真空の聲、静謐の旋律
β:初夜1
泣きじゃくるミクを抱きしめながら、がくぽは何一つ言葉が見つからないほどに後悔していた。
ミクが強がっていたことなど解っていたはずなのに、どうしてあのとき引き返さなかったのだろう。気圧されたと言うにはあまりにも言い訳がましい。こうなることが目に見えていたのにも関わらず、何故思い留まらなかったのだろう。
がくぽが後悔している間にもミクは泣きながらごめんなさいと謝り続け、何度も何度もがくぽの藤色の髪をなで続けた。
(……それもお前の強がりなのか……?)
触れてもいいなら髪をなでてくれ。もし痛かったり怖かったり、触れられたくないなら髪を引っ張ってくれ。
最初にそういう約束をした。肯定なら髪をなでる。否定なら髪を引っ張る。簡単なルールだった。
わかった、と頷いたミクだったが、結局は最後までがくぽの髪を引っ張ることはなかった。今こんなにも泣きじゃくっているくせに、最後の最後まで 泣きながらなお髪をなでてくるのが切なかった。
「ごめん……なさい……、ごめんなさい……」
しゃくりあげ声を詰まらせながら、消え入りそうな声でミクが謝り続ける。震えるミクの肩を抱きしめて、
「……お前のせいじゃない。気にするな」
できるだけ優しく囁いて長い髪をなでた。何度も何度も、いたわるように。
その言葉さえ、もう何度目か解らない。ミクはがくぽの言葉に首を横に振り続け、
「違うの……、嫌なんじゃないのに……、どうして……?」
何度も何度も自分を責める。まるで赦しを乞う罪人のようだった。
「お前のせいじゃない……。無理をさせてすまなかった」
「だって、私……。ちゃんとできなかった……」
「最初から何でもうまくできる奴なんかいない。だからもう気にするな」
「でも……」
そこから先は言葉にすらならなかった。しゃくりあげ、すすり泣いた。それでもがくぽの髪をなでることを止めないミクに、胸がつぶれそうになる。
「……ミク、愛してる。だからもうそんなに自分を責めないでくれ。俺はお前を責めたりしない」
「ごめんなさい……」
「謝ることなど何一つないだろう」
「がくぽのこと……、受け入れられなかった……」
「無理するなと言っただろう? そんなに急がなくていい。ゆっくりでいいんだ」
「でも……私は……、」
一瞬言い淀んでから、
「ごめんなさい……」
両手で顔を覆ってすすり泣いた。
ミクの痛みも辛さも、代わってやることはできない。がくぽはただミクを優しく抱きしめるしかできなかった。
「……すまない……」
泣きじゃくるミクをこれ以上見ていられなかった。目を閉じて、ミクが泣き疲れて眠りに落ちるまでただ抱きしめていた。
疲れ果てたミクがようやく眠りについたとき、窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきた。結局ほとんど一睡もできなかったがくぽだが、悲しいほどにまるで眠気を感じない。ただミクに無理をさせてしまったことを繰り返し後悔していた。
がくぽが無理強いをした訳ではない。ミクが大丈夫だからと言い張ったのだ。まるで開いていない身体でそんなことをしたら苦しむのは明白だったのに 。悲壮感さえ漂わせたミクの決意を前に、引き下がることができなかった。無理をするなと言っても大丈夫だと強がるのなら、身体に言って聞かせるしかなかった。
そして、それを一晩中後悔し続けた。
孤独な森の中で眠れない夜を数え切れないほどに重ねてきた。夜明けはいつも罪に苛まれるがくぽの心を赦すように朝を連れてきた。
だが今日に限って、夜明けはがくぽを赦してはくれなかった。朝日が昇るに連れてがくぽを容赦なく苛んだ。
(俺に何をしてやれる?)
