真空の聲、静謐の旋律
8.
ミクの迷いを振り切った静謐の蒼い瞳はリンの心をひどくざわめかせ、脅かした。
ミクははっきりとレンへの想いを告げた。本来それはリンだけが抱いているはずの想いであった。そしてミクはリンにとって、初めて遭遇する恋敵である。
ミクはああ言ったが、リンとてレンへの想いの強さで負けるつもりなどない。だが、恋とは自分の想いの強さだけで叶うものではないことを知っている。
レンは どう思っているのだろう。
これまでレンが他の女といたことなどなかった。だから比べる必要もなかった。レンは自分と他の女と、どちらが好きなのだろうかと。
リンはレンと向き合って対話をしたことがない。ただレンを見守るだけだ。それを不満に思ったことなど、これまでなかった。
しかし今、リンの目の前にはレンとともに過ごした女がいる。どんな表情で会話をしたのか、どんな抑揚だったのか、彼が何を語ったのか リンの知らないレンを知っている女が現れた。レンのすべてを知っているのは自分だけのはずだった。自分だけであるべきはずだった。それが今、目の前の女によって音を立てて打ち壊された。
レンのことを知っているのは私だけ。
レンのことを想っているのは私だけ。
リンにとってはそれがすべてだった。
そのすべてが、一瞬にして崩壊した。
リンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。意識が朦朧として、地に足が着かない。短剣を握る手も覚束ない。考えがまとまらない。耳鳴りがする。脈打つ度に頭がずきずきする。胸の鼓動が内側から跳ね上げる度に、身体がボロボロと崩れていくようだった。涙も出ない。手が震える。立っているのがやっとだった。
急に静まり返ったリンの様子を訝しんだミクは、目を凝らしてまだ間合いの外にいるリンを見つめた。
ぽろり、とリンの未発達な足から何かが剥がれ落ちた。立ち止まったまま小刻みに震え出したリンの髪が一房、乾燥しすぎた粘土細工が崩壊するようにぼろりと崩れ、地に落ちた。着地と同時に髪だったはずのそれは粉々に砕け、粉塵となって風に舞う。
「え……!?」
ミクの目の前で、リンが崩壊しようとしていた。まるで土で作った人形が風化して崩れていくように 。
(人形……レンは人形って言ってた……!)
リンが転んだ拍子に入れ替わったレンは何と言っただろうか。
『魔術師に作られた人形』と、そう言った。
あのときは何かの比喩かと思った。違うのだ、文字通りに作られた『人形』なのだ。
愕然とするミクの前で、リンは少しずつ、確実にその形を失っていく。それは同時にレンもその存在を消失しているということだ。
「どうして……!? 何が起こってるの!?」
剣を構えたまま、ミクは身動きができない。壊れながらも短剣を離さないリンに近づくのはあまりにも危険だった。
「あんた……なんか……いなければ、よかったのに……」
リンの瞳に宿るのは狂気ではない 絶望の闇だった。焦点の定まらない眼で、なおもミクを睨めつける。
「私には、レンがすべて……。レンに私の気持ちが、届かなくても……かまわなかった、のに……」
ぼろぼろと皮膚から花びらが散るように身体を少しずつ崩れさせながら、リンは重い足をひきずるようにしてミクに一歩近づいた。
「レンのことを、私だけが知っていたのに……私だけが好きだったのに……、思い出した……レンは……私には応えない、応え……られるはずが……、……」
リンの身体が淡く光り、弱々しく点滅する。
「……レ、ン……?」
リンの声と、ミクの声が重なった。点滅する度にリンとレンが入れ替わる。顔の一部が、身体の一部が、ひとつの身体のなかでふたりが混ざり合いながら表面化している。
「ミク……」
少年の声に、ミクの胸の奥が熱くなる。
「レン、レン! どうなっちゃったの!?」
「リンは思い出したんだ……僕とリンはひとつの身体をふたりで共有してることに。その事実を受け入れないために僕という別人格に恋していたのに、もう……リンは自分を見失ってる。この身体は崩壊する」
「そんなの……、レン、そんなのって」
「僕たちは別々に作られた人形で……、それぞれに自我が宿った。けれど人形だという事実を受け入れられなかったリンは自我が崩壊して、身体ごと崩れ落ちたんだ。リンの魂を無理矢理僕の身体に入れることでかろうじて助けられた。あとはさっき話した通り……僕を別人だと認識することでリンは自我を取り戻した……」
レンの身体が燐光する。瞳の光を完全に失ったリンが、亡者のようにミクに向かってくる。
「私は……、レンを……、レン、どうして……、私たち、ねえ……レン、教えて……応えて……」
