孤独の影

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5.

 引き裂かれた制服、露になった彼女の白い素肌、そこからあふれ出る深紅の血。屋上から逃げられる唯一の扉の前で力なく座り込み、震える手で自分自身を抱きしめ怯えながらも果敢に彼を睨みつけてくる彼女の瞳。
 何もかもが夢のような光景だった。
 目障りだと言った彼女の瞳に今映っているのは、紛れもない自分。
 身動きすることもままならず、ただ怯え震え泣き叫びながら彼女が自分を受け入れる様を想像して、彼は全身を粟立たせた。
「い…いやっ……来ないで!」
 語尾の強さに反して、その声に威勢がない。左胸のあたりから、右下腹部までを切りつけられたのだ。出血性ショックで立ち上がることももはやできまい。
 逃げることも、戦うこともできない。
 悠然と彼女に近づき、見下ろしながらこの上ない優越感を満喫する。
 彼女はもう自分のモノ。
 自分だけの、モノだ。
「……心配するなよ」
 泣きそうになりながら睨みつけてくる彼女に、にたりと笑って彼は告げた。
「痛いのは一瞬だけだ。あとはすぐによくなる」
 ゆっくりと、じらすように一歩ずつ彼が近づいてくる。
「いや……」
 だんだんと意識が朦朧として、彼を睨みつける気力も尽きた。
 ダメだ……このままじゃ傷が……。
「さあ……」
 彼に促されて、力なく首を横に振る。
「死にたくない……」
 助けて。
 誰か、助けて      
 ついに彼女が瞳を閉じて観念したとき、すぐ間近に気配を感じてバッと顔をあげた。
 すぐ目の前に、無表情な彼の顔が、あった。
「…………!!」
 血を多量に流した状態で急に頭を動かしたせいで、彼女の目の前が一瞬にして真っ暗になった。全身の感覚が遠のいて、雲の上をふわふわと漂っているようなあのカンジ。真っ暗になったその意識の果てで、彼に絶好のチャンスを与えてしまったことに気づいたが、貧血だからと見逃してくれる彼である訳が、ない。

 ズザザァアッ!
 足を捕まれてどれだけか引きずられた。目眩を起こして抵抗することのできない彼女は、そのまま背中を床に叩きつけられる形になる。
 起き上がろうとする(実際にはそんな力は残ってはいなかったが)彼女の首を間髪入れずに押さえつけ、どす黒いアザを浮かべた右手でその細い首を締め付けた。
「ああ…ッ! は……っ、あ……ア……ッ」
「ハハ……ッ、イイねェ」
 彼女の白く細い両足の間に割って入り、適当に窒息しない程度に力を加減しながら彼女の首を締め上げる。出血してただでさえ血圧が下がっているところに首を締められて、暴れる力もかよわいものだった。両手で抗っても彼の右手一本にさえかなわず、両足でなんとか蹴飛ばしてやろうとしても、子猫の蹴りにも劣るダメージしか与えられない。無力な抵抗はただ彼の嗜虐心を刺激することしかできなかった。
「もっとイイ声聞かせろよ!」
 ギリィ……ッ!
 骨が軋むかと思うほどに、その首を掴む右手に力を込める。
「イやァ……ッ!!」
 必死にもがいて、彼を蹴り飛ばそうとはするのだが、無駄な徒労にしかならなかった。酸欠で視界が暗くフェードアウトしていく中で、それでも彼を睨みつける。
 人ならざる力を宿す右手から全身に及んでいるのだろう、彼の顔にまでどす黒いアザが転移していた。
 首を締め付けてくる冷たい彼の右手から手を離し、彼女はそっと彼の頬に触れた。すでに末端まで血のめぐらない彼女のその指先は、氷のように冷たかった。
 こんなにも、冷たいクセに。
 まるで静かな水面に一滴の涙が零れたように、波紋が広がるのは何故……?

「…………………………」

 出血と酸欠で、もう余力は残されていない。
 彼女にはもう、悲鳴をあげるだけの力さえ、ない。
 なのに、何故。
 言葉にさえならなかったはずの彼女の声が、彼の内に降ってきた。


「アナタガ ワタシヲ コロスノ ………… ?」

 キィン……。
 小さな金属音がした。
 指輪、だった。


 アナタガワタシヲコロスノ?


 急に首を締め付ける力が緩み、戒めから解放された。
 徐々に戻り来る視界で彼女が見たものは、自らの手で頚動脈を切り、鮮血を撒き散らしながら倒れていく彼の姿、だった。

「私ずっと、あなたが好きだった」
 そう最初に彼女に打ち明けられたとき、まるで夢のようなその瞬間に返す言葉さえ失った。それまで何か特別なことがあった訳ではない。特に会話を交わした訳でもない。ただ見ていただけだ。
 ただ、見ていただけ。でも彼女がずっと好きだと言ってくれたように、彼もまた彼女のことがずっと好きだったのだ。
 お互いが、知らぬ間にお互いを見つめていた。
 あのときから、ようやく見つめあえるようになった。
 互いにそれほどおしゃべりな訳でもない。
 たわいもないことをぽつり、ぽつりと話すだけの、ただそれだけの。
 ただ、それだけで愛しかった。
 かわいくて仕方なかった。
 ときどき物思いに耽ったように、遠くを見る彼女の横顔が切なかった。
 そうして思い出したように振り返って、彼女は言うのだ。
「ねえ? ずっと一緒にいられたらイイね……」
 祈りの言葉にさえ似た彼女の呟きに、そっと抱きしめた。
 いるよ、ずっと一緒に。
 好きだよ、俺もずっと前から。

 もう、ずっと前から…………。

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