真空の聲、静謐の旋律

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   14.

「言っておくがその後あいつらがどうなったのかは知らんぞ。ここに風の噂など届かんからな」
 がくぽは腰を下ろし木にもたれかかったまま、足下の草をちぎって指先でもてあそんだ。ミクは少し離れた場所にある岩に腰を下ろして長い話を聞いていた。
 言葉が出ない。ミクは混乱していた。言い伝えとも、司教から聞いた話とも違う。教会側の視点とがくぽの視点では主観が違うのは理解の上で、それでも齟齬がありすぎる。
 困惑するミクの顔に気づいたのか、がくぽが草を風に遊ばせてため息をついた。
「……信じろとは言わん」
 語ったときの無表情のまま、興味なさそうに呟いた。
 がくぽの話が嘘であるとは思わない。司教から聞いた話に元々納得していた訳でもない。司教の話が嘘だったとも思わないが、何か釈然としない。
「信じない訳じゃないけど、何だろう……何かひっかかる」
 ミクの中でもやもやする。まだ何かが霧の中だ。
「お前が司教から聞いた話というものが、そもそも脚色されている可能性が高い。司教はおそらく聞いたままをお前に伝えているだろうが、口頭伝達も長く続けばずれていくものだ。まして教会側にとって困る事実は隠蔽されたはずだからな」
 たとえば、神官の位に就いている者が禁じられている魔術を使って人を殺めるなど、世間に知られたら教会の権威は失墜する。聖女に下心を持つ者を身辺警護に任命したなどと知れたら? いや、そもそも神官が聖女に対して劣情を抱くなどもってのほかだ。
「どう隠蔽しようが捏造しようが関係ない……私が聖女を攫ったのは紛れもない事実だからな」
 魔術師が自嘲する。そんな表情をするとき、凄みすらある人間離れした美貌は、やたらと人間くさくなる。
「さて、私からお前に伝えられる事実は以上だ。何か質問はあるか?」
 木にもたれかかったまま、両手を頭の後ろで組んだ。魔術師に敵意はまったく感じられない。ただ淡々と、目の前の聖剣から片時も手を離さない小娘に対して思い出話を語るだけだ。
「あなたはそれからずっとここにいるの?」
「そうだ」
「ずっとひとりで?」
「ひとり、か。……そうだな」
 がくぽがどこか遠い眼をする。
「以前この剣を携えてここを訪れた人たちはどうなったの?」
 ミクは聖剣の柄を握りしめ、声が震えそうになるのを抑えながら、まっすぐに魔術師を見据えた。
「殺した」
「殺した!?」
 何事もなかったかのように平然と告げる魔術師に、ミクは愕然とする。
「この森に立ち入る者を邪魔者として排除しただけだ。ただ……そうだな、早計だったと気付いたのは後になってからだ」
 立ち上がり腰を落として剣の柄を握りしめるミクなど歯牙にもかけず、がくぽは淡々と続ける。
「私はルカを失ったことに気を取られ、その祭器が無くなっていることに気付かなかった。気がついたのはそれを持ってやってきた最初の使者を斬り捨てたときだ。いきなり敵意を剥き出しに襲ってきて、何故ここにやって来たのか   いや、どうして森に入れたのかもわからなかった。侵入者が死んだとき、私の目の前でその剣が消えた」
 司教から聞いた、剣だけが大聖堂に戻ってきたというのは、何も聖女を奪われたときだけではなかったらしい。
「二度目はお前が聞かされたのと同様の話を一方的に喚いて私に襲いかかってきた。だから斬って捨てた。また剣が消えたとき、さすがにおかしいとようやく気がついた」
 三度目以降は会話を試みた。敵意も露わに斬り結ぶこともあれば、がくぽを振り切って聖女を探す者もいた。あえてがくぽが見て見ぬ振りをしたこともあった。まともに会話が成立したのはミクが初めてだった。
「ここに来るのは私で何人目なの……?」
「忘れたな。お前は10年振りくらいだ」
 いったいどれだけの者が人知れずこの森に送り込まれたのだろう。司教は森から帰らぬ者達のことをどう思っているのだろうか。
(使い捨ての……捨て駒……?)
