罪人たちの舟
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1.
天界、下界、魔界の異なる3つの世界には、それぞれ『冥界』へと繋がる【門(ゲート)】がある。そこは死者たちの国、誰にも 神でさえ手を出すことはできない、冥王が支配する絶対の世界。命あるすべてを拒む世界。
各界の死者たちが集い、裁かれ、生前の行いにふさわしい冥界の中の国へと旅立つのだという。
門は闇に閉ざされている。その闇をくぐりぬけて初めて冥界での裁きを受けるのだが、時に生に執着し、死を受け入れない者たちが永遠の闇を彷徨っている。
『怖イ…… 助ケテ……死ニタクナイ………!!!』
ここにも、彷徨える魂がひとつ。
『誰カ…… 誰カ……』
『ココハドコナノ……? マダ死ニタクナイヨ 生キテミタイノニ……』
ただ恐ろしさに震え、どこへ向かえばいいのかさえ分からずに、その小さな魂が凍えている。
「大丈夫よ…… おびえないで……」
闇の中に、優しい声がそっと聞こえてきた。凍える心を温かく包み込むような、そんな声が。
「泣かないで……神はいつでも見守っているから」
闇の中に降臨した、淡き光。背に白く燐光する翼を持つ聖女 。
『天使様……』
その優しい声に、その清らかさに恐怖の呪縛から解き放たれたのか、小さな魂がふわりと浮かんだ。
小さな魂を送り出すように、聖女は祈りを捧げた。
「あなたとともに……神の光がありますように」
真雪(まゆき)はのどかな草原をひとり歩いていた。なだらかな傾斜の丘の上にある赤茶色のレンガの屋敷 そこが彼女の暮らす孤児院だった。このあたりはいわゆる『郊外』なので、周りに他の家もなく、いつも風がそよそよと静かに歌っている。
孤児院といっても現在は3人しか住んでいない。かつての戦で功績をあげた院長が褒美にと求めたのが、この土地と屋敷だった。自らも孤児であった院長のかねてからの夢だったのだ。そうして何人もの……否、何十人の孤児たちを育てていたが、やがて少子化の波がこの天界を覆い、孤児もまた減っていった。ここで育った孤児たちは、ある者は独り立ちし、またある者は養子縁組をし、現在この孤児院に身を寄せているのはまだ若いふたりの男女だけになっていた。
ゆるい傾斜を上って行くと、見えてきた屋敷の門の前に、ひとりの青年が見えてきた。
グレン この孤児院に残るもうひとり。全身を黒い服で包み、それに紅い髪がよく映えている。彼は門のすぐ横に腰を下ろして眉間にしわを寄せながら煙草を吸っていた。
「見てたぜ」
真雪が口を開くよりも早く、おもむろにグレンが言った。
「地獄に堕ちるような魂に祈ってやる必要ねーんじゃねぇの?」
真雪が【門】で祈った小さな魂は事故や寿命で死を迎えたのではない。故意に死を選んだもの。【門】で迷っている魂のほとんどは自殺者だ。
そして、自殺者の行く先は地獄。
「またそんなこと言って……神はすべての生命を愛しているのよ」
いつも神に対して不敬な態度を示すグレンを諭すのは真雪の務めだ。
「煙草はダメだって言ったでしょ」
ハイ没収と煙草を取り上げられたグレンは懐から煙草の箱を取り出しながら呟いた。
(すべての生命ね……)
彼らは天界に住まう天使。誰もが神を敬い畏れ愛している。天界でただひとり、グレンだけを除いて。
彼だけが神を敬うこともせず、畏れもせず、祈りも捧げはしなかった。
反抗分子と罰せられてもおかしくない彼をいつも優しく見守る真雪。
それでも、神を一番に愛する真雪……。
「その証拠がどこにあるんだよ」
「ここに」
真雪は胸に手をあてて、疑うことなくまっすぐな瞳で応えた。
「私たちが存在する現状(いま)こそが証」
彼女にとっては神は絶対。いつもそばにいるグレンよりも、神の方が……
それがグレンを苛立たせるのだが、真雪は知る由もない。
「グレンとともに神の光がありますように」
だから。
頬に祝福のくちづけをされても、困ったようにうなだれることしかグレンにはできない。
「真雪」
「早く家に入りましょうよ『お兄様』?」
「それやめろって、気色悪い」
「じゃあ『お兄ちゃん』♪」
真雪の白く細い手に引かれながらグレンはそのままついていった。
(お兄ちゃん、か)
