緑影騎士外伝「金色の魔道士」
1.
束ねていた長い金髪をほどき、窓辺に立ちそよ風を受けて髪をそっと泳がせるその姿は、まるで美の女神が降り立ったかのようだった。その神経質そうな表情を除けば、肌は色白だし造形も整っているし、多少華奢ではあるが非の打ち所のない美男子だ。
後姿は女性のそれであるのに、れっきとした男性である彼の名は、リーヴ・アープこの地方では数少ない魔法使いのひとりだった。現在は幼馴染でもある国王ルーク・ジルベールの片腕として王宮に勤めている。つい先ほどまであてがわれている執務室で魔道書を読んでいたのだが、目が疲れてきたこともあって窓を開けて休憩しているのである。
窓の外から見える空は、もう日がずいぶんと傾いて西の空が赤く染まりつつあった。このところは敵国モルタヴィアとの小競り合いもなく、平穏な日々が続いている。朱色に染まる大地を見て胸を締め付けられることもないこんな平和な日々が、いつまでも続けばいいと思っているのだが、それを誰かに気づかれることはない。その、あまりに神経質そうな表情ゆえに。
コンコンッ。
小さくドアがノックされた。だがリーヴは黙ってドアを見つめるばかりだ。
コンコンコン。
やはり返事をしないで黙っている。
すると、やがてそっとノブが回されて、おそるおそるといったように扉が静かに開かれた。この部屋の主人の不在を確認するかのように。
「……おいで。仕事中じゃないから」
落ち着いた静かな声に、扉の向こうからひょこりと顔だけ覗かせて、
「……意地悪。いるなら返事をしてくれればいいのに」
拗ねたように抗議したのは、ひとりの少女だった。美しい金髪に青い瞳、纏うドレスは青をメインに白のレースが施された上等なものだ。
「言わせてもらうがね、お姫様がひとりでうろうろとするのはどうかと思うよ。もし私がベルを人質にしてルークを脅迫したりしたらどうするんだ」
「リーヴ兄さまはそんなことしないもの」
扉を閉めて小走りに駆け寄ってくると、少女ベルティーナ・ジルベールはリーヴに抱きついた。彼女は現ジルベール国王ルークの実の妹であり、またルークとふたりきりの王族であった。だが年の離れた妹をあまりかまってやれなかったルークの代わりに、彼の幼馴染(違う、悪友の間違いだ!/ルーク陛下談)のリーヴや黒髪の騎士ウュリア・シルヴィアが面倒を見ていたので、彼女にとっては兄同然の存在だった。
「それで? どうしたんだい今日は? 私に甘えに来るくらいだから、何かあったんだろう?」
抱きついて離れないベルティーナの頭を撫でながら、リーヴが優しく問うた。
「……あのね、ウュリア兄さまがひどいのよ。私がちょっとドレスの裾を踏んで転びそうになったのに、助けてもくれないで笑い飛ばすのよ! あんまりだと思わない?」
薄紅の頬をぷーっとふくらませて、それさえも愛らしい彼女がぷんぷんと怒りをぶちまける。その姿は一国の姫君というよりは年相応の少女のそれで、リーヴはいつもそれを温かく見守っている。
それにしても、と思うのだ。
ベルティーナは今でこそ愛らしい少女であるが、将来はこの国の誰にも引けを取らない美姫に成長するであろう。性根は真っ直ぐで優しいし、誰からも愛されている。事実ひとたび戦乱が始まれば、彼女は傷ついた兵士たちの治療にあたり、兵士やその話を聞いた民からもとてもよく慕われている。
そんな彼女が言ったのはいつだろう。
私、ウュリア兄さまが好きなの……。
この国唯一の黒髪であるウュリア・シルヴィアは、剣豪で同時に魔法をも操る。その強さ、貫禄、どれをとっても違うことなき英雄であろう。あろう……が。
リーヴと国王ルーク、それにウュリアは同い年の幼馴染だ。子供の頃からお互いのことは知り尽くしている。もちろん、ウュリアがどんな悪ガキだったかなんてうんざりするほど知っている。町の子供たちもやるようなことなのであろうが、イタズラなんて日常茶飯事で、しかもたいていそれにルークを巻き込んだ。先代、先々代の名を汚すようなマネはやめろと何度注意したかなんて、リーヴは覚えていない。
