10.
池の底で、人の姿に戻った龍神とあやめは重なり合うようにして眠っていた。龍になった反動なのか、全身が軋んでまるで言うことを聞かない。半龍となっても人の姿であるときの感覚は人間と同じだな、などと思いながら、あやめは痛みに耐えていた。
「……おい。目が覚めたか」
仰向けになっている龍神に、うつ伏せる形で倒れこんでいるあやめは力なく頷いたが、身体を動かすことができない。間近く龍神の鼓動を聞きながらあやめは、
「みんな……無事に逃げられたかな……」
逃げ惑っていた村人に思いを馳せた。
龍神が森に突っ込んで木々を掻き分け、即席の道を作ったのだ。後で村を襲う土石流の流れを考えて、多少遠回りではあるが道を塞がれることのないように計算してある。明かりもなく足場の悪い道では道程は容易ではないだろうが、命に関わるほどの被害は出ないはずだった。
「さあな」
興味なさそうに龍神が呟いた。
土石流は村をことごとく飲み込んだ。家は破壊され、畑も埋もれて使い物にならない。村人がこの閉鎖された村に戻ってくることは、まずない。何よりも龍神の怒りを買ったと思っているのだ。決して池には近づかないであろう。
これでもう、どんなことがあっても龍神の花嫁となる者は現れない。村のために犠牲になる必要はなくなったのだ。
「それよりお前、喰ったのか?」
龍神は金龍が椿を飲み込んだところしか見ていない。まさか一番慕っていた者を喰うとは思っていないが、その後どうしたのかまでは知らなかった。
「この池、川に通じてるでしょ」
池の側面に穴があいている箇所がある。そこから山のふもとの小川へと通じていて、龍神はいつもそこを通って下流の祠まで行っている。
「ずっとずっと下流のところに置いてきたの。近くにお寺があったから、きっと助けてもらえる」
「……そうか。見事に龍の力を使いこなすもんだな」
「あんただって左目食べたなら、解ってるでしょ?」
元は金龍の目だったものだ。そこには金龍が見たすべての記憶が力と共に凝縮されていた。池の穴から下流の川へと行けることも、途中に寺があることもすべてあやめの右目からもたらされた情報だ。
「……お姉ちゃん、私だって気付いてた」
伝説の龍の姿そのままであったはずのあやめを見て、椿は迷わず妹の名を呼んだ。逃げろと吼えた金龍の唸り声を、意味を違わず汲み取った。村の誰も 父でさえ気付かなかったものを、彼女だけが理解していた。
「……そうか」
短く、だが龍神の声はどこか優しくあやめの耳に届いた。
「そういえば、あんたに聞きたいことがあったんだけど」
「……何だ」
「私、名前名乗ったっけ?」
落石の後、動揺するあやめを正気に引き戻したのは龍神の呼び声だった。だがここに来てからあやめは一度も名乗ったことはない。龍神もまた、興味がないのか訊こうとはしなかったし、一度もあやめの名を呼んだことはない。
「……お前の父親が言っていただろう」
お前のせいであやめは。
確かに父はそう言った。
最初の親子のごたごたから知っていた龍神ならば、会話の流れであやめの名を知っていてもおかしくはない。
「……龍の目って、見たことを全部覚えてるみたい。だからこの右目があんたに入ってからの記憶、残ってるんだよね」
龍神の言葉を待って、あやめは黙った。どれだけの沈黙が流れたのであろう、ぐしゃりと髪を引っかき回されて軽く小突かれた。
「……解ってるなら聞くな」
「私、そんなの忘れてた。会ってたのね」
かつて龍神は気まぐれで、変化して村の近くまでやってきたことがある。一度は花嫁を見送って来た事のある場所だが、そのときはすでに夜だった。昼間はどんな様子だろうかと、春風に誘われてふらりと訪れたのだ。
手っ取り早く、蛇に変化した。蛇なら人間に見つかってもいきなり襲われることはない。どちらかといえば人間の方が避けてくれるので、蛇になった龍神は木々の隙間を縫ってすいすいと村へと這っていった。
変化するときに、龍神は背中の鱗が数枚銀色であることに気付かなかった。獣たちは変化していたとしても龍神であることに気付いて襲ってくることはなかったのだが、人間はそうはいかなかった。たまたま森で遊んでいた子供たちに見つかってしまったのだ。
背中に銀色の鱗があるということで、面白がってその中の一人が龍神を捕まえてしまった。残酷な子供はその珍しい蛇の尻尾を摑んで振り回して遊び始めた。きゃあきゃあと嫌がる子供も面白がって囃し立てる子供もいたが、止める者はなかった。
いい加減に腹を立てた龍神は、変化を解いてその子供を殴り倒してやろうかと思ったが、そうするよりも早く龍神が思い描いた光景をそのまま実行した子供がいた。
茜色の着物を着たその女の子は、蛇を振り回していた子供にがつんとゲンコツをくれてやり、その拍子に乱暴者の手から離れた蛇はそのまま投げ飛ばされた。
乱暴者のあやめー! 姉ちゃんに言いつけてやるからなー!
負け惜しみを言いながら、子供たちは走り去った。
茜色の着物の女の子は、少し離れたところで目を回しているのか動かない蛇を抱き上げて頭をなでた。
大丈夫?
