緑影騎士外伝「金色の魔道士」

back menu next home

2.

 ベルティーナが泣きついてきたあの夜から数日が過ぎた。少なくとも彼女は表面上は今まで通りに振舞っていたし、またウュリアも何事もなかったかのようにベルティーナと接していたが。ルークはもう気づいたのだろうか、あのふたりが互いを呼ぶときの呼称がこれまでとは違っていることに。
 もともとごく親しい者の間   ジルベール、シルヴィア、アープの血族の者の前でしかベルティーナはルークを含めて『兄さま』とは決して呼ばない。今は別居しているリーヴの実母を除けばその異常に気づけるのはルークとリーヴしかいない。
『シルヴィア!』
 ベルティーナは、ウュリアをそう呼んでいた。これまでのように『ウュリア兄さま』とは、決して呼ばなかった。そしてまたウュリアもこれまでのように『ベル』と愛称で呼ぶこともなく、ただ『姫』と呼んでいた。これまでに比べれば、互いに距離を置いてしまったように思えるが、おそらくそれは互いを今まで以上に意識していることの表れなのだろう。
 ウュリアもルークもリーヴが女嫌いだということはよく解っていたから、そういったことを彼に話すことはない。それでも長い付き合いなのでなんとなくは解るのだ、そういったことに疎いリーヴでも。
 ウュリアはもう、ベルティーナを意識し始めている。多分、それは彼女がずっと望んでいた形で。
(ベルティーナがしあわせになれればいいんだが)
 彼女のしあわせを願う度に、言いようのない寂しさに襲われるようになったリーヴは、自然とため息をつく回数が多くなった。このままでは塞ぎこんでしまいそうだと、気晴らしを兼ねて馬に乗った。太陽が西に傾きつつあるが、地平線に隠れてしまうまでには、城壁を一周して戻ることができるだろう。

 ジルベール王国周辺には、これといった障害物はない。周囲はどこまでも続く草原で、ところどころに池やその周囲にわずかな木々が茂っていたりはするが、視界を遮るようなものは存在しない。そのためモルタヴィアとの戦争は、たいてい軍を正面からぶつけあう単調なものだった。どちらがより相手の心理的な隙をつくか、より有利な陣を組むかで決着がつく。
 次にこの草原が血に染まるのはいつになるのだろう   そんなことを考えていたリーヴの視界の隅を、何かがかすめた。
(鳥!?)
 鳥と呼ぶにはあまりにも大きい、真っ白なそれは確かに翼を広げてジルベールに向けて飛んでくる。だがもし今までに見たこともないような鳥だったとしても、その方角には水場になるような池も餌場になるような場所もないはずだ。
 リーヴが瞬きしたその一瞬あとには、すでに鳥の姿はなかった。
(錯覚? だが、それにしてはあまりにも……)
 それとも、何かの啓示だったのだろうか。
 しばらく考え込んでいたリーヴだったが、やがて鳥が降り立ったと思われる方角へ馬を飛ばしたのだった。


