として胎内で育ち続けた命はやがて、自ら母体を食い破ってこの世に生まれ落ちた。
彼はただ生きたかった。何も分からないまま、生きることを求めていた。
成長し、己の身上を知った魔王は母親と同じように嘆き、怒り、憎み、嫉妬し、絶望した。自身が背負うはずだった運命を奪った相手に復讐しようとした。
その復讐は果たされることはなく、残された永遠の絶望が彼を魔王へと変貌させた。
その絶望は、孤独だった。
どこまでも続く、果てのない孤独。胸をかきむしりたくなるような、全身がざらついて焦燥感に駆り立てられるような、身体にぽっかりと穴が空いて冷たい風が吹き込むような、喉が焼き切れるまで叫び出したくなるような、癒やされることのない喉の渇きのような、永遠という言葉さえ生温く感じるような、どこまでも広がる闇の虚空にひとりきりで立ち尽くすような──死に温もりを見出すような、孤独。
魔王の抱く孤独の欠片に、ディーンの心は共鳴した。
仲間がいる。支えてくれる人がいる。信じ合える人がいる。一緒に戦ってくれる人がいる。ひとりで抱え込むなと言ってくれる人がいる。
その人達の顔を思い出しながら、ひとりひとり名を上げていくことだってできる。
皆がそばにいてくれる。背中を守ってくれる。時には手を引いてくれる。
大切な人達がいてくれると、ディーンはよく解っている。
けれど同時に、どうしようもない孤独を感じることがある。
太陽を目指して歩くディーンの足下に、ひたひたとつきまとう影のように。
仲間達に非がある訳ではない。わがままだと言われれば、その自覚はある。
どれだけ仲間がいても決して埋めることのできないディーンの孤独は、魔王の慟哭に共感した。
「兄さんが魔王に共鳴するなんて、そんなこと」
ディーンの腕の中で首を横に振るエリスを一度強く抱きしめると、
「言い換えれば私の魂と同化している以上、魔王は身動きが取れない。この破邪の剣ごと、私が魔王を押さえる。私の魂がすり切れるまで、魔王はここを動くことはできない」
「でも、それじゃ兄さんが……!」
「もう時間がないんだ」
エリスの額にそっと口づけた。
「愛してるよ……エリス」
エリスにはきっとこの気持ちは分からない。魔王とディーンが闇に身を落とすほどに渇望したものを最初から持っているエリスには、永遠に分からないだろう。
それを伝えようとも思わない。知らずにすむなら、その方がいい。
そんな闇の片鱗に、大切な妹を触れさせたくはない。
最後に優しく抱きしめて、そっとエリスを放した。
ディーンの両腕から解かれ、エリスがふらりとよろめいた。見れば漆黒の翼は蝋が溶けるようにどろどろとその姿を崩し、ディーンの足下に漆黒の水たまりを作り出している。
「兄さん……私も、私も愛してる」
こぼれ落ちそうな涙を必死に堪えながら、エリスが笑った。もう兄は覚悟している。これ以上は兄を苦しめるだけだ。ならばせめて最後は笑顔で見送りたい。
エリスの笑顔に小さく頷くと、数歩下がったところに立ち尽くしているアレクを見た。竜が飛び去ると同時に駆けつけて、言葉もなくディーンを見上げていたアレクは今にも泣きそうに見えた。
「……何だよ、ちくしょう。なんで、こんな」
「そんな顔をするんだな……」
いつも笑って堂々としていて、頼れる兄貴分といったアレクの初めて見る表情に、ディーンが遠い目をする。
「は? 誰のせいだと思ってんだよ」
アレクが一瞬、口調だけいつもの調子に戻ってほっとする。
「さっきの矢、凄かったな。魔王が怯んだ。アレクの気迫勝ちだ」
魔王自身が言っていたように、普通の武器は通用しない。魔法の武器でもないアレクの矢など、翼の羽ばたきがなくても魔王の身体を傷つけることなどできはしない。
それでも魔王は身構えた。絶対に受けてはならないと警戒した。それは必ずディーンを取り返すというアレクの怒りにも似た気迫に気圧されたからだ。
結果として矢は魔王に傷ひとつ付けることなく弾かれたが、気圧されたが故に生じた迷いはリグル達の奇襲に絶好の機会を与えた。魔王を破邪の剣で貫くことができたのは、アレクの執念の一矢のおかげだ。
「本当に……アレクは凄いな……」
囁くようなディーンの声に涙がこぼれ落ちそうになって、アレクがうつむいた時だった。
「……おい、何だよそりゃ……」
溶け出した漆黒の翼はぼたぼたと滴状になってディーンの足下へ落ち、水たまりのようになっていた。小さな泥沼のようになったそこから這い出た漆黒の手が幾つも伸び、ディーンの足に絡みついている。
「魔王が逃げようとしてるんだ。私がここにいては逃げられないからな」
「……ディーン、待てよ」
「他の誰かに憑依などさせるものか。私を選んだのが運の尽きだったな」
泥の中から無数の手が伸び、ディーンを絡め取っていく。剣の柄に漆黒の手が巻き付いたが、ディーンがその上から剣を強く押さえ込んだ。
破邪の剣がさらに深くディーンの胸に突き刺さるが、傷口から血が流れることはない。