ふたりは同い年の孤児。数ヶ月前に院長がふたりを揃って養子縁組したのだ。一応は年上らしいグレンが『お兄ちゃん』になる。
(こんな仕打ちってねぇよな)
胸の内でひとりごちたが、彼に背を向けている真雪に悟られることはなかった。
「ただいま」
「お帰り 真雪」
奥から聞こえてきた落ち着いた女性の声に、グレンは一瞬身体をこわばらせた。
「院長先生、何か作ってらしたんですか?」
「『お母さん』はまだ慣れないかい?今ちょうど……」
言いかけたところで、キッチンの入り口に立つ真雪の後ろをこっそりと通り過ぎようとしているグレンを見つけて、
「グレン!屋根の修理頼んでおいたのに、また……っ!!」
「うるせえよ!」
つい怒鳴ってしまった。
「まったくもう、唯一の男手だっていうのに。私はもう飛べないし……」
院長が深いため息をついた。
院長に屋根の修理を頼まれて、引き受けたが面倒になったので、門のところで座り込んでいたという訳か。
「片翼、確か昔の戦で……」
「おかげでこの屋敷をもらえたんだけどね」
かつての魔界との小競り合いで、院長は戦力として召集された。天界では男女の差別は認められない。真っ先に召集されるのは『孤児』。親も兄弟もなく、例え戦死したとしても悲しむ者がいないから そんな理由で、多くの孤児が徴兵され、前線に送られていく。
そんなバカな話があってたまるものか !!
だが一介の兵士でしかない院長に反論する権限はなかった。だから、戦った。
力を司る右翼を犠牲に、魔族の首領の首を獲ったのだ。
有無を言わせぬ結果を出して、褒美に求めたのが屋敷。
孤児たちを育てるための。
孤児たちを守るための。
養子縁組してしまえば、彼らは『孤児』とは認められない。
そうすることでひとりでも多くの者を救いたかった。もう誰も自分と同じ過酷な目には合わせたくなかったのだ。
だから最後に残ったふたりを養子縁組したのだ。不穏な空気が天界に忍び寄っているのを敏感に感じ取って。
真雪は院長の気持ちを知っている。自分たちを守ろうとしてくれているのだと。
そんな院長が時折見せる憂いを帯びた背中が、真雪にはつらかった。
「でも……勝手に世話を焼きすぎたのかもしれない……」
その呟きに、何も言えないから。
そっと振り切るように、真雪は静かにキッチンを出た。
そういえば。
グレンとともにこの孤児院で育って何年になるのか、一度も彼の翼を見たことがないような気がする。
天使だからといっても、天界にいるときはむやみやたらには翼は出さない。けれど下界に下りるときや、たまに横着をして2階に行くときなどに翼を出したりするのだが、グレンは一度たりとてそんなそぶりを見せなかった。
もっとも、自分も【門】や下界に行くときくらいしか翼を出さないのだけれど。
「はぁ…… またいつもの場所かしら」
幼馴染にして兄の居場所の見当は、だいたいついている。
2階の物置部屋は、グレンのお気に入りだった。天井がガラス張りになっており、そこから満天の星空が見える。子供のころの、いわゆる秘密の隠れ家だった。いろいろなものを持ち込んで隠れて遊んでいたりしたものだから、よく院長に怒られたものだ。
あれから何年が経ったのか、いろいろなものが置かれていたこの小部屋も、屋敷に住む人数が減るごとに荷物も減っていき、いまでは昔持ち込んだ小さなテーブルと、クッションがふたつあるきりだった。
壁にもたれて煙草を吸いながら星空を見上げていたグレンは、扉の向こうに気配を感じた。いつもの気配。
「グレン!」
「真雪」
「やっぱりここね。院長先生がパン焼いたの。お茶にしようと思って持ってきたわ。開けてくれる?」
扉の前にいるであろう真雪にぶつからないように、そっと扉を開けた。焼きたてパンと紅茶の香りがふんわりと漂ってくる。
大き目のトレーにお茶セット一式を載せた真雪が、グレンとすれ違いざまに微笑んだ。子供のころのことを思い出したのかもしれない。グレンもつられて微笑みかけたが、表に出ることはなかった。
「機嫌が悪くなるといつもここにくるのよね」
アールグレイにミルクを注いで銀のスプーンでかきまぜながら、真雪が微笑みながら呟いた。
「雪が見たいなんてわがまま言って、一晩中天井の窓から星を見て。流れ星にお願いしてみたり」
それはもうずっと昔。いつも『いいこ』な真雪が一度だけ言ったわがままだった。
雪が見たい!