 女性……?
 リーヴが駆けつけたそこには、ひとりの女性らしき人がうつ伏せに倒れていた。濃紺の布に身を包み、もつれ乱れた金髪は腰まで届こうかという長さだった。布から垣間見えた白く小さな足は何故か素足で、どれほどそのままでいたのか足の裏に小さな傷がそこかしこについていた。
 少なくともモルタヴィア側の間者ではないと判断したリーヴは、それでも用心しながら馬を下りて倒れたままのその人を起こそうとしたのだが、
「ィアァァアッ!!」
 肩に触れただけで激しく暴れだし、予想に反する過剰反応にリーヴは一歩退いてしまった。怯えるように震えながら、うずくまってしまった様子を呆然と見ていたリーヴだったが、その悲鳴で女性であることを確信した。なんとなく嫌だなあと思いつつも捨て置く訳にもいかず、しばし途方に暮れていた、が。
「おい、ちょっと待て……お前、怪我を!」
 彼女が暴れた拍子に両足の膝から下が露になっていた。転んだとかそういった事故ではなく、明らかに故意に殴打されたのだろう大きなアザが白い肌にくっきりと浮かび上がり、さらに左の足には鮮血がこびりついている。
 こんな状態で、たったひとりで何故こんなところにいるというのか。誰かに酷い暴行を受けたのだとしても、その加害者も付近にはいない。彼女をここに捨てていったのだとしても、逃げる姿が見えないはずはないのだが   だが、今はそんなことに構っている場合ではない。詳しいことは彼女が落ち着いてから聞き出すとして、今は治療を施さなければ彼女の命が危うい。
 とにかくまずは出血を止めねばと、治癒魔法を唱えるために彼女の左足上部を隠す布をめくりあげようとしたのだが、意味をなさない悲鳴をあげて女性は激しく抵抗した。
(……え?)
 わずかではあったが、女性が抵抗したそのときにちらりと左足の傷口が見えた。
(どうしてそこまで……?)
 紛れもなく鋭利な刃物で切られたあとだ。何度も見てきた傷口を見誤るはずがない。ただ、それだけならば事故と言えるかもしれなかったが、傷の上からさらに暴行を受けた形跡が見られた。その上、傷口の一部は壊死が始まっていなかったか。切りつけられて間もなくであれば魔法で跡形もなく治癒してしまえるが、それ以上   壊死や腐敗まで進行してしまったら、魔法では回復できない。あくまでも魔法は本人の自然回復力を一時的に高めてやることで治癒するものであって、すでに回復力を失っている場合は効かないのだ。
 何故彼女はここまでのことをされなければならなかったのだろう。触れただけでもあの取り乱し様からすると、相当惨い目に遭わされたはずだ。
「……私の名はリーヴ・アープ。この国の魔道士だ。お前を害する者ではない」
 この地域には魔法を操れるものはほとんどおらず、それだけにアープの名を知らない者はいないに等しい。だが彼女はアープの名を知っているのかどうかは解らなかったが、自分を害する者ではないという言葉に一応は震えが止まったようだった。
「お前が何処の誰かは知らぬが、捨て置く訳にもいかぬ。その左足の切り傷は医師に適切な処置を受けねばならぬが、ひとまずその打撲は私でも治癒させることができる。どうか落ち着いてその足を見せてはもらえないだろうか」
 うずくまったまま聞いていたが、見ず知らずのこの男性が自分を助けてくれようとしていることは理解したらしく、彼女は小さく頷いて身体を起こそうとした。
「ァア……っ」