「おい、ディーン」
「永遠に……とは言えないが、私の魂が朽ち果てるまで──魔王をこの地に眠らせる。その間にここから避難してほしい」
「ディーン!」
胸の高さまで無数の手が絡みついたディーンが、じわじわと泥の闇に沈んでいく。
右手で胸に突き刺さる剣の柄を押さえたまま、左手で腰に佩いた愛剣を鞘ごと外す。
「……なん、だよ」
ディーンが常に携帯していた剣を差し出され、アレクは戸惑いながら両手で受け取った。細身の剣は軽くて儚い。
「ありがとう」
膝まで泥に沈み込んだディーンが、アレクを見上げて笑った。
金色の髪は欠けた太陽のわずかな光でもきらきらと輝いて、青空色の瞳はどこまでも透く澄んでいる。漆黒の手がディーンの肩に、髪に、顔に触れても、その美しさを貶められることはない。
おとぎ話の天使が実在するとしたら、きっとこんな姿をしている。
「ディー……」
「……アレク、すまない。後を頼む──」
アレクの目の前で、漆黒の泥がディーンを飲み込んだ。
「ディーン──!!」
泥に飲まれる寸前、ディーンはアレクの瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちるのを見た。
その後ろに立つエリスは無理に笑おうとして、ひきつった顔をしていた。それより一歩下がったところはリグルがいた。そのさらに後ろには、ラスフィールが、ルティナが、かつて共に戦った反乱軍の仲間がいた。
本当に多くの人に支えてもらっていたのだと、心の奥が温かくなる。
それでも埋められなかったもの──魔王と共鳴したもの。心から渇望したもの。
永遠に手に入れられないと、初めから分かっていたもの。
今でも欲しいかと問われれば、それは欲しいとは思う。ただ、それももうどうでもいいような気もしている。
まだ半分以上欠けたままの太陽が照らす世界は薄暗く、雲ひとつないのに厚い雲に覆われているような錯覚すら起こすというのに──今、世界が輝いて見える。
そうだ。世界は輝いていた。きっと昔から、ずっと、いつも。
ほんの少し顔をあげれば、美しい世界を知ることができたはずなのに。
たったひとつの手に入れられないそれに固執したばかりに、目の前にある世界の美しさを知ることができなかった。もし知ることができていたなら、彼は魔王にならずにすんだのかもしれない。
漆黒の泥の隙間から、黒髪の幼馴染を見た。
同じ黒なのに、彼の黒は触れてみたくなるほどに艶やかだ。漆黒の瞳が揺れて見えるのは気のせいだろうか。
もしも覇皇剣が創世神話のそれと同じであるのなら、いつかまた──覇皇剣を持った彼と歴史の片隅でめぐり逢う時がくるのだろうか。
(さよなら、リグル)
最後くらい、勝ちたかったな。
ディーンの郷愁も何もかも──漆黒の泥がすべてを飲み込み、地に沈んだ。
「うわああああああああああああ!!」
漆黒の影だけ残して、闇の泥も、ディーンの姿も、何もかも消えてしまったその場所にうずくまって、アレクは泣いた。
人目も憚らず、剣を抱きしめて、地を叩き、爪を立て、言葉にならない声を上げて、泣き叫んだ。
誰ひとり声をかけることもできず、天を仰ぎ、黙祷し、両手で顔を覆った。
太陽が影から逃れ半分ほどの光を取り戻した頃、それまでじっと立ち尽くしていたラスフィールが足を踏み出した。気が付いたリグルが道を譲り、肩を貸す。
杖代わりにしていた剣を腰に佩くと、エリスが振り返ってラスフィールの右肩に触れた。そこから全身に熱がほとばしり、一瞬で痛みが消えていく。右肩も貫かれた胸も、わずかな痛みさえ残っていない。
ラスフィールが仕草だけで合図すると、リグルはすぐに察して身体を離してその場に留まった。
声も枯れ果て、うずくまったまま小さくしゃくり上げるアレクの前に跪き、
「新王陛下に、栄光あれ」
ラスフィールが深く頭を垂れた。
身体を起こしたアレクが自分に対して跪いているラスフィールを睨み付ける。
「ふざけんな、何言ってやがる」
「ディーン陛下は貴方に剣を託し、後を頼むと仰られました。これは王位継承の遺言です。どうぞ民をお導き下さい」
アレクがはっとして抱えたままの剣を見た。
王位継承? ディーンは本当にそんなつもりでこの剣を渡しただろうか?
否──
違う、とアレクが叫ぶ前に、ラスフィールのすぐ後ろでリグルが跪いた。それを見たルティナも、反乱軍の仲間達も、アレクの呼びかけに応えて武器を持って集まった者達も、静かにその場に跪いた。
嵌められた──!
アレクがぎりぎりと歯を食いしばる。
跪いたままラスフィールが己の剣を差し出した。怒りに任せてひったくると、鞘ごと剣でラスフィールの左肩を叩きつけた。
「てめえ、覚えてろよ。死ぬまで後悔させてやるからな……!」
「御意」
ラスフィールはより深く頭を垂れた。
アレクは剣を放り投げて周囲を見渡した。その場にいた全員が跪いている。
だが、そこにエリス・アープの姿はなかった。