全部だきしめて

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5.

「松木!」
 焼却炉の前に佇む松木を大声で呼んだ。静かに振り返った彼女の手にはゴミ袋はない。もうすでに焼却炉に入れた後なのだろう。炉の口を閉めて、まるで何事もなかったように長瀬の前に来て、
「私、ちょっと散歩に行ってくるけど……一緒に行く?」
「……は?」
 あまりの言葉に、咄嗟に何も言えなかった。先ほどのことも何か言いたかったはずなのだが、この非常時に散歩という行動を選ぶ彼女についていきかねて、長瀬の頭は真白になった。
 散歩って……いや、それってエスケープ?
 いろいろなことが頭の中を走馬灯のように駆け巡っていたのだが、硬直した長瀬を松木は同行しないと判断して、踵を返し校門に向かって歩き始めた。
「松木」
 慌てて後を追う長瀬の背に始業のチャイムが聞こえたが、この際聞こえないことにした。

 無言のままついていった先は、いわゆる「どんぐり広場」的な小さな公園だった。砂場と小さな山とブランコ、あとはベンチしかないような公園。
「学校のすぐそばに公園なんてあったんだ」
「通学路から離れてるからね」
 水道で手を洗っていた松木が事務的に答えた。ハンカチで手を拭いている松木をじっと見ていた長瀬だったが、
「長瀬君、ごめんね……って」
 やおら松木の頭を撫でた。
 いきなりなことに今度は松木が言葉に詰まる。
「エライよな」
「もしもし?」
 一歩下がって、長瀬の顔をまっすぐに見る。
 長瀬もまっすぐに松木を見つめ返した。
「泣きたいのも必死にこらえて歯食いしばって、松木は大人だよな。でもさ? たまには泣いたっていいんじゃない? 松木のことだから、弱味見せないようにって、ずっと耐えてきたんだと思うけど……誰かに甘えたいって思ったら甘えたっていいんだよ? ひとりじゃないんだから……」
「……」
「ひとりきりで全部抱えてやせがまん、するなよ」
 もうひとりじゃないから。
 俺がついてるから。
「……」
 それは、今まで一度も松木にかけられたことのない言葉。
 ずっと待っていた言葉。
 そして、あきらめていた言葉。
「……ッ」
「松……」


 ふわり、と羽が舞うように長瀬の胸にしがみついた。
 その衝動でメガネが地面に落ちた。
 初めて間近に見る松木の瞳から、涙がこぼれていた。

「紅茶の話、また聞かせてくれないか?」
 松木の細い肩を抱きしめて、長瀬がそっと囁いた。
「松木の笑顔って俺すごく好きだから……だから……」
「今は……お願い」
 長瀬の胸の中で、そっと微笑んだ。

   このままで……

 ふたりを見守っていた地面に落ちたメガネに、小さくひびが入った。


「松木、今日くるかなぁ」
「まさか……普通あれだけされたら登校拒否するって」
 教室の片隅でそう囁きあうのは森と守田だ。昨日あの後、松木は教室には戻っては来ず、長瀬だけが帰ってきた。当の被害者はいない、目撃者であり証人である長瀬も朝の事件に関しては何も言わなかったし、またクラスメイトも巻き添えを食いたくなかったのであろう、教師に何らかの告げ口をする者はなかった。だから松木は欠席、長瀬は遅刻、森と守田はいっさいの処分なし、ということで収まっていた。
「そりゃそうだけど……言いたいことがあるのよ」
 いつもなら松木はとうに登校している時間だが、彼女はまだいない。長瀬はといえば、すでに席について窓の外をずっと眺めている。あのふたりなど眼中にないと主張するように。
「おはよう」
 鋭い刺を含む、教室中に聞こえるように大きな声で挨拶したのは、松木だった。
 ざわり。
 教室にいた生徒たちがざわめいた。
 聞き覚えのある声に、長瀬が声の主に向き直……った。
 そこにいたのは、知らない人。
 氷のような険しい表情。肩で切りそろえられた黒髪。その顔にメガネはない。
 でも、それが誰だか、知っている。少なくとも長瀬は。
「松木?」
 生徒たちがざわめいたのは、彼女が今日登校したということとは別に、あの腰まで届く長い髪をバッサリと切り、初めてメガネをかけずにいるということが原因らしかった。
 森と守田に刺のある挨拶を投げ飛ばして、松木は自分の席に着いた。
「松、木」
 松木の強さに怯んだのか、少々頼りなさ気に森が彼女の正面から声をかける。
「……私」
「あのね、森さん」
 何かを言いかけた森を遮り、松木は一言いいかなと微笑んだ。
「殺すなら私を殺したら? 猫は関係ないでしょう?」
 宣戦布告とも取れる発言の後の彼女の微笑みを正面から受けることは、どれほどの勇気が要っただろうか。長瀬の席からは見えないが、きっと心から震え上がるようなものであったに違いない。普段無口な彼女が言うから尚更だ。
 守田のところへ逃げ帰る森を見届けてから、長瀬は松木の席へ行く。
「髪切ったんだ」
「これ? 髪を切ったってコンタクトにしたって私は私でしかないのにね」
 メガネ割れちゃったしね、と付け加えて松木が続ける。
「ね? あの人たちの私を見る目、変わったでしょ。私の本質は何も変わってなんかないのに」
 言いたいことがあると言ったくせに松木に凄まれ逃げ帰った森が、守田に何やら激しく喧喧囂囂と叱咤されていたが、そんなことは知ったことではない。
「……変わろうよ」
「え?」
 長瀬がどこか照れくさそうに頭をかきながら、それでも最後まで言い切った。
「俺たち結構似た者同士だから……その、だから……一緒に変わろう」

 だから、一緒に。

「……長瀬君、今度うちに紅茶飲みにおいでよ」
「え……ええっ?あ、あの……」
 一瞬にして赤面した長瀬に松木は、
「約束」
「……はい?」
「紅茶の話!するっていったでしょう昨日!?」
 食って掛かった。
「あ、そういうこと……ね」
 長瀬は思わず苦笑する。
「今度忘れたら承知しないゾ!」
 ぷりぷり怒っている彼女があまりに可愛らしかったので、長瀬は思わず吹き出した。

 ひとりでは踏み出せない一歩でも、ふたりでなら踏み出せるだろう。
 きっと遠くまで歩いていけるだろう。
 ほら、現にふたりきりでなくても、彼女はこんなにも快活に話しているではないか。

 だから、一緒に変わろう。

 これからきっと、もっと変わっていけるのだろう。
 ふたりでなら、きっと。

 紅茶を入れてくれたら、きっと言おう。
 長瀬はそっと心に思う。
 髪が長くても短くても。
 笑っていても怒っていても。
 強がりなところも、脆いところも。

 すべてのひなたが、大好きだよ。

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