Pink
2.
『リリス』。
親友カラーの上司にあたる大悪魔だ。人間界でも割と有名な女悪魔ではなかろうか。
実は、鈴蘭はそのリリスが大の苦手だった。何がどうという訳ではないのだが、リリスの纏う空気そのものが苦手で、できれば近寄りたくない存在である。
夢魔という、夢で人間を堕落させる仕事をしているカラーに対し、鈴蘭は命を奪う死神を勤めている。本来なら全く関わりのない大悪魔が、何故自分を呼んだのか。
それも、大深淵の『閉ざされの間』に。
不安と疑問をを抱えながらも、鈴蘭はその扉を開けた。
「鈴蘭、入ります」
……応えは、ない。
「リリス様?」
呼びつけておいて、いないはずはないのだが 周りを見まわしても、あるのは闇だけ。
「戻りますよ……?」
そこは魔界においてさえ封じられた闇の棺。凝縮された闇がまとわりついてくる、魔界の奥深き空間。同じ闇に属する者でさえ胸をかきむしりたくなるような、そんな場所。
(闇が濃すぎて気持ち悪い……)
吐き気がする。こんな魔界の奥深い闇でまともでいられるのは、大悪魔だけだ。鈴蘭のような一介の魔族では、闇に呑まれてしまいかねない。
「鈴蘭、戻ります……」
闇の重圧に耐え兼ねて引き返そうとした、瞬間。
「リリスはおらぬ……」
びくり、足を止めた。凍りついた。
さらに深い闇より響く、その声が。
彼女の鼓動をはねあげた。
聞こえるはずがない、その声。
どんなに願っても聞くこと叶わぬはずの、声。
封じられた闇の棺。
棺に、眠る者の名は。
「どうし……て……」
焦がれ続けた、その人。
長い黒髪。彫りの深い顔には表情は無く。
瞳は、閉ざされたまま。
それでも美しい、その絶対の存在。
「ルシファー様……!!!」
堕天使にして、魔界の王。
それが、闇の中に浮かび上がる。
「リリスの名で私が呼んだのだ……誰に知られてもならぬゆえ」
低く、静かな声が穏やかに胸に響く。この闇の呪縛から解き放つ呪文のように。
そこに焦がれ続けた、魔王がいる。
けれど、幻。
遥かな昔、天使との戦争で破れた魔王の身体は、魔界の奥底に封じられている。
これは触れること叶わぬ幻でしか、ない。
愛しい人は、あまりにも遠すぎて……。
「鈴蘭」
「はいっ」
現実に意識を引き戻された鈴蘭が見たものは、幻の魔王の右眼から流れる、一筋の涙。
水晶のように透き通ったそれに、一瞬呆けてしまった。
「ルシ……っ」
それが、鈴蘭の目の前でたゆたった。透明な、光のかたまりのような……それ。
「 ! これ まさか……」
「そう、『聖者の魂』……。太古の昔より私を呪縛し続けるもの」
鈴蘭の疑問を、あっさりと肯定した。
だが、何故それを渡されるのか。これがなければ呪縛から解かれるというのなら、もっと早くにそうすればよかっただろう。何故今なのか。そして、何故自分に渡されるのか。
見上げる鈴蘭に、魔王が続けた。
「それと性質の合わぬ者は触れることさえできぬ。私でさえ光と引き換えに眼球に封じるのがやっとだった。鈴蘭よ……それを天使どもの手の届かぬ所に隠し、奪われぬよう守って欲しいのだ。それが天界・魔界にある限り、私の封印は永遠に解けぬ」
天界に奪われればまた再び封じられ、魔界にある限りこの闇に縛り付ける。
存在してはならぬもの。だが、消すこともできない。
だから、どこかへ……。
「頼まれてくれぬか?」
左の眼で静かに見つめられて、
「かしこまりました、ルシファー様」
静かに、そう答えた。
back menu next home