Pink
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3.
爽やかな風に抱かれながら、鈴蘭は空を漂った。
愛しい人に逢えたのに、胸を吹きぬける冷たい風は、昏いものは何だろう。
気分が晴れない。
理由がわかっているから、尚更に苦しい。
愛しい人 美しき魔王の言葉が何度も繰り返される。
『天界・魔界にある限り、封印は解けぬ』と。
つまり魔界から、そして天界から手の届かぬところへ行けということ。
この世界からの追放にも等しい宣告だった。
生まれ育った世界から、遠く離れ、もう戻ることも許されぬ。
そして、愛しい魔王に逢うことも、永遠に叶わぬということ。
けれど、断ることなど、できなかった。
魔王の命令だから?
愛しい人の、願いだから?
……もう、どちらでもよかった。
近づくことさえ、もう叶わないのだから。
『聖者の魂』は彼女の体内に封印してある。後は、このまま遥か彼方の世界へと消えてしまえばすむこと。
ただ、それだけのことなのだ。
酷い方……。
流れ落ちそうになった涙をぬぐった、その瞬間。
不穏な気配を背後に感じた。
パチッ…
咄嗟に身を翻した。
ボウッ!!
それまで鈴蘭がいた場所が、燃えた。空気、そのものが激しく焔をあげている。
「何のごあいさつなの、芥子」
怒りに満ちた声で、呟く。
「へえ? 俺の気配を覚えててくれたのかい、『死神』さんよ。だが相変わらずムカつく眼だ……!」
何もないはずのそこから、不意に青年が姿を現した。別の空間から炎だけ飛ばしていたらしい。
「だからっ、いい加減逆恨みで攻撃しかけてくるの、やめてくれない!?」
芥子、という青年。やや長めの黒髪に、鈴蘭と同じ黒き翼。だがその眼に宿すのは強い憎しみ。誰かを傷つけずにはいられない、そんな苛立ちの眼差しだった。
『死神』というのは、魔界においてエリートクラスだ。誰でもなりたがるもので、芥子も例外ではなかったのだが、鈴蘭にそれを奪われたのだ。彼女より優れた実力を持つと自負している芥子としては、当然面白くない。だからそれ以来、ことあるごとにふたりは衝突しているのだ。
「気に入らねぇ……大した実力もないくせに俺から『死神』の地位を横取りしたうえに、ルシファー様に取り入るとはなァ!!」
「な……!?」
鈴蘭が凍りつく。
魔王自ら誰にも知られぬように注意を払ったというのに、それを知って……!?
「その生意気な顔も眼も黒焦げになっちまえ!!」
驚きに、一瞬動きが遅れた。
そこへ芥子の容赦無い朱の炎が襲いかかる。
『死神』になれると自負するだけの芥子の炎は、岩さえも蒸発させることができる。
間に合わない !!
時間さえ飲み込む 悠久なる時の流れよ……
「!?」
「この声は……」
鈴蘭はその声に聞き覚えがあった。
来れ
ざぁっと、やはり大気から突然大量の水が現れた。澄んだその水はうねりながら、朱の炎ごと、たちまち芥子を球形の結界に閉じ込めてしまった。
「な!? この水……!!」
火は水に弱い。だがこれくらいの量の水なら、蒸発させる自信があった。
それが一瞬にして炎が飲まれ、あまつさえ自分まで結界に捕らわれるとは。
「そこでしばらく頭を冷やしていて下さい」
涼やかな声に水の結界は球形を保ったままで、ちょうど眼下にあった湖に落ちた。
ボッチャーン……。
それでも結界は解けていないのか、芥子が浮かび上がってくる様子はない。一応の危機が去り、鈴蘭は大きく息を吐いた。
それでも、胸が騒ぐ。
何故、魔王ルシファーに謁見していたことを知っていたのだろうか……?
鈴蘭の思案を止めたのは、涼やかな彼の声。
「お怪我はありませんか」
優しい笑顔。前に鈴蘭に告白してきた、銀色の天使その人だった。
尽きることのないであろう優しさがあふれる笑顔に、一瞬呆けてしまった鈴蘭は、自分を恥じたのか天使に八つ当たるように怒鳴りつけた。
「よ、余計なお世話よ! これで恩に着せたつもり!?」
「いえ、そんなつもりでは……不愉快にさせてしまったのなら謝ります。すみません……」
うつむきながらしおらしく謝る姿を見ていると、仇敵とかいうことを忘れていたたまれなくなる。きっと心からそう思っているのだろう。
黙って放っておけば泣き出しそうな天使を見て、鈴蘭はため息をつきながら、
「で? 私にまだ何か用なの?」
交際はできない。そうつっぱねたはずだ。
「あ……はい、これを渡そうと思って」
ぱっと顔をあげた天使から手渡されたものは、鈴状の白く小さい花がたくさんついた植物で、それをコサージュにしたものだ。
小さくて、白く穢れなき花。
「……好きな人がいるって言ったでしょう!?」
つい、声を荒げてしまった。イライラするのだ、この天使を見ていると。
「あなたが誰を好きでも、僕はあきらめませんから」
何故そう言えるのか。清らかな顔をして、心まで澄んでいるとでも?
あきらめない、そんなの自分だって……自分だって !
「私の好きな人は魔界の王ルシファー様なのよ! それでもあきらめないっていうの!!」
天使相手に何を口走ったのか。思わずにはいられなかったが、叫ばずにはいられなかった。相手を思う気持ちが、この天使より小さいと思われたようで、どうしても耐えられなかったのだ。
「あきらめない、絶対に!」
天使の面差しからは想像もできないような叫び声で、彼は告げた。
「あなたが好きだから」
鈴蘭は。
「……勝手にすれば」
怒るように呟くと、くるりと背を向けた。
「あ、あの」
どこかへ飛んで行こうとする彼女を呼びとめようとして、名前も知らないことに今更気づく。
「『鈴蘭』!!」
振り向いて怒鳴りつけた彼女に、彼は笑顔で会釈した。
「『桜』です。ごきげんよう、鈴蘭さん」
無言で飛び立つ彼女の背を見つめながら、桜は何度も愛しい彼女の名を胸の内で反芻する。
ほえー……とささやかな幸せにひたっていた桜だったが、ふとすぐ近く・・・鈴蘭がさっきまでいた場所に、小さな光の球が漂っていることに気がついた。
近づいて、その気配に触れたとき。
「これ……っ、まさか !!!」
その声を、遥か下方の湖からようやく顔を出した芥子は、聞き逃さなかった。
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