……何だってベルの想い人がウュリアなんだ。
リーヴにしてみれば、かわいい妹が好きになったのが昔からよく知っている悪い評判ばかり立つ男だったようなもので、まったく本当に何か間違っていると思わずにはいられないのだ。
ウュリアには恋人がいない。それは『特定の女性』を作らないというだけであって、『一晩限りの女性』ならばこれまでだっていたのだ。リーヴとしてはベルティーナが傷つくのではないかと気が気ではない。
「でね、ウュリア兄さまったら……」
なのに、どうしてこんなにも彼女はしあわせそうにウュリアのことを語るんだろう。リーヴには解らない、人の心の不思議なんて。
ただ、ベルティーナには幸せになって欲しいと心から思うのだった。
「ふざけるな!」
国王ルークが部屋に入るなり、いきなり親友であり幼馴染であり、忠臣でもあるはずの黒髪の騎士ウュリアを殴り飛ばした。めったにない国王の荒れ様に、その部屋にいた誰も彼を止めることはできなかった。唯一リーヴだけがうわべだけは落ち着き払った言葉で国王を制したのだった。
「……陛下、お静かに。ベルティーナさまを刺激しかねません」
まだ続けてウュリアに殴りかかりそうなルークだったが、リーヴの言葉に掴んだ胸倉をそのままにしばらく睨みつけていたが、なんとか自分を制しきったらしくウュリアを突き放した。
「……ベルティーナは……」
「外傷はかすり傷程度です。どこか打ち所が悪かったとも判断がつきかねますが、おそらくは精神的なもので意識を失っておられるのでしょう。しばらく安静にしていれば意識を取り戻すかと思われますが……」
ベルティーナの枕もとで様子を見ていた医者がルークに告げた。処置の施しようはなく、彼女が自力で意識を取り戻すのを信じて待つしかないと。それを聞いたルークは心配そうに妹を見つめ、ウュリアはうつむいて拳を握り締めた。
私も馬に乗ってみたいの。
ベルティーナがそうウュリアにせがんだという。ウュリアにとっても大切な主君であり妹でもある彼女を自ら危険な目に遭わせようとするはずはないのだが、どうしても断りきれなかったのだという。だがベルティーナを乗せた途端に馬が暴れ出し、必死の思いで助け出したのだと。
もし彼女の身に何かあったらと、今一番辛い思いをしているのはウュリアだろう。あのとき自分が止めていたらと自分を責め続けているはずだ。ルークはきっとウュリアを責めるよりも妹の身が心配でならないはずだ。
「……ならばここに人がどれだけいても、彼女の力にはなれないということですな」
事務的に問うたリーヴに、医者が小さく頷いた。
「ウュリア」
呼ばれ、黒髪の騎士がおそるおそる顔をあげる。
「お前が責任を持ってベルティーナさまを看病しろ。何かあったら、すぐに連絡を。……もし万一のことがあったら、わかっているのだろうな」
「ああ……」
精悍な彼からは考えられないようなか細い返事だった。だが、リーヴは容赦なくベルティーナの眠る部屋に彼だけを置き去りにした。
「大丈夫だろうか……」
「……信じるしかないだろう、いくら私たちが心配しても、どうにもならないのだから」
不安で不安でたまらないというルークに、リーヴはごく事務的に応えた。心配なのも不安なのも同じなのだ、どんな励ましの言葉も見つかるはずがなかった。
「お前には他にやらなければならないことがあるだろう。後のことはウュリアに任せろ。……私たちはベルが一刻でも早く目を覚ますように祈ろう……」
それは、他の者には解らない程の、彼なりの精一杯の優しい声だった。
「……そうだな……」
ルークは小さく頷いた。
それから2日後、ベルティーナは目を覚ました。ようやく安堵して眠れると思ったリーヴの部屋の扉を叩いたのは、紛れもなく青の姫君ベルティーナその人だった。
「……ベル? 起き上がったりして大丈夫なのか!? いや、それ以前にこんな時間に……」
「ごめんなさいリーヴ兄さま、でもお願い助けて……」