季節が存在しない天界では叶わぬ夢。下界に降りたとしても、必ずそこで雪が降っているわけではない。一晩中この物置部屋に篭城して、院長を困らせたものだった。それ以来口に出すことはなかったが、彼女が夢をあきらめたわけではなかった。
「いい加減にあきらめろよ。ここには季節がねえんだから」
何度諭したか分からない、幾度となく繰り返したこの言葉。
そして、果てしなく返されるこの言葉。
「うん、でも……神様がくれた名前だから……どうしても一度見てみたいの」
天界で、天使の名はすべて神によって名づけられる。とはいえ、神が直接現れて名を与える訳ではない。出産された瞬間に、母親の心に稲妻のように名を打たれるのだ。
神様、神様、神様、神様。
まっすぐに神を信じつづける真雪に、どれだけ苛立ってきたことだろうか。
(神様、神様ってそんなにいいかよ。単なる独裁者じゃねーか)
グレンは神の聖性を信じていない。存在を認めても、力の程は信じていない。
すべての生命を愛しているというのなら、何故自分たちを孤児という立場に追いやったのか。何故助けてはくれなかったのか。
ことに最近やたらと規律が厳しくなり、過激な取締りを実行しているこの現状を、この天界を包もうとしている不穏な空気を、神はどう見ているというのか。
否……そんな理屈ではない。
神を信じる真雪に苛立つ理由はわかりきっているけれど、それを口にすることは……今更彼にはできなかった。
ティーカップを置くと新しい煙草をくわえ、火を探して懐に手を入れるグレンを眺めながら、真雪もカップを置いて姿勢を改めた。
「グレン、養子の件、そんなに怒ってるの……?」
「……別に」
火が見つからず舌打ちして投げやりに応えた。
「でも……あれからグレン、煙草吸い始めたし……」
そう言って、じっとグレンの目をまっすぐに見る。あらゆる偽りも虚像も見透かすような、穢れなき瞳に見つめられて、一瞬グレンはたじろいだ。そして……
「わぁったよっ! やめりゃいーんだろ!!」
負けた。真雪の眼差しに勝てようはずもなかったのだ。
にっこりと微笑んで、真雪はグレンにもたれかかって、そっと腕を組んだ。
「私はグレンと兄妹になれてうれしいわ。兄妹ならずっと一緒よ。絶対に独りにならない」
親に捨てられた記憶がある真雪にとって、家族は憧れの存在だった。必ずそばにいてくれる誰か それがどれほどに大切か、どれほど欲したか。その気持ちをグレンは痛いほど知っている。
甘えるようにすり寄る真雪の、長く淡い色目の髪をそっとなでながら、
「明日の晩、流星群が見えるらしいぜ」
「本当!?」
真雪がパッと顔をあげた。彼女は流星が好きだった。もしかしたら、流れ星に願いをかけているのかもしれない。どうか雪が見れますように、と。
「ああ、今日も少し見えるってさ」
「いっしょに見ようね!」
真雪の細い腕に抱きしめられながら、グレンは複雑な心境だった。
ずっと一緒よ……絶対に独りにならない。
(他にも手段があるだろうに……)
養子縁組したことで『他の手段』を永遠に失ったグレンは、そっと真雪を抱き寄せながらふと星空を見上げた。
こぼれそうな星空に、きらりとひとつ星が流れた。
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