孤独の影
6.
あれは、夢……?
どこか胸の奥が締め付けられるような、それなのに温かいような、そんな言いようのない感覚に支配されてそっと目を開いた。
「気がついた?」
すぐ目の前に、彼女の顔がある。
ついさっき、この手で血塗れにしたはずの……
「…………。」
寝起きのせいか、まだ思考がぼんやりとしている。ただ彼女を見上げるそのアングルと、頭の下の柔らかな感触で、膝枕をしてもらっているのだということは理解した。
「……服が戻ってる……」
確かに引き裂いたはずの制服が、何ひとつ乱れることなく彼女を包み込んでいる。
「……言うことはそれだけか!」
ゴンっ!
容赦ない拳をお見舞いされて、彼はうめきながら起き上がった。そうしてだんだんとハッキリとこれまでの経緯を思い出していく。
どうしてこういう状況になった?
彼女を斬りつけて動けなくしてから首を締めて嬲った。
それから……彼女が触れてきて。
聞こえるはずのない声が、聞こえてきて。
そうして。
そっと首に触れてみる。自分では見ることはできないが、確かにそこには傷跡がある。だが痛みはなく、出血している様子もなければ、包帯が巻かれている様子もない。
「俺……どうして……」
アナタガワタシヲコロスノ……?
彼女のあの声がしたとき、彼女を殺してはいけないと思った。そして咄嗟に自分で自分の頚動脈を切断したのだ。あの時の自分の暴走を止めるには、他に手段がなかったから。だから、思い切りためらわずにやったのに、何故今生きていられるのか。助かるはずもなかったのに……!
『ムチャしやがって死ぬかと思ったじゃねーか!!』
「うわっ、口が勝手に……!!」
彼の意思に反して、口が勝手に動いて言葉を紡いでいた。そんな様子を彼女は特に興味もなさそうに眺めている。
ぱしゃん……。
彼の影が水たまりのように波打って、そこから漆黒の影が人形をしてぬるりと姿を現した。下半身は彼の影と繋がったままゆらゆらとしていたが、上半身はしっかりと人の形を彼の姿を写し取っていた。
見覚えのある、その顔。
今朝、鏡の中に見たもうひとりの自分。
「……お前」
「言っただろ、『影』だよオマエの。自己防衛本能でオレじゃオマエを殺せねぇんだよ」
あの時、『影』の力に支配されていた彼では自殺することはできなかったのだ。例えどんなに出血しようとも、彼は知る由もないのだが、『影』自身の治癒能力で傷を塞ぎ生命活動を維持させようとするのだ。
「……あいつは……」
『影』は彼を殺せない。だが、他の者なら殺せるはずだ。彼女と待ち合わせしていた男子生徒はどうなったのか。致命傷は与えてはいないはずだが、おびただしい量の出血をしていたはずだ。
「『私』が治したわよ! そういうのってフツウ最初に訊かない? まあ、走って逃げてったくらいだから元気なんじゃないの」
憤慨する彼女の言葉に、気がついた。
普通の人間には、傷を一瞬で治すことはできない。
フツウのニンゲンには……。
目障りだわ!
今朝のあの言葉が甦る。
「”お前”……まさか!」
「……私たちは人の心から産み落とされた、いわば『人類』が共有する『影』……」
今、彼の姿を写し取っている『影』と彼女を支配している『影』は個であり同一なのだ。同時にそれは、彼が心に影を抱えていたように、彼女もまた影を抱えていたという揺ぎ無い証でもある。
今朝、彼が心を影に食われたように、彼女もまた影に負けてしまったというのなら、そんなつらい思いをしていたというのなら、そしてあの言葉が彼女自身の言葉ではないというのなら……。
「悪い。『そこ』から出てってくれないか」
彼女の中にいる影に告げた。
だが彼女は冷たく嘲笑い、
「このコに会いたい? 会ってどうするの、あんたが先に裏切ってこのコを傷つけたクセに」
「何を……!?」
「白々しい!!」
怒鳴りつけた。
「このコの親友に指輪をプレゼントしてたクセに……ッ!! 他にもたくさんツライこと抱えてたのに気づきもしないで! トドメ刺しといて今更カレシ気取りしてんじゃないわよ!!」
それは『彼女』のことのはずだった。なのに、彼女の瞳からはボロボロと涙がこぼれて止まらない。どうしてこんなにも涙が止まらないのだろう。
……知ってるからだ。
そんな思いを、自分もしたことがあったから。
「目障りだわ!!」
