緑影騎士外伝「黒髪の騎士」
4.
泣きはらしたベルティーナの閉じられた瞳にそっとくちづけて、ウュリアは静かに身体を起こした。月明かりに照らされて淡い銀色に輝くその金髪をなでてウュリアは小さくため息をついたのだった。
失敗したなあ……。
……こんなつもりではなかったのに。どうしても止められなかったのだ、彼女への想いを。2年間も募らせた想いを抑えることは、もはやできなかった。
ようやく落ち着いて眠りに落ちたベルティーナをしばらく見つめていたが、不意にベッドを下りて身支度を整えると、彼女の細い肩に毛布をかけなおした。すぐ横に立てかけてあった剣を佩き、その体躯におよそ似つかわしくない静けさでその部屋を後にした。
地下の大浴場に向かって歩きながら、ウュリアは長すぎた今日という日を振り返った。
兵士たちに本日出撃を伝えてから慌しく準備をして、リーヴに守護の魔法を受けているときに彼女はベランダから顔を出してくれた。必ず無事で戻れと、そう誓いを立てさせて。朝陽よりも眩しい彼女の元に必ず帰ろうと決意して、馬を走らせた。
先鋒を受け持ったシルヴィア隊は王宮を守るモルタヴィアの精鋭たちと剣を交えねばならず、それは激戦を極めた。最上階に臣下にかくまわれる形でいたファリウス王、それにモルタヴィア王族を捕らえることは容易かった。そうして合図を送りルークをその場所へと導いた。
(俺は正しかったんだろうか)
黒髪の騎士ウュリア・シルヴィアは自問する。ファリウス王は最期に王族の命乞いをした。自分の命などくれてやる、だから娘だけはと。娘をジルベールの妃として預ける代わりに、親類を殺さないでくれと。
それはジルベールとモルタヴィアを統合するのに最も手っ取り早い手段だったのだ。それは間違いではない。だが、ルークが……ジルベール国王が実はモルタヴィアの貴族の娘に恋をしていると知った上で、ひとりの男であるよりも国王たれと強制した。臣下として間違ったことは言っていない、それは信じている。だが友としては?親友であり幼馴染でもあるルークの心を踏みにじってしまったのではないか。
結果としてはファリウスの愛娘はルークが恋した少女であり、棚ボタで恋焦がれる少女ロゼーヌを妃として迎えることにはなったのだが。
ロゼーヌ・モルタヴィアは実父が殺されるさまを目の当たりにしてしまった。しかも、切り落とされた父の首を間近く見てしまっている。彼女にとってルークとウュリアは父の仇であり、そんな敵国の王に政略結婚させられるなんてとさぞやジルベールを憎んでいることだろう。モルタヴィアからジルベールまで、要人たちを荷馬車で連行してきたが、他の王族たちが口々に文句を言っているにも関わらず、ロゼーヌだけがついに一言も発しなかった。
その胸中は誰にも察することなどできはしない。
(本当に、よかったんだろうか)
今夜、ウュリアは2年間募らせ続けた想いを遂げた。けれどルークは……。
ルークは焦がれた少女に、生涯憎まれ続けるのかもしれない。
(ルーク……お前は俺を恨むのか?)
その答えは、誰にも解らない。
大浴場の奥には水場がある。一応ちゃんと別ルートがあるのだが、浴場を突っ切った方が早いので人の少ない時間はこちらを通ることが多い。まして宴の夜なのだ、こんな時間に人はいまい。通るついでに軽く身体を流すか、とも思っていたのだが。
「……?」
確か帰還した兵士たちが使ったためかなり汚れたはずの浴場だったのだが、誰が清掃したのかいつも通りにきちんと整えられていた。
誰か、いる?
今ちょうど掃除が終わったところなのだろうか。……だが国民の誰もが浮かれているこの夜にわざわざ広い大浴場を片付ける者など……。
(この声?)
