真空の聲、静謐の旋律
3.
司教の静かな声を数度心の中で反芻し、ミクは司教の顔と足元の塊の中の剣の間で視線を何度か往復させた。
剣を抜く? この氷の塊の中から?
氷を溶かす或いは割れということだろうか。しかしいずれにしてもミクはそのための道具も術も持っていない。司教の表情を窺おうにも、表情らしい表情もなく、どこか蒼ざめた司教に改めて手段を問う雰囲気でもなく、しばし思案した後に、ミクはとりあえず塊の上部に触れようと右手を伸ばした。
透き通る塊に触れる寸前で手を止める。氷のように見える塊は氷ではないのか、冷気は一切感じない。床との接地面を見ても溶けた気配はなく、床の模様を濡らしてはいない。幾ばくかの逡巡の後、ミクは思い切って透き通る塊に手を触れた。
やはり冷たさはなく、むしろほんのりと温かいほどであった。塊に触れてそのまま少し力を込めると、わずかに抵抗が感じられたものの手は何の障害もなく塊の中に入り込み、剣の柄を握り締める。塊に触れた感触はゼリーのように柔らかであった。続けて左手も塊の中に突っ込み、両手で剣の柄を握り直して力を込めて引き抜いた。
呆気ないほど、すんなりと剣は塊から引き抜かれた。
中身を失ったゼリー状の塊は、役目を終えたかのようにぐずぐずと崩れ、床を汚すことなく霧散した。
両手に握った剣を、切っ先を上に向けて持ち直す。間近で刀身を覗き込むミクの前で、剣がかすかに燐光を放った。
「ミク 聖剣に選ばれし者よ。あなたに聖女を救い出して欲しいのです」
剣に見惚れて危うく司教の言葉を聞き逃すところだったミクは、刀身越しに司教を見た。祭典などで見る柔らかな表情など欠片もなく、硬く強張った、一切の反論を許さないといった面持ちでミクをまっすぐ見つめている。
言われたことに対して思考がついていかないミクに、司教はゆっくりと続ける。
「今あなたが手にしているのは、聖女の祭器のひとつです。それに触れられるのは、聖女と聖女が赦した者のみです。私には触れることはおろか、結界に触れることすらできません。そして その光る刀身は、あなたと聖剣が共鳴していることの証です」
ミクの握る剣の刀身が、ゆっくりと脈打つように光を放っている。聖剣と司教の顔を見比べ、ミクは困惑を吐露した。
「あの、司教さま……。聖女を救う、というのはどういうことでしょうか……? 聖女はもう、200年も前に……」
聖女と呼ばれた歌姫は、200年前に魔術師に森へ連れ去られた。差し向けた追手はほぼ壊滅し、魔術師とのやり取りの末に時の王は聖女をあきらめた、というのがこの国に伝わる伝説である。今も聖女の加護によって守られている、とも。
だがそれはあくまでも伝説である。すばらしい歌姫はいたかもしれないが、聖女の伝説が真実であると思っているのは国民の果たして何割もいるだろうか。
伝説が真実であったと仮定して、もう200年も経っているのだ。聖女といえど普通の人間であれば、もうとうの昔に土へと還っているだろう。伝説にはこうも伝えている。魔術師との取引で、森へ手出しはしないと。
「あの悪夢から200年 。聖女はまだ囚われのままで生きています」
司教は深いため息をついた。
「あなたには真実を伝えねばなりません」
伝説はこう伝えている。魔術師は音も光もない森に逃げ込み、聖女奪還のために後を追った騎士団は壊滅状態になった。魔術師は森に手出しをしなければ聖女を害しない、と約束し、王は聖女奪還をあきらめたのだと。
司教は語った。
魔術師は森に逃げ込んだのではない。後を追った騎士団があとわずかで聖女を取り戻せるというところで、周囲に突然森が現れて騎士団を飲み込んだのである。騎士団の目の前で聖女は聖剣と同じ形状の結界に封じられ、誰も 聖女を攫った魔術師さえ触れることができなくなった。聖女を中心に半径数kmに突如現れた森は音も光も通さず、突然暗闇に閉じ込められた騎士団は混乱し、魔術師によって、或いは同士討ちで壊滅状態となった。
