孤独の影
2.
1限目の授業が終わった後の2階の廊下に、別の教室へ移動する生徒、暑さに風を求める生徒、10分間の放課を持て余した生徒たちがいる。北に向いた廊下の窓から入ってくる風は少しひんやりとしていて、退屈な授業でうだった頭を冷却するにはちょうどよかった。
自分の教室の前の廊下に、カチューシャをした女生徒がいた。クラスメートで、彼女の中学時代からの親友だ。彼が歩み寄ってくるのに気づくと、今日はどうしたのと手を振りながら笑いかけてきた。いつも校則はきっちりと守る彼が制服のネクタイを外していることを一瞬気に止めたようだったが、特に言及はしなかった。
「珍しいね、遅刻なんて。寝坊でもしたの? それとも昨夜は緊張して寝れなかったとか?」
いつも通りに話し掛けてくるカチューシャの彼女の前を通り越して、開け放たれた窓から北校庭を眺める。そんな彼の様子にカチンときたようだったが、彼の視線の先に親友が他のクラスの男子生徒と話しているのを見て、小さくため息をついた。
(……ケンカか……)
まず第一に、彼の視線の厳しさというか、鋭さ。普通自分のカノジョをそんな目では見ないし、いつもはもっと優しい目で見ていたはずだ。第二に、彼女がわざわざ北校庭で他のクラスの男と話すなんて。そんなの彼に対するアテツケに決まっている。アテツケの仕方が幼稚なのだ、彼女は。
(あ〜あ……ふたりとも不機嫌絶頂〜)
彼女とは中学の頃からの付き合いだ。以前からいろいろと大変な思いをしてきたのは知っているし、だから高校に進学してから密かに想っていたという彼と付き合い始めたと聞いたときは驚きもしたが、それ以上に嬉しかった。彼はちょっと印象の薄いカンジがあるが、ちゃんと見ればそれなりに顔は整っているし、何よりも優しかった。
……このふたりには、しあわせになってほしいのに。だから彼の話にも乗ったというのに、もしかしなくてもこの様子だと失敗に終わったのだろうか。
「……がんばりなよ?」
睨むように或いは落ち込んだように彼女たちを見つめていた彼が、ふとどこかへ歩き出したその背中に、精一杯のエールを送った。自分が口を出す問題ではないのかもしれないが、応援してる人間がいるのだと知っていて欲しかった。
「ああ……」
振り向くことのなかった彼の口元に、薄い笑いが張り付いていたことなど、カチューシャの彼女に解る由もない。
あてどなく彷徨って、校舎の屋上に出た。フェンスで囲まれた殺風景な場所だが、青く澄んだ夏の空に包まれて、湿度の低い今日は割と涼しい風を運んできてくれる。
「しばらく時間でもツブすか」
フェンス越しに校庭を眺め、心地よい風に身を任せながらふと先ほどの光景を思い出した。
一緒にいた男子生徒は、どのクラスかまでは解らなかったが同級生のはずだ。学年集会であの肩まで伸ばした茶髪を生活指導の教師に咎められていたのを覚えている。真面目なカンジの彼とは対照的に、その男子生徒はチャラチャラしたカンジで、たいていひとりかふたりは女子生徒がくっついていた気がする。
その男子生徒と話す彼女の楽しそうな表情といったら!
他の女子生徒が割って入る隙さえ与えないほどの親密さで、ときには腕まで組んで談笑していた。与えられた時間は短い放課のわずか10分、それだけの間に自分のペースに引き込んでしまうことができるほど、彼女が明るく振舞うのを見たことがなかったというのに。
なのに、あの男子生徒とは……。
ガチャリとフェンスに右手をかけて、ふと彼女の言葉を思い出す。
『私、ずっとあなたが……』
屋上に呼び出されて、顔を真っ赤にして震えながら、それでも目を逸らすことなく彼にそう打ち明けた。あのときどれほど嬉しかったか、彼女は知っているのだろうか?
1年のときから彼を想っていたという彼女。彼もまた、入学当初から彼女を想っていたのだ。
何か言えば声が彼女以上に震えてしまいそうで、言葉もなく彼女を抱きしめた。きっとお互いに震えていたに違いない。あのときの愛しさを忘れた瞬間など、ないというのに。
それなのに。
それなのに、彼女は。
「それをあの女……」
さきほどの光景がまぶたに焼きついて離れない。どれだけ頭の中から追い払おうとしても、否、追い払おうとする度により鮮明になるその光景に引きずられるようにして、フェンスにかけた右手がざわりとどす黒く変色していく。
「あの、女は!」
ブチッ!
強く握りしめた右手が、フェンスを引きちぎった。それでも傷ひとつ負うことのなかった右手が、すうっと元の色に戻っていく。
「早く来い……オマエの血の海でオレを溺れさせてくれ……」
右手の指先を舐めながら、冷たく笑った。