湯煙で見えないが、その向こうからかすかに声が聞こえてきた。息を止めて耳を澄ます。
……ああ、そんなこともあるのか。
ウュリアは音も立てずにその場を立ち去り、正規の道で水場に向かうことにした。
明日はいつも自分を叱りつけてくる年長の幼馴染をからかってやろうと思いながら。
「……ウュリア……?」
伸ばした手が求めるぬくもりを見つけられず、ベルティーナは目を醒ました。夢でも見ていたのだろうかとしばらくぼんやりしていたが、身体中の軋むような痛みに顔をしかめて、夢ではなかったのだと改めて自覚した。
(そうだ、ウュリア……ウュリアは何処……?)
「ウュリア?」
そのぬくもりが、何処にもない。どうして? やはり夢だったのだろうか? 否、そんなはずはない!
「ウュリア!」
飛び起きて部屋の中を見渡した。だが広いその部屋には他に誰もいない。何度見回しても、誰もいない。何処にいるの? ウュリア、ウュリア!
毛布を身体に巻きつけると、ベッドから下り……ようとして、慌てたあまりに体勢を崩して転げ落ちた。ただでさえ痛む身体にトドメを刺すようなその衝撃に、耐え兼ねてベルティーナは激しく咳込んだ。肩から毛布が滑り落ちて露になった彼女の細く白い腕に、いくつものアザがあった。月明かりに照らされたそのアザが、ひどく痛々しい。
夢なんかじゃない。彼が強く掴んだその痕がまだ、彼女の身体に刻まれているではないか。まだそのぬくもりが残っているというのに……!
(行かないで、何処にも……!)
毛布を自分に巻き直して、ベルティーナはよろけながら立ち上がった。広い部屋の中を隅から隅まで見て回って、ようやくこの部屋にはいないのだと思い知ると、もしやと思い勢いよく扉を開けた。その廊下の先に、彼がいるかもしれない!
「うわ!?」
「きゃあっ!?」
扉を開けてすぐ目の前にある障害物にぶつかって、ベルティーナは部屋の中に押し戻される形で転倒した。思い切り飛び出そうとしていたので容赦なく顔から突っ込んでしまい、目の前で火花が華やかに散っている。
「ベルティーナ?」
声の主でありまたベルティーナが思い切り顔面から突っ込んだ障害物でもあるウュリア・シルヴィアは、部屋に入って扉を閉めるとかがみこんで彼女の様子を窺った。
「い、今まで何処に……」
「……もしかしてその格好で俺を探しに?」
言われて、ベルティーナは改めて自分の姿を見た。転倒し床にへたり込んだ彼女を包む毛布は乱れ、隠し切れなかった白く細い脚が露になっている。
……こんなみっともない格好で部屋の外に飛び出そうとしたのか。
そう思ったら顔から火が出るほど恥ずかしくなり、ベルティーナはしっかりと毛布をつかんでベッドに飛び込んだ。毛布はしっかりと手放すつもりはないらしく、その中で小さく丸くなっている。
最初は呆れていたのか驚いていたのか何と言っていいのか解らなかったウュリアだが、そんな彼女の様子を見てそれはそれは愉快そうに笑い転げた。その笑い声がベルティーナのカンに触った。
「な、何がおかしいのよ! びっくりしたんだから、目が覚めたらウュリアはいないし……!」
「水を汲んできたんだ。身体を拭こうかと思って」
毛布の中からちらりと見てみると、確かにウュリアは大きい瓶を抱えていた。ベルティーナには空でも持ち上げられないその瓶を、実に軽々と持ち上げると、まずグラスに水を注いで彼女に手渡す。笑われてムッとしていたこともあったのだが、それ以上にやはり喉が渇いていたので、やや渋々とではあったが手を伸ばしてそれを受け取ると、もそもそと毛布から顔を出して冷たい水を喉の奥へと流し込んだ。
「俺がいなくてそんなに寂しかった?」
洗面器に水を注ぎながらウュリアが笑いながら問うた。そういえば明け方も乱れたままの姿で出陣前の自分のところに駆けつけてくれたな、とウュリアは思った。身なりに手をかけるよりもまず先に、自分を捜し求めてくれた彼女の想いが嬉しくてたまらない。
「だって……」
そんなウュリアに水を差すように、どこか言いよどみながらベルティーナはそれでも不満を口にした。
「……他の女の人のところに行っちゃったんじゃないかと思って……」
……。
…………。
………………。
「……………………は?」
水を満たした瓶を思わず落っことしそうになって、ウュリアは慌てて持ち直した。きちんと瓶を置いてから、問い詰めようとベッドに腰を下ろす。
「……どこをどう解釈すればそうなるんだ……」
「私知ってるもの。ウュリアがときどき夜中に王宮を抜け出してたこと」
ギックーん。
「ななな何言って……」
「どこに行ってるんだろうと思って後をつけて……途中でリーヴ兄さまに見つかっちゃったけど、そのときに教えてもらったもの、ウュリアが何処に行ってるのか」
リーヴ、殺ス……!