ミクが見えているのかいないのか、それでも短剣を握りしめたまま、ふらつきながらミクに近づいてくる。そして、再び燐光する。
「ミク、ごめんね。僕を自由にして。僕は人形として生まれてきた。でも人形にだって魂は宿るんだよ。このまま泥人形として朽ち果てていくなら……ミクのその手で僕を……僕たちを自由に、して……」
燐光し、また一歩ミクに歩み寄る。入れ替わる周期が短いせいか、身体のところどころがレンとリンとで混じり合っている。
「レン……ねえ、レン、どこ……? 私のこと、どう……思ってるの……? 少しは、気にかけて……くれたかな……。私、レンが好き……本当に、好き……ねえ、レン、あなたが見えない……」
リンの意識がどんどんと壊れていくのが解る。ミクへの殺意どころか、存在そのものが稀薄になっていく。唯一と信じていたレンへの想いを見失った今、少女の魂はすでに形ある器に留まる意志をも失ったのだ。元はただの人形である肉体は、あるべき魂を失い朽ち果てていく。
レンはリンとともに自由にしてくれと言った。それは自我が失われる前に、この自壊する人形を 人の形を保っている間に、人としての最期を与えてくれということだ。
ミクの手にする剣で、尊厳ある死を 。
レンが望むなら応えてやりたいと思う。ミクにとってそれが自らの胸を引き裂くことと同等だったとしても。それなのに、ミクの身体は硬直したまま動かない。壊れゆく悲しい少女を見守ることしかできないのだ。
ミクの中で理性と感情が完全に拮抗していた。葛藤は完璧な均衡となってミクの身体を縛り付ける。呼吸することさえ許されないような息苦しい束縛の中で、眼を見開いて 少女と少年が入れ替わる、哀しい生命が燃え尽きようとするのを見守るしかなかった。
「……レン……、リン……」
声を絞り出すのさえ、大粒の汗と引き替えだった。
「あなたたちに逢えて……本当に良かった」
レンにも、リンにも。ミクは話しかけた。
「できれば、この森じゃないどこかで逢いたかったね……そしたら、友達になれたかもしれないのに……」
リンの手首から先がもげて、短剣ごと転がり落ちた。短剣も、それを握りしめていた両手も、大地に触れて粉々に砕け散り 土へと還っていく。
「……あんたに……なんで、そんなこと……言われなきゃ……」
もうリンは動くことさえできない。足をその場に凍らせて、屈辱的な哀れみなど要らぬとばかりになお睨めつける。
ミクは答えた。
「……恋にライバルは必要でしょう?」
リンの瞳に微かな光が灯すのとミクの身体の呪縛が解けるのはほぼ同時だった。
リン自身が否定した彼女の存在意義を、ミクはすべて受け入れた。誰よりもレンを想う少女の存在は、ミクにとって必要な障害なのだと。
「わたし……、ライバル……?」
「そうよ。でも負けないわ」
自分の言葉で、身体が軽くなっていく。拮抗していた感情と理性が、融解して別の何かに変わっていった。感覚が戻る。深く呼吸をする。胸が裂けそうな痛みだけがこの先に待ち受ける訣別の時を物語っている。
「わたしだって……まけな……い……」
リンの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。涙が大地に還る前に、少女の身体が燐光する。
「……ありがとう、ミク……。……お願い……、……」
現れた少年の笑顔が、眩しかった。
この笑顔を、永遠に胸に刻みつけよう。
少女の嬉しさと照れくささの混じった微笑みの宣戦布告も、何もかも。
忘れないから。
だからあなたも覚えていて。
私の一番の笑顔だけを 。
一瞬、世界中の音が消えた。
ミクの両手にかかる重く鈍い衝撃の後に、生温い液体が飛び散った。少年 或いは少女の身体は、静かに前のめりに傾き、ミクはそっと抱きしめた。
「……、ミク……」
かすれる声でレンが耳元で囁いた。それだけで泣きそうになるのを必死にこらえ、ミクは一言も聞き漏らすまいと耳を澄ます。
「うたって……」
抱きしめる少年の身体は着ている服ごと水分を消失してぼろぼろになっていく。体中の水分が失われていくのか、もたれかかっているはずの身体が次第に軽くなる。
自分の手の中で、愛する人の生命が失われていく。
ミクは今にも溢れ出しそうな涙と嗚咽を振り切って、深く息を吸って呼吸を整える。大切な人への最期に捧げる歌だ。失敗は許されない。
愛する人への、誓いの歌を 。
君がくれた優しさも
壊れそうな切なさも
忘れはしないから……
昨晩、レンが感動したと言ってくれた歌だ。忘れはしないと、心に誓った。その優しさも切なさも、きっと心の中で生き続ける 。
レンとミクを繋ぐ剣が強く輝いた。白く、碧く、ふたりを包み込むように。月明かりのように、暖かな暖炉のぬくもりのように。