気がついた蛇は少女の手の中できょろきょろと様子を窺う。
もう大丈夫だからね。私はあやめ。あんたは? 名前つけてあげようか?
言葉を持たない蛇は、ちろちろと少女の指を舐めた。くすぐったそうに笑う少女の手から飛び降りると、そのまま森の奥へと戻っていった。
「忘れろ、そんなもん。恥だ」
あれから十年くらいだろうか。龍神はつまらなさそうに呟いた。寝返りを打とうとしたのだが、あやめが重石になっていて身動きが取れない。
「やだ。忘れない」
その後の記憶にも、あやめの姿はあった。遙か上空から見下ろす光景は、鳥に変化したのだろう。間近で見た記憶はなかったが、遠くから見るあやめの姿がいくつもあった。
「そうか。じゃあ代わりに俺の言うことを聞け」
顔を上げて龍神の顔を覗き込んだ。人間の姿に戻ってから初めて見る龍神の顔は、右目が深い蒼色になっていた。龍神もまた右に金色の、左に漆黒の瞳を持つ少女を間近に見て、
「俺に名をくれ」
そう、言った。
「……名前、ないの?」
「そうだ。異形だった俺は名をつけられなかった。金龍も面倒くさがって名をくれなかったからな。俺には名はない」
「今まで何て呼ばれてたの?」
「村ではあれとか、それとか……金龍は俺のことを銀色の、と呼んでたな」
「ふうん……そういえば私、髪が黒いから黒い龍になるかと思ってたら金色だったね」
「別に髪の色で鱗の色が決まる訳じゃない。たまたま俺は同じだっただけだ」
「そうなの?」
「鱗の色は龍の位を表すらしい。金色は最上位だ。お前の右目は教えてくれなかったのか」
遠い目をしてしばらく考えていたが、多過ぎる情報量からそれを探し当てることをあきらめたあやめは、
「じゃあ、私の方があんたより上なの?」
いたずらっぽく笑った。龍神はむすっとしてそっぽを向く。
「へー。さんざん私のこと馬鹿にしてたのに、同じ半龍になったら私の方が上なんだ?」
「……くだらん」
そっぽを向いた龍神の顔をわざわざ覗き込もうとしたあやめを、龍神は漆黒の髪をかき回してそのまま強く抱きしめた。
龍神にとって人間とは、醜く汚く面倒なものでしかなかった。かつて人であった頃には彼は迫害され続け、半龍となってからは泣き続ける娘ばかりを見てきた。村に帰したはずの花嫁が無残な姿になって池に戻ってきたときには、人間に対して絶望さえ覚えた。
叶うものなら金輪際係わり合いになりたくないと思っていた人間に助けられた記憶は、龍神の中で小さく、だが強く輝く希望になった。少女の笑顔は閉ざされ凍てついた龍神の心に、小さく芽吹いた。それは時間をかけて成長し、一輪の花を咲かせたのだ。
強く抱きしめられて息苦しくなったあやめは、身をよじって改めて龍神の顔を間近く見た。
「んー……」
見つめられ、龍神もそれを真っ直ぐに受け止める。
「リンドウ?」
「……竜胆?」
「そう、竜胆。ほら、その目、竜胆の色みたいじゃない?」
龍神が人であった頃の目は、どこまでも深い蒼だ。その見事な蒼を喩える術を、あやめは他に持っていない。
「花の名前か。女じゃあるまいし」
「どうせ私しか呼ばないんだからいいんじゃない?」
村はなくなった。もうここへ訪れる者は誰もいない。池はもうふたりだけのものだ。
それでもまだ不満そうな龍神に、
「私も花の名前だし。おそろい、おそろい」
「ふざけるな。じゃあ次だ」
「えっ、お願いを聞くとかって普通ひとつじゃないの?」
「ひとつだなどと誰が言った」
「昔話とかってだいたいそうでしょ」
「知ったことか。俺が次に言う言葉に、お前はただはいと言え」
不満そうに頬を膨らませたあやめに、一息ついて龍神は言った。
「……俺の花嫁になれ」
見つめあったまま、幾ばくかの沈黙をやり過ごしてから、あやめが小さく吹き出した。
「あんた馬鹿じゃないの」
言葉を失った龍神の髪をなでながら、あやめは優しく微笑んだ。
「花嫁としてここに来たのに?」
龍神の腕が、強くあやめを抱きしめた。今度こそ窒息しそうになって、あやめが手足をばたつかせて必死に抗議する。龍神は渋々手を緩めたが、あやめを離そうとはしない。
「あのさ、気になってたんだけど」
「今度は何だ」
「私、重くない?」
池の底に戻ってすぐに倒れこむように意識を失ったのが夜半過ぎのはずだった。今はもう水面から眩しい太陽の光が差し込んできている。その間、ずっと同じ体勢のままだ。
「いや、別に……」
あやめのぬば玉の黒髪をなでながら、龍神は続けた。
「……もうしばらく、このままで……」
優しく髪をなでられながら、あやめは龍神の胸にもたれて目を閉じた。
ふたりの龍はそのまま眠りの中へと戻っていった。静寂が支配する池の底を、太陽が照らし出す。
訪れる者もなく、やがて人々の記憶から忘れ去られていった龍の棲む池は、今日も枯れることなく清らかな水をたたえ続けている。
終
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