痛みを分かち合うことも、代わってやることもできない。ミクが強がらずにすむように気を配ってやれなかった責任もある。
(伝説の魔術師が聞いてあきれる……)
もはや自嘲する気力すらない。好きな女を泣かせるばかりで、自分に男として一体どれほどの価値があるというのか。
小さな寝息を立てるミクを起こさないように、がくぽはそっとベッドを下りた。いつもならミクが目を覚ます時間だった。
音を立てないように静かに着替えてから、ベッドで眠るミクを見つめて 玄関を後にした。
苦いとも渋いとも言い難い、独特の鼻をつく匂いにミクは目を覚ました。身体中の痛みに、ぼんやりする頭で昨晩何があったのかを思い出す。
(そうだ……私、がくぽに迷惑かけちゃったんだ……)
自分のために曲を作ってくれて、思いがけない夢のような言葉をもらって、とても嬉しかったのに。がくぽの気持ちに応えることができなかったのが悲しくて情けなくて、ミクは泣くことしかできなかった。
(なんでちゃんとできないんだろう……あんなにも痛いなんて……)
悲鳴を上げなかったのは最後の意地だった。
(面倒くさいって思われたかな……。他の人もみんなこうなのかな……)
他の人。何気なく思ったその言葉にギクリとした。他の人。誰? きりきりと胸が痛む。どうして今思い出す? がくぽは間違いなくミクを愛していると言ってくれたのに。
ぐるぐると思考の袋小路に陥りそうになるミクを引き戻したのは、昼を告げる大聖堂の鐘の音だった。
(ああ、もうお昼 )
「え!? そんな時間…痛ったあああああああい!!!」
慌てて飛び起きたミクは、急に身体を動かしたせいで全身が軋むように悲鳴をあげた。あまりの痛みに思わず声を上げて再びベッドに沈み込む。
「大丈夫か」
少し離れたところからがくぽの心配そうな声が聞こえてきた。呻きながら視線をそちらに向けてみれば、がくぽがテーブルに何やらいろいろ広げて作業をしているところだった。
「まだ痛むだろう。もう少し寝ていたらどうだ」
「がくぽ、どうして起こしてくれなかったの……」
涙目で訴えるが、がくぽは涼しい顔で答えた。
「心配するな。今日から3日間休みだ、ゆっくり寝ていろ」
「え……? どういうこと?」
「歌唱隊には疲労で倒れたから休むと伝えておいた。そうしたら3日間休むようにと言われた」
ミクが休むことをがくぽが伝えに行ったという事実が後にどんなことになるのか考えないでもなかったが、ミクががくぽ マリイと組んでいることは周知の事実である。気にするのは今更かもしれないと考え直した。
「もうずっと朝から晩まで動き詰めでろくに休んでいないだろう。もともと疲労困憊なんだ、3日の休暇では足りないくらいだ。せめてこれからは月に1度は休ませてもらえ」
がくぽが小さくため息をついた。
「お前は頑張りすぎだ。それを悪いこととは言わんが、自分の体力を考えろ。無理して体調を崩しては元も子もない」
「……ごめんなさい」
顔半分を毛布に隠すようにして小さくなるミクを見て、
「怒ってる訳じゃない。ミクが心配なんだ」
優しく応えて椅子から立ち上がった。
「……あとな、マスターに3日間店には来るなと怒られた」
がくぽが竈に火を付けながら笑う。
「え? 何で?」
「ミクが疲労で倒れて歌唱隊を3日休むことになったと言ったら、しっかり看病しろと怒られた。俺ひとりでも酒場には行こうかと思ったんだが、行ったらどつき返されそうだ」
火にかけた鍋が吹きこぼれないように、少しだけ蓋をずらす。
「で……マスターからの差し入れだ。煮えるまでしばらくかかる。その間に済ませることを済ませておこう」
「うん……? がくぽ、さっき何してたの?」
テーブルに散らかったものを片づけて、水を張った洗面器を置く。植物らしきものがテーブルの端に寄せられる。
「薬草を買ってきた。鎮痛作用がある」
どう使うのだろうかとミクが考えている間に、がくぽは洗面器の水に手拭いを浸して固く絞った。
「ミク、手を貸せ」
「え……、うん……?」
毛布に潜り込んだまま、右手を差し出す。がくぽの手がミクの手を捕まえたかと思うと、温かい手拭いがミクの手の甲から肩に向けて一息に拭き上げた。