とウュリアが思ったかどうかは定かではないが、とにかく音を立てて血の気が引いていくのが解った。英雄色を好むとは言うけれど、心底惚れぬいた相手を前にしてそう開き直れるほど、ウュリアは図太くないのだ。
「け、けど今は行ってないし!」
「それは戦のほうが大変だったし……、それに私なんかじゃ……」
何か言いた気だったが、もごもごしたままベルティーナはまた毛布にもぐりこんでしまった。子供のようにすねた彼女もまた愛しかったのだが、今は何よりも誤解を解く方が先決だ。ちゃんと聞いてくれと毛布を引き剥がしてベルティーナをまっすぐに見つめた。
「俺はこの2年、他の女のところになんか行ってない! 確かに前はそんなこともあったけど、今はベルティーナ以外の女なんかいらない、お前じゃなきゃ意味がない!!」
英雄と謳われた黒髪の騎士が、必死になって年端も行かぬ少女に訴えていた。信じてくれと、闇よりも深い黒い瞳が叫んでいる。
間近く熱い吐息で訴えられて、ベルティーナは顔をしかめた。
「……痛い」
「えっ?」
「腕……痛い」
「あ……そ、その」
思わず掴んでいた彼女の腕を慌てて放し、ウュリアはまたやってしまったと自己嫌悪する。どうしてこうも加減が効かないのだろう。つい、我を忘れてしまうのだ。彼女の前ではずっと『騎士』であることを貫いてきたから、ただのひとりの男になったとき、自制がきかなくなってしまうのだ。
「……見て、ここアザになってるのよ。腕だけじゃない、脚も……あなたが乱暴なことするから、こんなにも」
月の光の中でいつもより白く見える彼女の四肢に、いくつものアザがあった。まざまざとみせつけられて、ウュリアはいよいよいてもたってもいられない。
「……すまない」
「本当に私のこと、愛してるの?」
「愛してる……」
「本当に?」
「太陽神と地母神に誓って」
「……だったら」
ベルティーナの細く頼りない腕がウュリアを抱きしめた。
「今度はちゃんと、優しくして?」
返事の代わりに、口づけた。
かすれるほどにささやかに、けれど彼女は確かに彼の耳元で囁いた。
「私だって……ずっと愛してたのよ」
宴の夜が明けて、翌朝。謁見の間において朝議が行われていた。ゆうべはとにかく勝利の喜びを分かち合う宴だったので、兵士たちへの報酬をどうするかは決められていなかったのだ。玉座に掛けるジルベール国王ルーク、そのすぐ傍らには金色の魔道士リーヴ・アープが控えている。彼は今回の戦は主に後方支援に回っていたため、報酬を受け取ることは辞退したのだ。謁見の間には兵士たちが整列しており、黒髪の騎士ウュリア・シルヴィアは兵士たちの列の一番上座にいた。
ベルティーナは兄王よりも少し下がったところに掛けて、兵士たちの中にあってひときわ雄雄しき英雄シルヴィアをまぶしそうに見つめていた。
「ウュリア・シルヴィア!」
国王に名を呼ばれたウュリアが一歩前に出て跪く。
「宿敵モルタヴィア王ファリウスの首、よくぞ獲った。王宮内に入り激戦を強いられたであろうに、よく兵らを指揮してその隊に死者も出さなかったその手腕、見事である。褒美に望むものを何なりと申してみよ」
この戦で最大の功績をあげた英雄のみに許された破格の報酬だった。国王が与えられる範囲、永い戦のあととあってそれほど財政が潤っているわけでもないが、それでも相当の財産を手に入れられるであろう。英雄が何を所望するのだろうかと兵士たちも期待をしながら耳を澄ましていたが、かの英雄は静かに首を横に振っただけだった。
「……私は褒美が欲しくて敵王の首を陛下に捧げた訳ではありません。民の平和と、穏やかの日々のためにこそ心を砕いて下されば、それこそが私の望み」