 手をついて身体を起こそうとした途端、小さな悲鳴をあげて再び地に倒れこんでしまった。リーヴが最初に肩に触れたときも悲鳴をあげられたが、もしかして肩にも傷を負っているのではなかろうか。
「肩を痛めているのか」
 苦しそうに、彼女が頷く。
「では無理をするな。これから私はお前に触れるが、暴れないと約束してくれるか?」
 ためらいがちに、再度彼女が頷いた。
 ……とは言っても。
 改めて言うが、リーヴは女嫌いなのだ。女性に自ら触れることなど、ベルティーナ以外にしたことはない。足だけならこのままでも治せようが、肩も負傷しているのならば、一度抱き起こして仰向けにした方が治療はしやすくて、でもそのためには彼女を抱き起こさなくてはならなくて、だからそのあの(以下略)。
(な、何を考えてるんだ私はこの非常時に!? 兵士たちを治療するのと何が違うと言うんだ! しっかりしろリーヴ・アープ!)
 動揺してから自分に言い聞かせて立ち直るまでわずか2秒。ルークやウュリア、それにベルティーナならともかく、他の者に動揺を悟られることはまずない。
 彼女の傍らに腰を落すと、できるだけ傷口を刺激しないように細心の注意を払いながら、リーヴはそっと彼女を抱き起こした。そのまま、壊れ物を扱うかのように仰向けに横たわらせたのだが、全身に傷を負っているのか、暴れることも悲鳴をあげることもなかったが、彼女はずっとその顔を苦痛に歪めたままだった。
「……失礼する」
 傷だらけの彼女の足に手をかざすと、静かに治癒魔法を唱えた。やわらかな光が彼女の膝下を包んだかと思うと、その数瞬後には光が消え去り、彼女の白く細い足には傷一つ見当たらなかった。
「……少しはよくなったか」
 問われ、小さく頷いた彼女の顔を、リーヴはここで初めて正面から見た。
 もつれて乱れた金髪に、伏し目がちな茶色の瞳。両手で口元を隠しているからよくは解らないが、造形は整っているだろう   多分。
 多分というのは、彼女の両の頬はよほど強く殴られたのか腫れ上がっており、こめかみのあたりが切れたのか一筋の血が流れるような、そんな有様だったからだ。
 どうして……!
 リーヴは強い憤りを感じた。女嫌いではあったが、女性が体力的に弱くいたわらねばならないものだということは解る。腕力では男性には勝てないことも。それなのに、彼女が受けたこの暴行は何だというのか。何故ここまでのことをされなければならないというのか。何故ここまでのことをしなければならなかったというのか。
 そっと彼女の血の流れるこめかみに手を触れて、リーヴは魔法を唱え始めた。そのあたたかい手の温もりに、彼女は静かに眼を閉じた。
 光が引いたときには彼女の頬の腫れもこめかみの傷も完治していた。安堵すると同時にリーヴは、目を閉じた彼女に一瞬見惚れ、触れていることに急に後ろめたさを感じてあわてて手を離した。
 動揺が伝わったのか目を瞬かせた彼女だったが、特に何も言わないままで、何故か馬を追いやるリーヴの姿を見守っている。
「その弱った身体では馬で行くより魔法で飛んだほうがよかろう。一気に王宮まで飛ぶぞ」
 何のことか解らないが、自分を抱き上げたリーヴの首に手を回して、彼女は力なくしがみついた。
 その手の、なんとはかないことか。
 抱き上げた彼女の、なんと軽いことか。
 リーヴはそれほど腕力がある方ではない。それなのに、この彼女のはかなさはいったい……。
「風よ来たれ!」
 転移の魔法を唱えながら、リーヴは心のどこかで思っていた。
 彼女を守らなければ、と。