「え!? ちょっと、何!?」
「昨晩汗をかいただろう。どうせその様子では今日は風呂には行けまい」
「なんか変な匂いがする」
「薬湯だからな。乾けば匂いも消える。少し我慢しろ」
「うぅ……」
ミクが唸っている間に、今度は手の平側から脇に向けて拭いてしまう。がくぽに促されて左手も差し出すと、あっという間に手拭いで拭かれてしまった。
「身体を起こせるか?」
「うん……、大丈夫……」
毛布を抱きしめたままのろのろと上半身を起こすと、首筋から背中まで優しく丁寧にがくぽが拭いてくれた。
こんな風に誰かに身体を拭いてもらうなんていつ振りだろうかと考えていると、静かに身体を横たえるように促される。
後は自分でやるから ミクがそう言葉にする前に、抱きしめたままの毛布に潜り込んだがくぽの手がミクの腹部に触れた。
「えっ、あのっ」
「どこか痛むか?」
「……ううん、平気……」
心配そうに顔をのぞき込まれて、言いかけた言葉を飲み込んでしまった。仕方なく毛布を抱きしめて紅潮しそうな顔を半分隠しながら、ミクは大人しくされるがままになっている。
ちくちくとした腹部の痛みが温かさのせいか薬湯のおかげか、ふわりと和らいだ気がした。何となく身体がぽかぽかと温まって心地良い。
がくぽの手が毛布から出てしまうと、毛布が冷えている訳でもないのにひんやりとした。心持ち寂しさを感じてもらしそうになったため息を何とか堪える。
ふと、ひょいと右足を持ち上げられてミクが驚いて足元を見た。ベッドの足元側に移動したがくぽが自分の膝の上にミクの踵を乗せて丁寧に指先を拭いていく。
「あの……、自分でやれるから……。そこまでしてくれなくていいよ……?」
「気にするな。昨夜の詫びにもならんが」
がくぽの苦笑がミクの胸にちくりと刺さる。がくぽが謝ることなど何一つないのに、そんな言葉を言わせてしまった。心苦しさに一瞬息が詰まりそうになる。
「今日はこのままゆっくり寝ていろ。お前は何もしなくていい」
がくぽの唇がミクの足の指先で、ちゅ、と小さく音を立てた。甘い音に先刻とは別の意味で息が詰まりそうになる。
(なんかお姫様みたい……)
とろとろと眠りに誘われていたミクだったが、足首から膝に向けて、ふくらはぎから膝裏に向けて拭われた後、がくぽの手が膝から這い上がってくる気配を感じて ミクは一気に眠りから引き戻された。
「ちょっと、えっ……」
ミクが抗議の声を上げるよりも早く、手拭いはミクの大した太さもない大腿部を拭き上げてしまった。静かに右足を下ろされて、今度は左足を持ち上げられる。右足と同じように指のひとつひとつを丁寧に拭われていく。
(……やっぱりなんかちょっと、恥ずかしいんだけど……)
そう訴えたいのだが、がくぽがいたわってくれているのだと考えると、ミクは言いたいことも飲み込んでしまう。やめてくれと訴えたらがくぽの気遣いを否定することになるのではないか。そう思ったらミクはただ黙ってされるがままになるしかない。
右足と同じように左足も足首から膝、ふくらはぎから膝裏へ、膝から大腿部へと拭き上げられていくのをミクはただ大人しく待っていた。
「……少ししみるかもしれない。悪いが少し我慢してくれ」
「え? ……ちょっと待って、何!?」
ミクの左足を膝の上から下ろしたがくぽは、その白く細い脚を覆っていた毛布をまくり上げた。驚いたミクが身体を起こしかけて痛みに顔を歪める。
「すぐ済む、心配するな」
「心配とかそういう……っ」
羞恥で顔を真っ赤にしたミクががくぽを睨み付け その沈痛な表情に言葉を失った。
「……血がついてる」
がくぽは昨晩飽きるほど繰り返した後悔を改めて後悔した。知識で知っていることと、実際に好きな女が苦しむ姿を目の当たりにするのとでは訳が違う。紛れもなく彼女を傷つけたのは自分で、その辛さはどうしようもなくて、痛みを代わってやることもできない。
できることと言えばせいぜい持てる知識の全てを活かして、苦痛を少しでも和らげてやることくらいだ。
言葉を失ったミクは、がくぽの表情と言葉に心の底が冷えた気がした。
(……面倒な女だって思われた……?)