ウュリアはそれほど財産には執着していない。ルークはそれを知っていたからそれほどは望まないであろうとは思っていたのだが、さすがにいらないと言われては後が困る。ウュリアがそう言って褒美を受け取らなかったら、以下の兵士たちもそれに倣わなくてはならない。
「し、しかし……」
言いよどんだ国王と、困ったようにため息をついたリーヴを見て、ウュリアが小さくニヤリと笑ったことなどふたりには解ろうはずもない。
「では、どうしてもと言うのであれば」
立ち上がり、静まり返った謁見の間に響く朗々とした声で、ウュリア・シルヴィアは言ったのだった。
「ベルティーナさまを、私の妻に」
誰もが言葉を失った。
「……な、に……」
国王が低く呻いた。……いつか言われるだろうとは思っていた。けれどまさか、こんな公衆の面前で言いやがるだなんて、誰が思うだろうか。妹がこの非常識な黒髪の騎士を想っていたのは知っていたけれど、この黒髪の騎士が妹を悪しからず想っていたのも知っているけれど、いくらなんでもそんな性急な。
ていうか「お義兄さん、妹さんを僕に下さい!」と手ェついて言わせてやろうというこの野望はいったいどうすれば!!!<えっ
妹の気持ちを踏みにじるような真似はしたくない。けれどこの悪友の思惑通りにコトを運ばせるのだけは、何としてでも阻止したい。ふたつの思いが複雑に絡まりあって、国王は言葉を失ったまま背中に滝のような汗を流した。……何だかイヤというほど国王の気持ちが解ったリーヴだったが、この状況ではなんともできずにただ「陛下」と小さく呼びかけただけだった。
「……し、しかしベルティーナが何と言うか……」
無駄に永い沈黙が国王の狼狽ぶりを物語っていたのだが、それはその場にいた全員が同じだったので全く気にならなかった。
ベルティーナがウュリアを想っているのは知っている。だがこんな公衆の面前で、それも朝議の場で求婚されて受けるとは思えない。少し考えさせてくれとこの場をしのいで、後日改めて返事(多分OKなのだろう)をすることになるであろうと、誰もが予測した。
そして、当のベルティーナは。
最初、ウュリアが何を言ったのか解らなかった。何度もその言葉を反芻して、それがようやく随分と長い間夢に見てきた言葉だと気づく。
本当に、長い、長い夢の。
兄王が振り向いて彼女の意思を訊ねる前に、駆け出していた。
「ウュリア…………っ!!」
夢中で彼の胸の中に飛び込んでいた。
な、何だって!!
謁見の間に、無言の叫びがこだました。
「ベルティーナ、本当に?」
飛び込んできた彼女を抱きしめて、そっと耳元で囁いた。
「どれだけ待ってたと思ってるの……!」
泣きそうになりながら応えたベルティーナを離すと、黒髪の騎士ウュリア・シルヴィアはうやうやしく国王に跪いて、
「……ありがたく頂戴いたします、陛下」
しゃあしゃあと申し上げた。
「……なッ ちょ 待てウュ…… シルヴィア!!」
魂が抜けたように呆然としていた国王が、我に返って立ち上がって抗議するよりも早く、ウュリアはベルティーナを抱きあげて国王に背を向けて駆け出した。
「おめでとうございます!!」
「隊長、やりましたね!」
「ベルティーナさまもおしあわせに」
兵士たちがふたりのために道を開けながら口々に祝いの言葉を投げかけてくる。
みなの喝采を浴びながら、謁見の間を飛び出したふたりの背中をただ見送りながら、国王陛下は茫然自失とされてしまった。その様子をただ静かに見守っていたリーヴ・アープが真顔で呟いたのだった。
「……騎士と王妹が朝議の最中に抜け出すとは、前代未聞ですな」
……そうして黒髪の騎士はまたひとつ英雄譚を作り上げたのである。