 ミクは孤児だ。血の繋がった家族はいない。ある日突然いなくなったからといって、教会からの使者が歌唱隊として他国へ出向したと孤児院に伝えれば、それで済んでしまう。悲しむどころか、ミクの消息を知ろうとする者はいない。
 ぞくりとした。
 そして、唐突に   鮮明に思い出す。
 自分のことを『作られた人形』と言った悲しい少年のことを。
「……レンを『作った』のは何故?」
 無表情だった魔術師が一瞬怪訝そうな顔をした。それから思い出したようにあの人形か、と呟く。
 その様子にミクの背筋がざわついた。この男は本当にレンのことなど気にも留めていなかったのか。
「代替品のつもりだった」
 がくぽが立ち上がり、白い衣服についた土を払う。
「代替品……?」
「……その剣を携えて来る者達は、ルカが『呼んだ』のだと気がついた。どんな意図にせよ誰かを呼ぶ必要があるのなら、その代わりを用意できないかと思った」
 軽く土を蹴ってがくぽが続ける。
「土だの木だの草だの……ここにある間に合わせの物で作ってはみたものの、さすがにゼロから作り上げるのは困難を極めた。あれは最後に作った人形だ。今度こそはと思ったのがうまくいかないものだな。自我が目覚め、1体は壊れた。先刻の4体の人形は失敗作だ。侵入者を阻むように命令してあった」
 昨日遭遇した這い出し女も失敗作のひとつだろう。
 ミクは言葉が出てこなかった。
 魔術師に会ったら絶対に何か言ってやらねば気が済まないと思っていた。ただではすまさないと思った。レンの仇を討たなければと思っていた。
 それなのに、魔術師を罵る言葉も非難の言葉も何一つ出てこない。この男は聖女のためだけに生きてきた。人生を捧げてきた。それだけは痛いほどに伝わってくる。
 レンとリンという哀しい少年と少女ですら、魔術師にとっては聖女に捧げる供物でしかないのだ。
 そうまでしても、聖女は目覚めない。
 すぐそばにいるのに、触れることもできない。
 目の前にいるのに、声を聞くこともできない。
 それが200年。
 この小さな森で、たったひとりで聖女を見守るだけの人生。
 ミクは自分の心の中のどこをどう探しても、魔術師に投げつけるべき言葉を見つけることができなかった。
 どれだけの沈黙が森を支配したのだろう。
 魔術師がまっすぐにミクを見据えた。
「それで、お前はどうする」
「え?」
 すでにミクは剣の柄から手を離していた。
「私の話を聞いて   その上でお前はどうする」
 司教から聞かされた話の疑問。魔術師から聞かされた話との齟齬。聖女を連れ去られた者と、連れ去った者との話を聞いた。
 その上で   
「……聖女に会うわ」
「ほう。面白い」
 これまでがくぽと対峙した者は、聖女を返せとしか言わなかった。
 がくぽは刀の柄に伸ばしかけた手を引いて森の奥へと向かう。
「来るがいい」
「案内してくれるの?」
 ミクに背を向けたまま手招きをする魔術師の様子に軽く驚きながら、そちらに足を向ける。
「その剣はルカからの招待状みたいなものだ。ルカが呼んだとなれば私に邪魔をするつもりはない」
 私に刃を向けるのであれば別だがな、と魔術師が付け加える。
 ミクにはもうそのつもりはない。置いていかれないように小走りにがくぽの背を追い   ふと足を止めたがくぽに倣い立ち止まる。
「お前」
「……ミク」
「ミク。聖女と会ってどうする」
「話をしたいの。話せる状態かどうかわからないけど」
「何を話すつもりだ?」
 ミクに背を向けたままがくぽが続ける。
「……聖女の意志はどうなのかを確認したいの。司教は聖女を連れ戻すように言ったけど、あなたはどうしたいの? って」
 話を聞いた限りでは、聖女は王国での自由が許されない生活を窮屈に感じていたようである。ならば王国に連れ戻すことが必ずしも聖女の幸福であるとは限らない。
 がくぽが天を仰いだ。ミクもそれに倣えば、今は昼頃だろうか。清々しい雲一つない青空が木々の隙間の向こうに広がっている。