付着した血を優しく拭われながら、ミクは抵抗する気力すらなかった。
(どうしよう、なんで私ってこうなの? ちゃんと……、ちゃんと昨日できてたらがくぽにこんな顔させずにすんだのに……)
毛布を強く抱きしめて、泣き出しそうな顔を隠した。霰もない姿を見られていることも充分に恥ずかしいのだが、それ以上に情けない顔を見られたくなかった。羞恥と自己嫌悪でぐちゃぐちゃの顔をしているはずだ。そんな顔を見られたくない。
同じように自己嫌悪に陥っていたがくぽが、ミクのそんな様子に気づくはずもなく 脇に置いていた乳鉢から指先で柔らかい軟膏を取り、昨晩ミクを傷つけた場所にそっと塗り込んだ。
「や、いっ……! やだ……!」
「止血作用がある、少し我慢してくれ」
「だってがくぽ、こんな……痛っ……」
「……すまん」
がくぽが引き抜いた指先を見て小さくため息をついた。まだ鮮血が付着してくる。
こんなに深く傷つくのかと、がくぽは謝罪の言葉さえ見つけられなかった。自分のことで手一杯で、そのため息がミクの心にどれだけ冷たく突き刺さったかなど気づくこともない。
毛布を直してがくぽはベッドを下りた。頭まで毛布を被ったミクの啜り泣きに、どんな慰めの言葉をかければいいのかも思いつかない。言葉もなく、毛布の中で震えるミクを見ることもできず、ただ立ち尽くすしかできなかった。
ミクの啜り泣きだけが聞こえる重苦しい沈黙の中で、鍋がぐつぐつと煮える音が聞こえてきた。手拭いを洗面器に放り込んで、がくぽが鍋の蓋を開けた。
「ミク、起きられるか? マスター直伝の滋養強壮スープができたぞ」
穀物や野菜、木の実が湯気の向こうで水分を吸収してふっくらしているのが解る。スープとは言ったものの水分より明らかに具の量の方が多い。
竈の火を消し、スープを椀に移して盆に乗せる。スープをテーブルまで運んでも、ミクはまだ毛布の中に潜り込んだままだ。
「……大丈夫か? 腹が減っただろう。まだ痛むだろうがまずは食え。腹が減ったままでは体調も戻らん」
「うん……」
「……ベッドから下りるのは難しいか?」
「……うん……」
ベッドから下りてテーブルにつくくらいは動けるだろう。だが、今はどうしてもがくぽと顔を合わせたくなかった。ミクは毛布の端をぎゅっと握りしめた。
「……そうか、わかった」
毛布の中でミクが安堵のため息をつくと、不意に枕が動かされる気配がした。何だろうと思っていると、毛布にくるまったままのミクをがくぽが抱え上げる。
「きゃ……」
小さな悲鳴を上げ終えるよりも早く再びベッドに下ろされて、ミクが毛布から顔を出した。背中の下に枕があり、上半身を起こした形になっている。
「がくぽ?」
ベッドの横に椅子を置いたがくぽが椀を持って腰掛ける。
「……ほら。熱いから気を付けろ」
スープというよりはリゾットに近いかもしれない。木のスプーンに乗った野菜がミクの口の前で湯気を上げている。
「え、あの……自分で食べられるから……」
「俺がしたい。……お前を甘やかしたいんだよ」
照れたようにがくぽが笑った。
「何なら俺が冷ましてもいいが?」
「それくらい自分でできるよ」
恥ずかしそうに笑ってから、ミクは胸元の毛布を抱きしめてスプーンにふぅふぅと息を吹きかけた。湯気が収まったのを確認してスプーンを唇の前まで運ぶと、紅を挿したかのような唇が開かれてスプーンを口の中に閉じこめる。
がくぽがスプーンを引くと、閉じた唇からするりとスプーンが引き出された。それと同時にミクがもぐもぐと野菜を咀嚼する。
(『はい、あーん』で食べさせてもらっちゃった……なんか恋人同士みたい……)
飲み込んだ野菜は昨晩疲れ果てるほど泣き続けたミクの空腹と心を温かく満たし、自然に口元を綻ばせた。嬉しそうなミクの笑顔にがくぽがほっと胸をなで下ろす。
「うまいか?」
「おいしい! これマスターが作ってくれたの?」
「いや、材料を渡されて作り方を教えてもらった」