その後何度も追手を森へと派遣したが入ることすら叶わず、結局は森の全体の大きさを把握したのみで、何もすることはできなかった。
大聖堂の奥にある司教の部屋に、聖剣だけが結界に封じられた状態で現れた。騎士団が見た聖女の結界と同じものであり、また聖女が持っていたはずの聖剣が大聖堂に戻ってきたということは、聖女自身は生きていだろうと考えられた。同時に魔術師も結界に封じられた聖女に触れることができなかったのは騎士団も確認している。
これらのことから、聖女を救うことはできないが、魔術師に危害を加えられることもないと判断し、奪還を中断したのである。
聖女は自分自身を護るための結界に自らを閉じ込めた。では、この戻ってきた聖剣は何を意味するのか。
「聖剣は聖女の祭器。聖女が聖剣を手に歌うとき、その刀身は眩いばかりに輝いたといいます。つまりその聖剣を輝かせることができる者は、聖女に匹敵する歌姫であると考えられます。聖歌祭は第二の聖女を発掘するための式典のようなもの。あなたがソロで歌ったとき、確かに聖剣は著しく反応しました」
つい先ほどのミクを含む三声コーラスは、三人ともの声に聖剣は反応した。だが、ミクの声に対してのみ、強く輝いたのである。
信じられない、という表情で司教を見つめるミクに、
「歌いなさい」
司教が命じた。
ミクは呼吸を整え、先ほど舞台で歌った自分のフレーズを、先ほどと違わぬ声で歌った。
たったワンフレーズだった。
それだけで、司教の言葉を充分に裏付けるほど白い刀身は光を放ち、薄暗い室内を放射状に照らしあげた。
「……これは賭けなのです」
呆然とするミクに、司教が声を絞り出す。
「分が悪いことも承知しています。あなたに大変な重荷を背負わせることも充分理解しています。ですが、我々には他に術がないのです。どうか、聖女を救い出してください ミク、あなたしかいないのです」
「ま、待って下さい司教さま! 私にそんな力はありません! それに200年も生き続けているはずが……」
「いいえ」
200年前、騎士団を壊滅寸前まで追いやった魔術師の住む森になど、行けるわけがない。ましてや生きているかどうかも疑わしい聖女のために命を賭けろと言われて、はいそうですかと頷くほどミクは司教に対して盲信的ではなかった。激しく首を横に振るミクを鎮まらせたのは、静かな、司教とは別の女性の声だった。
足元の床の模様が淡く光り、ゆらりと大気に影を映しだす。司教の隣に揺らめくのは、亜麻色の髪に緋色のドレスを纏った 聖歌祭の只中にいるはずの王妃だった。聖歌祭で王の隣にいるはずの王妃はこの場所へ来ることはできなかったのであろう、上半身のみを部屋の中に幻影として映し出している。
「聖女ルカは生きています」
王妃の後を司教が続ける。
「200年前、結界から感じられる聖女の残滓とその形状から、聖剣の結界と聖女の結界は繋がったものであると断定されました。魔術師が聖女の結界を破れなかったことから、結界は聖女自身によるものと考えられます。もし聖女がすでにこの世の人ではないのであれば、聖剣の結界も存在しないのです。つまり、聖女は結界の中に封じられた時のまま、生きているのです」
聖女が生きているのだとしても、音も光もない閉ざされた森で、歌うことしかできない少女が聖女を救うことなどできるはずがない。今にも不安に押し潰されそうなミクに、幻影の王妃が微笑みかける。
「心配はいりません。これから3か月、あなたには最高の環境で特訓を受けていただきます。ふたりをこれへ」
ミクの背後で扉がノックされ、誰何を待たずに扉を開いた。入ってきた人物を見て、ミクは思わず剣を手からすべり落としてしまいそうになった。
短か目の青い髪、首に巻いた長いスカーフ、騎士団の紋章が描かれた白い甲冑 。この国で彼に憧れない少女などいない。王国騎士団の若き団長、カイトその人であった。その姿を遠目で見ただけで少女たちは1日中胸が高鳴るというのに、この狭い部屋で彼の髪の一筋さえ見分けられるほどの至近距離にいるミクは、今聞かされた話も吹き飛ぶほどに鼓動が高鳴っていた。
