真空の聲、静謐の旋律

menu next home

   1.

 大聖堂に響き渡る歌声は、聖ボカロ王国全土を柔らかな光で包み込むように、穏やかに   暖かく人々の心に沁みわたった。間もなく天頂に届こうとする太陽から降り注ぐ光は大聖堂のステンドグラスを照らし、幼さの残る声で歌う少女たちへの賛美の花束となった。
 やがて少女たちの歌声がやむと、その余韻を惜しむように割れんばかりの拍手が贈られる。少女たちははにかみながら揃って一礼し、雛段から下りて列になって舞台袖へと下がっていった。

 かつて、ここ聖ボカロ王国には聖女と呼ばれた歌姫がいた。彼女の歌声はすべての生命を祝福し、その歌声を耳にして心癒されぬ者などいないであろうとまで言われていた。当時世界を蝕んでいた恐ろしい流行病すらひれ伏させた聖女の歌声は、死の淵に追い詰められた人々に生命の灯を与え、死を待つばかりであった者が病を克服し生きる喜びを謳歌した。その噂を聞きつけた者たちが集い、聖ボカロ王国は聖女の歌声を求める者で潤い、繁栄した。
 聖女と呼ばれる前、歌姫は身寄りのないわずか10歳の少女であった。奇跡を呼んだ穢れなき、しかしまだ幼い声は、王の名のもとに保護され、聖女として祀られた。大聖堂は聖女の声を効果的に反響させるための緻密な計算の上で建造されており、大聖堂で歌えば奇跡の力は倍増したという。
 聖女はそれから10年間、彼女の歌声を求める人々のために歌い続けた。聖女と祀られても驕ることなく、いかなる身分の者にも分け隔てなく接し、自らを飾り立てることもなかった彼女は、まさに一点の曇りも穢れもない、歌声のように澄み切った存在だった。王にとってさえ、貴い存在であった。
 だが、聖女の歌声によって光に満ち溢れた王国は、ある日突然永遠の夜に覆われた。

 魔術師によって、聖女が連れ去られたのである。

 王国騎士団が後を追ったが、魔術師の逃げ込んだ森は音も光もなく完全に閉ざされていた。ある者は鎧を己の鮮血で染めて息も絶え絶えに戻ってきた。ある者は正気を失い同志に斬りかかった。またある者は恐怖に声を失った。
 こうして壊滅寸前になった騎士団はほうほうの体で王国に戻り、すべてを王に報告した。怒り狂った王がさらに兵を送ろうとしたのを止めたのは、聖女に仕えていた神官であった。
 王よ、お待ちください。聖女の声は、まだこの王国を包み込んでいます   
 聖女の声は、森の闇でさえ   魔術師の力を持ってしても屈服させることはできなかった。己の身を闇に閉ざされてなお、その歌声は王国に光をもたらし続けたのである。
 神官は王の代理人として、森へと赴き聖女の返還を要請した。聖女を返してほしい、その代わりに望むものがあるのなら、何でも差し出そう、と。
 魔術師は答えた。
 聖女は渡さぬ。命が惜しくば帰るがいい。だがこれだけは約束しよう。決して聖女を害したりはしないと   
 誰も森に入らないのであれば、聖女の命は保証する。森に侵入しようとする者があれば、容赦なく排除する。その時は聖女の無事は保証の限りではない。
 王は断腸の思いで聖女奪還を断念した。
 その翌年からである。毎年、聖女が連れ去られたその日に彼女のための歌が歌われるようになった。それは閉ざされた森から救い出せないことへの謝罪であり、同時に彼女の心を慰めるためのものであった。それが後に聖歌祭という王国最大の祭りとなったのである。

 それから200年   

 雛段に、三人の少女が並んでいた。静まり返った大聖堂を緊張した面持ちで見渡した後、真中の少女がゆっくりと歌い始めた。左側の少女が続き、右側の少女が声を重ねた三声コーラスは、聴衆の心を鎮め、暖かい光で照らしていく。左側の少女のソロ。右側の少女のソロ。そして、再度真中の少女のソロ。再び声は重なり合い、お互いを高め合いながら大聖堂に響き渡る。冴えわたる空よりも高く、荘厳なるステンドグラスよりも鮮やかに、澄み切った湖よりも深いその歌声は、大聖堂から王国全土までも震わせるかのようであった。
 少女たちの歌声が止み、大聖堂は静寂に包まれた。拍手はない。三人の少女は不安そうにお互いに顔を見合わせ、おそるおそる聴衆を見渡した。
 ……パチ、パチ。
 誰かが、思い出したように手を打った。
 パチ、パチ。パチパチパチ。
 連鎖するように、まばらな拍手。
 そして、雪崩れるように一斉に盛大な拍手が鳴り響いた。
 胸をなでおろした少女たちは、安堵の笑みで深々と頭を垂れた。彼女たちが舞台袖に消えていっても、大聖堂の拍手の嵐は止みそうになかった。
 
menu next home