吐き捨てた。許せなかった、この男が。影として彼女を奪った。だがたったひとつだけ、彼女の仇だけはきっと討とうと思ったのだ。
カッと血が上った頭を落ち着かせて、涙を拭って彼を睨みつけたとき、彼女は不覚にも一瞬胸が高鳴るのを自覚した。
彼が、まっすぐ彼女を見つめたまま泣いていた。
立ち尽くしただ静かに涙する彼の姿には、闇の気配など微塵も感じさせないそう、人の犯した罪に涙を流す天使のように澄んで。
「約束の……指輪だったんだ」
彼が、ぽつりと呟いた。
「今朝渡そうと……でもサイズとか判らなくて……選ぶのを手伝ってもらって……」
ずっと一緒にいられたらいいね。
そう言った彼女が心を影に奪われるほどの、いったいどんな苦しみを抱えていたというのだろう。ときどき遠くを見る彼女がそのとき何を想っていたのかなど、まるで考えもせずに彼女といられる現状に満足していた。
……しあわせだった。
彼女にとっては、違ったのだろうか。
いや、しあわせだったからこそ、彼女の親友と一緒に指輪を選んでいるところを見て衝撃を受けたのだろう。ならば、伝えたい。
本当のことを言いたい。
本当のことを聞きたい。
いや、今は何よりもただ。
「会って……直接謝りたい」
それは真摯な願い。拒絶されても構わないから、許されなくても構わないから。
「無理ね」
だが、彼女は拒絶する。
「あんたたちと違ってこのコは生きることを放棄した、だから『私』たちは魂を替えたの。このコきっと心を閉ざしたまま虚ろに死ぬわ。……ただ」
それはとても可能性の低いことだけれど、『彼女』にもう一度会う手段がない訳ではない。
「……『生きたい』という強い意志が戻れば或いは」
今はその可能性だけでいい。
会いたい。
もう一度、彼女に会いたい。
「サンキュ」
心の澱みもすべて振り切ったような清しい笑顔で、彼は背を向けた。
「……毒気抜かれやがって」
その背中に、『影』が呟いた。
「極上だったのにな、オマエの『負』の気。またいつでも呼びな、歓迎するぜ」
彼の姿を写し取っていた上半身も、ゆらゆらと揺れ始めた。
「ああ、忘れ物よ。大事なものでしょ? サイズはピッタリだから」
扉のノブに手をかけた彼を止めて、彼女が小さく輝くそれを手渡した。
キラリと光る、シルバーのシンプルなリング。
いつかプラチナのそれを渡すまでの、仮の約束として。
指輪を受け取って彼はそっと握りしめた。
あのとき彼女を手にかけていたとき、これがポケットから転がり落ちていなければ、きっとあのまま心を完全に影に食われてしまっただろう。
彼女への想いがたくさんつまった、約束の指輪。
「ああ……とても大切な」
「うまくいくかな」
「無理ムリ、死にたいって思ってた人間がそう簡単に『生きたい』なんて思わないわよ」
彼のいなくなった屋上で、『影』と彼女が無責任にあのふたりの行く末を想像している。影を断ち切った彼の姿を写し取ることはできないのか、『影』の姿がどんどんと薄れて人形を崩していく。だが姿が消えたとしてもそれは消滅ではない。人の心に影がある限り、彼らが消え去ることはない。
「そうかあ? オレはなんとかなると思うぜ?」
「絶対ムリ」
キッパリと言い切る彼女に、にやりと笑って吹っかけた。
「ヘェ? じゃあ賭けるか」
よほど自信があるのか、彼女もまたにやりと笑い返した。
「いいわよ、何を?」
「……オレが勝ったらヨリ戻そうぜ」
初めて見るその真剣な眼差しに、心臓が跳ね上がった。
「オレまだあきらめてねーからな」
「……そうね、なら私が勝ったら、もう浮気しないって誓ってくれる?」
駆け出した彼の足音はもう聞こえない。
彼は無事に彼女にたどり着けるのだろうか。
彼女の『身体』とは異なる形の『器』に収まった彼女の魂のありかに。
どこに、どんな姿でいるのか確認もせずに走り出してしまった彼。
だが最後に見たあの顔には一分の迷いもなかった。
……きっと、たどり着けるのだろう。そんな予感がする。
孤独の心に忍び込んだ影さえも振り切らせた彼女への想いが、届かないはずがない。
銀色に輝く指輪がきっと彼の心の道標となることだろう。
駆け出した彼の足音は、もう聞こえない。
屋上には、ただ青い空と灼熱の太陽と、時折吹く涼しい風があるだけだった。
「……もう一度、君に逢いたかったんだ……」
終