やつれたままで、今にも泣き出しそうなベルティーナを部屋に招き入れると、ベッドに腰掛けさせた。ベッドの他には本が山積になっているだけの殺風景なリーヴの私室に、ベルティーナの存在はあまりにも不釣合いだった。
「いったいどうしたんだ、こんな時間に? まだしばらくは安静にしているようにと医者にも言われただろう」
「私……私、どうでもいいのかな……もう、どうしたらいいか……」
「落ち着きなさい。最初から順番に話してごらん」
そっと彼女を抱きしめて、何度も優しく背中をさすってやりながら、リーヴはベルティーナが落ち着くのを待った。どれだけそうしていたのだろう、意を決したようにベルティーナが小さな声で呟き始めた。
「…れたの」
「え?」
「だから、その……ヴィアに……たの」
「……ウュリアに? 何って……」
「だ、だから……あの……」
耳まで真っ赤になったベルティーナを見て、なんとなく言いたいことが解ってきた。
「……それで? ウュリアに唇を奪われた姫君は、不埒な臣下をどうしたいんだ?」
「……っ!!」
顔をあげてムキになってみても、穏やかなリーヴの優しい微笑には適わない。ベルティーナはまたうつむいて、ぽそぽそと呟いた。
「……ずっとね、夢だったの。シルヴィアが優しくしてくれたらなって……私のこと、妹とか主君とかじゃなくて、ちゃんとしたひとりの女性だって認めてもらえたらなって……好きになってもらえたらなあって……いつも思ってた……。だから、目が覚めたときにシルヴィアがいてくれて嬉しかったの……怖かったけど、思い切ってちゃんと伝えようと思ったの……なのに……なのに」
その時を思い出して不安になったのか、ベルティーナがしがみついてきた。
「シルヴィアは何も言ってくれなくって……なのに、あんなことをして、だから、もしかしたら私なんて妹とも主君とも思ってもらえてなくて、本当はどうでもいい存在でしかないのかなって……おもちゃ程度にしか思われてないのかなって……そう考えたら……私、もうどうしたらいいか解らなくて……」
くちづけを受けたこと自体は嬉しくても、自分のように真剣に想っているのではないのではないかと、そう思ってまだ少女の域を出ない姫君は不安に押しつぶされそうになったのだ。
「ベル……」
リーヴは女嫌いだった。正確には、女性が苦手だった。幼い頃から実母先代のアープから厳しい修行を強いられたせいで、女性をどういたわればいいのか解らなかったし、同時に美少年でもあった彼はよく女性につきまとわれたりして、不信感を募らせてしまった。そんなこんなで現在は神経質そうな表情で女性を無言のうちに拒絶し、用事がなければ侍女にさえ自分から話し掛けることはない。その唯一の例外が、今その腕に抱きしめているベルティーナだった。
リーヴはこれまでに誰かを愛したことはない。ルークのように恋焦がれることもなければ、ウュリアのように一夜限りの恋をしようとも思わない。生涯独り身なのだろうと心のどこかで思っている。
だがベルティーナを思う気持ちは何だというのだろう。
彼女を傷つけるあらゆるものから守りたい。しあわせになってほしい。楽しそうに笑いかけてくれたなら、こちらまで嬉しくなるような、そんな気持ちは。
「……好きだよ、ベルティーナ」
そっと抱きしめる腕に力を込めた。
「私も大好きよ、リーヴ兄さま」
うつむいたままで、ベルティーナが微笑むのが解った。
(……ああ、そうなんだな)
ベルティーナがリーヴを慕うのは兄として。ウュリアを想うそれとは違う。
同じように、リーヴが彼女を思うのも、やはりそれは妹としてでしかないのであろう。
今までそう思っていたことを改めて知っただけだというのに、どうしてこんなふうに寂しさがこみあげてくるのだろう。
「部屋まで送るから、もう寝なさい。でないと身体を壊してしまうよ」
「うん、でももう少しだけこのままでいてもいい?」
純粋にただ甘えてくるベルティーナを抱きしめると、リーヴはそっと目を閉じた。
この手の中の小さなぬくもりを、きっと守り通そうと心に誓いながら。