「……話が通じなかったらどうする」
 魔術師の藤色の長い髪が風もないのに揺れたような気がした。
 言葉の意図を図りかねたミクに、がくぽが続ける。
「お前に話していないことがある」
 がくぽがゆっくりと振り返った。藤色の瞳が戸惑うミクを映し出す。
「私も……聞き忘れたことがあるの」
 どちらから言葉を切り出すか機会を窺いながら、幾許かの時が流れるのを待った。
 がくぽの唇が微かに震えているのを見て、ミクは覚悟を決めた。
「……あなたが殺さなかった人たちはどうなったの……?」
 魔術師と対峙して逃げ出し、聖女奪還を優先させた者。あるいはがくぽがわざと見て見ぬ振りをした者。
 森から生還した者がいるとは聞いていない。
 言葉にしてから、ミクは心臓をギリギリと締め付けられるような痛みに襲われた。鷲掴みにされるような、針金で締め上げられるような苦しみは   
(この人……なんて顔するんだろう……)
 表情のない顔だった。相変わらずすべてに無関心を装うその顔で   こんなにも哀しみが伝わってくるのは何故だろう。
 がくぽが無表情のまま、心の中で血の涙を流していた。
 それだけですべてが解ってしまう。
 この先に何が待ち受けるのか   
「あ……」
「無理しないで。なんとなく解ったから」
 己の胸に穴が空いたかのように手で押さえて震えるがくぽに、ミクがそっと手を重ねる。小さな手が温かい。
「いや、大丈夫だ。これは私のけじめだ」
 呼吸を整え、目を閉じる。息を吸い、ミクをまっすぐ見つめる。
「……ルカはすでにルカではない」
「それは……」
「もう……人ではない」
 血が絡む声で絞り出した。
 目眩がする。動悸がする。まともに息を吸い込むことすらできない。
 がくぽはふらつく足を何とか持ちこたえ、右手で顔を覆った。胸を押さえる左手で、重ねられたミクの手を握りしめる。
 意識がどこかへ飛んでしまいそうだった。
 もうずっと前から認識していたことなのに、言葉にするだけでこんなにも現実としてのしかかってくる。己の言葉が冷たい刃となってがくぽの心を切り刻む。
 何度も何度も己の心に刃を突き立てながら、がくぽは続けた。
「ルカの元に辿り着いた者はルカに喰われた。貪り喰ってはまたあの水晶体の中に戻っていく。それの繰り返しだ」
「だから……身代わりの人形を作ったのね」
「……そうだ」
 愛しい人が人の心を失っていく。人を喰い、人でなくなっていく。
 愛する人が目の前で壊れていくのを、為す術もなく見守るしかできないことの辛さをミクは知っていた。
「もう私の声は届かない。虚ろな瞳で私を見ながら人を喰う。……私はそれを見続けてきた」
 止めることはしなかった。犠牲になる教会からの使者を助けようとはしなかった。
 その理由も、ミクは知っている。
「声が届かなくても……心を失っていても……私のことを覚えていなかったとしても……、どんな姿でも、ルカがそこにいてくれれば……!」
 心の悲鳴は、声にはならない。
 心から流れる血を止めようともしない。
 無表情の仮面を被って自分の感情を無視し続けなければ、がくぽは正気を保てなかった。
 200年もの永い時を   
「……私はあなたを責めないから」
 ミクの手を握りしめるがくぽの手に、もう片方の手を重ねる。
 何人も見殺しにしてきたのかと、昨日のミクなら言っただろう。何故止めなかったのかと罵っただろう。
 その気持ちがない訳ではない。がくぽの行為を肯定はしない。だが   
(私だったらどうする?)
 レンが為す術もなく目の前で崩れていく。
 あのとき、もし人を喰えば元通りになれるからと言われたら   目の前で人を喰うのを止められただろうか。
 がくぽは聖女が聖剣を通して「呼ぶ」のを、食事のためだと解釈した。それを止めることで   すなわち犠牲者を助けることで、聖女が消えてしまうとしたら?