「え? がくぽって料理できるの?」
「……できる」
「そうなの!? いつの間に!?」
「前からできた。祖父と二人暮らしのときは家事も手伝ったからな。ただ最近の流行の料理は作れないが」
「でも家で作らないじゃない?」
「手伝おうとしたらお前に止められた」
「あー……そういえばそうだっけ……」
料理ができるなどとは知らず、手伝おうとしてくれたがくぽに対し怪我をしたら大変だからと止めたことがある。そんなことなら手伝ってもらえばよかったとほんの少しだけ後悔する。
「え、じゃあ……ご飯作ってって言ったら作ってもらえるの……?」
「別に構わないが」
「本当?」
「ああ、だがお前が自信を失くしても知らんぞ?」
意地悪くがくぽに笑われて、ミクはぐぅと黙り込む。
「……検討します」
「そうか。俺はミクの料理も好きだがな」
優しく笑って二杯目のスプーンを差し出した。
スープを食べ終えたミクは独特の匂いと味のする薬湯を飲まされて再びベッドに横になった。洗い物の音を聞きながら、子供の頃に戻ったような懐かしい感覚に満たされる。
(あー……なんだっけ、こういうの……。昔あったような……)
孤児院に預けられたばかりの頃だったかもしれない。ずいぶんと遠い昔になってしまった記憶の糸を辿っているうちに、ミクは身体がぽかぽかと温まって眠りに誘われているのを感じた。
「ミク、眠いか?」
洗い物を終えたがくぽがベッド脇に屈んでミクの顔をのぞき込む。
「なんかうとうとしてきた……」
「鎮静と鎮痛作用だ、眠くもなるだろう。ゆっくり休め……俺も少し眠る」
「……がくぽは昨日寝たの?」
「いや……」
立ち上がって身体を伸ばしながら、
「歌唱隊に連絡するのに起きていたら寝そびれた。徹夜は慣れてる、心配するな」
そう言って笑ってミクの頭をなでた。
「少し強い薬草を使った。もしかしたらだるさを感じるかもしれない。まあ一晩寝れば治るだろう。……夕方には起きるつもりだが、何かあったらすぐ起こしてくれ」
「ねえ?」
階段を上りかけたがくぽがどうしたと足を止める。
「徹夜って……最近忙しいの?」
「……。まあ、いつものことだ」
曖昧に言葉を濁して、おやすみと笑ったがくぽの階段を上る足音だけが響き渡る。
(んー……? なんだろう、何かひっかかるような……)
胸のひっかかりが気になったものの、ゆるゆると眠りに誘われてミクは重くなった瞼を閉じた。
身体の重だるさにミクは目を覚ました。
身体の奥からじわじわと鉛に変わっていくかのように、だんだんと鈍く、重くなっていく。
(何だろう……だるいんだけど落ち着かない……)
身体は重く鈍くなるくせに、やたらと肌の表面がざわざわするような気がする。圧がかかるためか特に腰周りがざわついて落ち着かない。ミクは寝返りを打ち、頭まで被っていた毛布から顔を出して部屋の様子を窺った。
(がくぽ、まだ寝てるのかな……)
外の気配から察するに、夕方にはまだ早い。もう一度眠ろうかと目を閉じてみても、身体のざわつきが気になって眠れそうになかった。
眠ることをあきらめて身体を起こしてから、身体のどこにも痛みがないことに気づいて驚いた。緊張して無駄に身体を強ばらせたために全身筋肉痛状態だったのだが、かえって身体が軽く感じられるほどだった。腹部のちくちくした痛みもほとんどない。
枕元にきちんと寝衣が畳んで置いてあった。がくぽが用意してくれたのだろう。ミクは寝衣を着てベッドを下りると、軽く身体を伸ばしてみた。
(本当に痛みはなくなったけど……、これが副作用なのかな……)
少し身体を動かすとだるさは止んだのだが、今度は身体のざわつきが気になって仕方がない。腰回りがざわついていたのはベッドで仰向けで眠っていたせいかと思っていたが、立ち上がっても腰から背中へと範囲が広がってしまっている。
(なんか……何だろう……。変な感じ……)
落ち着き無く自分を抱きしめて、ミクはふと二階を見上げた。
(寝てるかな……)