「我が騎士団の誇る団長・カイトが3ヶ月間、あなたに剣の稽古をつけます。それから、大した広さのない森ですが、1日で森の中から聖女を見つけ出すことは難しいでしょう。森の中での生きる術はこちらの者から教わってください」
騎士団長カイトの隣に、ミクをここまで案内した神職見習いの少女が並ぶ。目深に被ったフードを取ると、艶やかで黒い髪が躍った。
「改めまして、ココネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
深々とお辞儀をされ、ミクもあわててお辞儀する。
「ココネは狩猟を生業とする一族の出身です。あなたと年は変わりませんが、森での生活に精通しています。カイトとともに3ヶ月間、あなたが森で生き抜く術を教えてくれます」
カイトとココネが王妃の幻影に敬礼する。
「聖女ルカを連れ去ったのは、魔術師がくぽ 当時名を上げてきていた魔術師です。あれから200年、魔術師の技術がどこまで洗練されたのか解りません。ミク、あなたの使命は聖女ルカを連れ戻すこと。もし魔術師と戦わずに済むのであれば、戦う必要はありません。最優先事項は、聖女奪還です」
王妃の幻影が大きく揺れ、その姿が薄くなっていく。
「ミク……。その細い肩にこのような重荷を負わせること、心苦しく思います。ですが……。頼みます。カイト、ココネ。どうかミクを導いて下さい」
「はっ」
ふたりの敬礼を受け、王妃の幻影は消失した。司教が一歩踏み出し、ミクのすぐ前に立つ。
「時間がありません。聖歌祭の後で疲れているかと思いますが、このまますぐに特訓に入っていただきます」
「……わかりました。すぐに用意してきます」
「いいえ、戻ることはなりません」
一礼して退室しようとしたミクを、司教が引きとめる。
「あなたは伝説の真実を知りました。これは口外されてはならないことです。このまま秘密裏に王宮に向かい、旅立ちの日までそこで過ごしていただきます」
「えっ、でも……」
ミクは孤児院に住んでいる。3か月も特訓をするというのであれば、荷物の準備があるし、留守にすることを伝えなければいけない。
「問題ありません。孤児院にはこちらから連絡しておきます。あなたは森から戻るまで、この国の他の誰にも会うことはなりません」
伝説が事実とは異なるのは、王の威厳を保つためだ。手も足も出なくて聖女奪還をあきらめたというより、魔術師との協定により、といった設定の方が格好がつく。さらに聖女が実在したこと、その聖女を攫った魔術師が現在も存在しているという事実は、国民に大きな動揺を与えてしまう。ミクが3カ月も留守にするというのであれば、何故なのかを説明しなければならない。その際にミクが森へと向かうことが漏洩しては困るのだ。
「 わかり、ました……」
それ以外に許された言葉などなかった。もし森から無事に戻ることができなかったら、もう永遠に会えないのに 。
ぞくり、と身を震わせたミクの肩に、触れるものがあった。
「大丈夫、心配しないで」
カイトの手だった。大きくて温かい手は、ミクの細い肩を簡単に包み込んでしまう。
「私もココネも、全力であなたを応援する。これでも剣には自信がある方なのだけれど、信じてくれるかな」
カイトが軽くウインクした。ミクの不安を少しでも払おうとしてくれているのだろう。ただ、ミクにとって憧れの騎士団長の魅惑的なその仕草は、あまりにも心臓に負担をかけすぎた。
「あ、あの、一生信じますっ!」
ミクの顔が面白いくらいに火照り、ココネは呆気にとられ、カイトはミクの気持ちを知ってか知らずか涼しげに「それは良かった」と微笑んだ。
「厳しくいくよ。あの森から無事に帰って来れるように 」
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