(止められる? 私なら……)
 何度考えても止められる自分を想像できない。
(私には責める資格がない……)
 ならばこのまま、見過ごすのか。
 自ら喰われに行くのか。自分だけ逃げ出して、これからも続くであろう犠牲を増やし続けるのか。
 司教に呼ばれ、聖女奪還の使命を帯びてここまで来た。けれどここに自分を呼んだのは聖女自身で   ここに来ることを選んだのは自分自身だ。
「聖女に会わせて」
 自分でも驚くほどに力強い声だった。最初にミクの前に姿を現したときの不遜な表情が嘘のような弱気な顔をしていたがくぽが、顔を覆っていた手を離してミクを見つめる。
「……私の話を聞いていたのか」
「聞いてたわ。でも、聖女は私に用があるんでしょう? なら行かなきゃ。行って話をつけてくるわ」
「それはルカを倒すということか」
「向こうがそのつもりなら」
 ミクの瞳に迷いはない。がくぽは諦観したように笑った。
「……そうか。お前は決意したのだな……」
 200年間がくぽができなかった決断をミクは下した。
 ルカと正面から向かい合う。
 本来ならばがくぽが下すべき決断だった。これまで聖女を失うことを恐れ、ずっと避け続けてきた。いずれは訪れる日だと解っていたことだ。それが今、訪れたのだ。
「だが……私は……」
「あなたの手を借りようなんて最初から思ってないわ」
 すでに人としての心を失っている聖女と斬り結ぶことになったとして   がくぽが聖女に刃を向けられるなどとは微塵も思っていない。向けさせたくもなかった。
 出会ったときに魔術師は倒してしまったものと思えばいいだけの話だ。
 ぴしゃりと言い切られてがくぽは苦笑する。
「そうか。大したものだな」
 レンの仇だといきなり斬りかかってきたかと思えば、激情を抑えて仇の話に耳を傾け   すべての状況を鑑みた上で、がくぽを気遣いさえする。
(200年も私は何をしていたのか)
 こんな小娘に手も足もでないとは、情けなくていっそ可笑しいくらいだ。
「……ひとつお願いしてもいい?」
 ミクはがくぽから手を離し、魔術師を見上げる。仮面のような無表情が、困ったように笑っていた。
「私にできることならな」
「……歌って。私と聖女のために」
 がくぽの顔が凍り付いた。先刻までの無表情とは明らかに異なり、生々しい人間臭さを感じさせる。
 数呼吸分の間を置いてようやくがくぽは自嘲するように、
「私の声など、もはやルカには……」
 言いかけたがくぽを遮るように、ガツンと大きな音がした。
「なっ!?」
 ミクが聖剣を鞘ごとがくぽの刀にぶつけていた。
「魔術師がくぽが200年も膝抱えてうじうじやってたことはよく解ったわ! じゃあ吟遊詩人マリスは何をやってたの!? 何もせずにただ指をくわえて見てただけじゃないでしょうね!」 
 もしそうであればただでは済まさないという勢いでミクがまくしたてる。
 200年だ。決して短い時間ではない。
 がくぽはルカと向き合うことを恐れ、この森で時が過ぎるのを待つだけだった。ありとあらゆる感情から目を背け続けてきた。
 その間   がくぽが目を背けてきた彼の心の中の感情はどうだ?
 目を背けてきた。無視し続けてきた。
 感情は失せたわけではない。彼の心の中で出口を失い渦巻いていた。ひたすらに、轟々と。
 真空で歌うように   静謐の旋律を奏でるように   
「ふ……ははは……」
 可笑しかった。こんな小娘が、生意気にも自分に発破をかけてくる。一体どんな顔をしていたというのだろう。
 突破口を見出した感情が、がくぽの内から溢れてくる。ほとばしる想いが噴き出してくるようだった。
 闇の世界に光が射し込むように、白黒の世界が美しく彩られていくように、沈黙の世界に音が蘇るように   凍てついていた心が緩んでいくのが解る。
「お前は……本当に大した奴だ」
 どこまでこちらの期待を裏切れば気が済むのだろう。懐かしい   遠い日の出会いを思い出す。
「この俺を魔術師がくぽと知った上で喧嘩を売るとはな」
「そっちこそ、私を誰だと思ってるの?」
 ミクがニヤリと笑う。
「よかろう、その喧嘩受けて立つ」
 がくぽが再びミクに背を向けて歩き出した。ミクもそれに続く。
「……きっと届くわ」
 背中に投げかけられた言葉に、がくぽは沈黙で応えた。そうであることを祈りながら   
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