階段に片足を掛けては下ろしを数回繰り返し、それでもしばらく迷っていたがゆっくりと足元を確かめるように階段を上った。
この家はミクが森から戻ったときに、その報酬として与えられたものだ。当然家主はミクなのだが、二階へはほとんど上がったことがない。がくぽが来てからは一度も上がったことはなく、それ以前も毎日教会・孤児院・酒場を回っていたため、自宅には寝に帰るだけだった。この階段を上がるのは実に一年振り以上だ。
落ち着かない身体を抱えて手すりに掴まって階段を上りきると、ミクはがくぽの部屋のドアを小さくノックした。
(やっぱり寝てるのかな……)
返事はなかった。ドアノブに手をかけると、簡単にミクを部屋に招き入れる。
呼びかけようとして、ミクは彼の名を飲み込んだ。
久々に入った二階の部屋は、机と椅子、ベッドに衣装箪笥しかない簡素で小振りの部屋だった。壁にフィドルが立て掛けられている。
きちんと片づけられ整然とした空間の中で、ベッドに横たわる部屋の主の顔だけがひどく険しく 森の中でさえ見たことのないような険しい顔で、額に汗を浮かべていた。
時折呻き声が漏れ聞こえる。苦しそうな、辛そうな、聞いているこちらの胸が凍るほどの苦悶の表情に、ミクは自分の体調のことも忘れてただ立ち尽くすしかなかった。
(徹夜は慣れてるって、こういうこと……?)
どんな悪夢にうなされているのだろう。もしこれが毎晩のように繰り返されているのだとしたら、眠るのが苦痛になるのではないだろうか。
(でも……そんなの一言も……、そんな気配だって全然……)
一年間も一緒に暮らしてきて、夜眠れないような気配は感じなかった。これはたまたま、今だけのことだろうか?
乱れる息で呻くがくぽの額の汗を拭おうとして、ミクが手を伸ばした時だった。
「ルカぁぁぁ!!!」
凍り付いた表情で手を引いたミクと、自分の声に驚いて目を覚ましたがくぽの目が、合った。
「あ……」
「……ミク?」
「その……ごめん、起こした……?」
「いや……」
のそのそと身体を起こしたがくぽが両手で顔を覆った。
「ミク。俺は今何て言ったんだ?」
ぎくりとする。両手で自分の寝衣を握りしめて、
「よく聞き取れなかったけど……多分、うわあ、とか……そんな感じだったと思う」
うなだれたままのがくぽから視線を逸らした。
がくぽはそうか、と応えてため息をつく。
「嫌な夢でも見たの?」
「……覚えてないんだ。少なくとも良い夢ではなかったんだろう。目が覚めた瞬間に夢の内容は忘れるんだ」
「いつもなの……?」
「……毎日じゃない」
毎日ではないが、そういう日の方が多いということだろう。
「それより体調はどうだ? どこか具合が悪くて俺を呼びに来たんじゃないのか」
顔を上げてベッド脇に立ち尽くすミクを見上げた。
「えっ、あ……、ううん、まだ寝てるのかなあって」
「そうか。見苦しいところを見せてすまない」
「ううん。あ、そうだ。ねえがくぽ、あのね?」
ミクを見上げたままのがくぽの額に、柔らかなミクの唇が触れる。
「もう少し寝たら。今度はきっと良い夢が見られるから」
間近く微笑んで、がくぽの乱れた髪を優しくなでた。
「……どうせなら唇を奪ってくれ」
「それは良い夢を見るおまじないじゃないからダメです」
「そうか。じゃあどんなときならいいんだ?」
「それは秘密です」
ミクが人差し指を立てて唇に当てると、がくぽはちぇっと唇を尖らせて再びベッドに横になった。
「お言葉に甘えてもう少し休ませてもらう。何かあったらすぐ起こしてくれ」
「うん、じゃあおやすみ」
「おやすみ。……ありがとう」
階段を一段一段下りる音を聞きながら、がくぽは額の感触を指で確かめて 微かに口元を綻ばせた。
せめて心やすらかに眠れるようにと祈りながら、がくぽは再び眠りに落ちていった。
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