ミクが歌い終えると同時に、剣の輝きは収束した。光が消えたとき、これ以上ないほどにやわらかな、やすらぎに満ちた笑顔のレンがすぐ目の前にあった。
レンの唇が、「ミク」と動いた。言葉さえ紡ぐことのできない唇が、そっとミクのそれと重なった。触れたかどうかさえ解らないほどの感触は、余韻を残して レンとともに消えた。
剣を両手で構えたままのミクの前で、人の形を保っていたものは音もなく崩れ落ち、大地にぶつかった衝撃で何もなかったかのように粉塵となって、散った。ミクの手に触れたはずの返り血も、砂となってこぼれ落ちた。
もはやどこにも、そこにレンがいた証は存在しない。あまりにも簡単に、冷たいほど素っ気なく、残酷なほどに完璧にその存在を抹消した。
ついさっきまで殺意を剥き出しにした少女が。
一夜をともに過ごした少年が。
こんなにもあっさりと存在ごと消えていく。
胸に大きな穴が開いて、そこに冷たい風が吹き込んだようだった。声が出ない。涙も出ない。息の吸い込み方さえ思い出せない。……そう、何でここに来たんだっけ……? もう、どうでもいいような気がする。力が出ない。残っていた力も抜けていく。
ミクは、がくりと膝をついてその場に座り込んだ。カランと軽い音を立ててミクの傍らに転がった聖剣は、遣い手から離れてその輝きを失っている。
ぼんやりとつい先刻まで少年が立っていたはずの場所を見つめたまま、どれほどそうしていたのだろう。ふと、ミクはそこに落ちている白いものに気がついた。そう小さなものではない。どうして気がつかなかったのだろう。
ぼんやりとしたままそれに手を伸ばした。
見覚えのあるハンカチで何かが包まれている。
昨晩渡したミクのハンカチと白い石だった。
最初にリンとレンが入れ替わったとき、レンは言った。記憶を保てたのは恐らくミクのおかげだと。
リンとレンはひとつの身体をふたりで共有している。土を素材に作られた人形である彼らは、衣服も短剣も同じ素材で作られていた。そのため入れ替わるときは衣服ごと変わる。そこに紛れ込んだ異物 ミクのハンカチがレンに記憶を保持させたのだ。
ミクはそこまでの原理は知る由もなかったが、ただ 自分がレンの役に立てたのだと言うことだけは理解した。
「ねえ、レン……私と逢えて、しあわせだった……?」
きらきらと輝く白い石を握りしめて、少年の形が塵となったその場所に触れる。返る言葉はない。ただ先ほどの笑顔が甦る。
「私は、レンに逢えて良かった……!」
ミクの両目から堰を切ったように涙がこぼれた。こぼれ落ちた涙が大粒の雨が降ってきたかのように大地を濡らしていく。
しゃくりあげ、嗚咽を堪えることなく、ミクは泣いた。引き裂かれそうになる胸を押さえることもなく、周囲の気配を気にすることもなく、子供のように泣きじゃくった。
先刻には聞こえたはずの鳥の鳴き声も、風に揺られた葉のざわめきもなにもかも、黙祷するかのように静まり返っていた。
ただ少女の泣き声だけが、森の中に響き渡った。
心に流した血をすべて吐き出すかのように泣き続けたミクは、涙も涸れたのか大きなため息をついて空を見上げた。
日がだいぶ高い。時間で言うなら昼前だろうか。
昨晩は携帯食で、朝食は食べ損ねた。朝から泣き続けてふらふらなのに、まるで空腹を感じない。
(そうだ、荷物……戻らなきゃ)
まだ胸の痛みは残っているのに、泣ききったせいか頭が冷えて冷静さを取り戻していた。
何のためにここに来たのか。そのために、どうすればいいのか。
ミクは傍らに転がったままの聖剣を拾い、両手で間近に構える。刃こぼれはおろか、血の痕すらない。本当に何の痕跡も残さずに、レンは消えてしまったのだ。
ずきりと胸の奥が痛んだ。切なさに呑まれそうになるミクを現実に引き戻すかのように、刀身が白く輝く。
お前の目的は何だ?
そう言っているかのように。
ミクは剣を鞘に収めて立ち上がった。
白い石とハンカチはポケットに忍ばせた。
(行かなきゃ)
レンは魔術師に作られた人形だと言っていた。ならば、ミクの行く先に当の本人がいるはずだ。何故こんな人形を作ったのか。彼らをどう思っているのか。
会わずにすめばそれに越したことはないのだろう。ミクの目的は聖女奪還であり、魔術師を倒すことではない。だが レンを失った今、魔術師と対峙しなければならない。仇として? それとも……。
未だ気持ちの整理の付かないミクには解らなかった。ただ何か言ってやりたい。罵声なのか非難なのかも解らない。それでもどうしても何か言わなければ気が済まない。
再度、空を見上げた。今日も雲一つない清々しいほどの晴天だ。
青空に少年の瞳を思い浮かべながら、ミクは野営の場所へと踵を返した。
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