「リーヴ兄さま!?」
 ひとまず自分の執務室に転移したリーヴは、ちょうどそこに彼を訪ねてきていたベルティーナと出くわした。突然現れたリーヴが転移の魔法で飛んできたことは理解したが、彼の手の内に女性がいることに改めて驚いて、ベルティーナは言葉を失ってしまった。
「怪我人だ、ベル、すまないが医者を呼んでくれないか。切り傷が進行していて魔法では間に合わない。それから湯と、何か着るものを」
「……!」
 リーヴに早口で言われ、ベルティーナはハッとした。力なくリーヴにしがみついている女性のこめかみのあたりから伝っていた血と、真っ白い足を伝う血と   
「わかったわ、私の部屋の隣に彼女を運んでおいて!」
 そう言ってベルティーナは部屋から駆け出した。聡明な彼女はすぐに訳ありだと気づいたのだろう、ベルティーナの部屋の付近は人の出入りが限られている。そこならばほとんど人目につかないはずだ。
「もう一度転移する、耐えられるか?」
 リーヴが問うたときにはすでに、腕の中の彼女は彼にしがみついたまま意識を失っていた。


 意識を失っている女性の治療をする医師を手伝ったのはベルティーナだった。どこでどんな目に遭わされたのか、足だけではなく全身に小さな傷と打撲の跡があり、土と埃にまみれていた。彼女の身体を拭いてやり、一番酷い切り傷を医師に任せて他の小さな傷はベルティーナが治療した。少しでも役に立てればと、リーヴから治癒魔法を習っていたのだ。もちろんリーヴほどの効果は期待できないが、多少の傷なら跡も残さず治すことができる。
 治療が終わってから持ってきた自分の寝衣を彼女に着せてやり、ベルティーナはリーヴにそのことを報告した。彼が本来なら立ち会わなければならないのだが、彼女が濃紺の布の下は何も身につけていないことを知って、あわてて部屋を飛び出してしまったのだ。
「まだ意識を取り戻してないんだけど……もう心配ないって」
「そうか……手間をかけさせてしまってすまない。ベルは大丈夫か?無理はしてないだろうな?」
 アープと違ってベルティーナは魔法は使えてもそれを操るだけの力   魔力があまりない。無理をして魔法を唱え続ければ身体に負担を与えてしまうことになる。
「……ちょっと疲れたけど平気よ。でもどうしたの? あの人、あんなボロボロになって」
「解らん。ただ、あんな状態で落ちてたら放っておくわけにはいかないだろう?」
「落ちてたって……」
「本当に落ちてたんだよ。他に説明のしようがないんだ」
 それ以外に確かに表現のしようのない状況ではあったのだ。
「あの人、早く元気になれるといいわね」
「そうだな」
 ベルティーナの心配そうな声に、リーヴは頷いた。
 しかし、と思う。
 何が原因であんな目に遭わされたかは解らないが、それでも何かしらの諍いなりがあったのだろう。だとしたら、意識を取り戻したとしてもいいことばかりではないのではなかろうか。いつまでも彼女を隠しておける訳ではない、つまらん野次馬どもがいらぬ詮索をしてくるだろうし、ルークやウュリアにも報告しなければなるまい。それに彼女自身、追われる身であるのならばまた怯えて暮らさなければならないのではないか。
 意識を取り戻したら、何処かへ消えてしまうのではないか   

 まずはルークに報告しなければなるまい。そう思って執務室を出たリーヴだったが、その前に彼女の様子を見ようとベルティーナの部屋の隣の扉をノックした。応えはない。まだ意識が戻らないのかと静かに扉を開けて、リーヴは彼女が横たわるベッドの隣に佇んだ。
 長い金髪はベルティーナが梳いたのか整えられており、こびりついていた血の跡も拭われた彼女の寝顔は、血の気が失せていることを差し引いても美しかった。ベルティーナも美しいが、ベルティーナの輝くような愛らしさとはまた違った、落ち着いたそれだった。微笑を向けられたら心があたたまるような、そんな感じ。怯え苦痛に歪む彼女の顔しか見たことがないのに、勝手に笑った表情を想像している自分に気づいてリーヴは苦笑した。
 何をしているんだ、私は。
 血の気の失せた顔に表情はないが、決して苦しそうでもない。とりあえず命に別状はあるまいとリーヴが踵を返して部屋を出ようとしたときだった。
 くんっ。
 袖口を引っ張られた。何かに引っ掛けたかと思って振り返ると、目を覚ました彼女がリーヴの袖口を捕まえていた。
「すまない、起こしてしまったか? どこか痛いところはないか?」
 小さく首を横に振りながらも、彼女の手はリーヴを離そうとはしない。
「……これからちょっと用事があるんだ。その手を離してはもらえまいか」
 困ったようにリーヴが打ち明けると、彼女はその手は離さないままで、黙ったままうつむいてしまった。
 多分、心細いのだろう。リーヴが最初に受けた過剰な拒絶反応からして、恐らくは初対面の者であってもすべて敵に見えるのだろう。そう考えると治療中、医師とベルティーナと顔を合わせなければならなかったのだから、気を失っていてよかったのかもしれない。だが逆に考えると、彼女の中ではリーヴ以外に味方はいない訳で、こうして彼を離さないようにしてしまう訳で。
「……名前を訊いても?」
「…………、サウィン…………」
 よほど注意していなければ聞こえないほどのか細い声で、彼女は応えた。姓を名乗らなかったがとりあえずはそれは置いておくことにする。
「ではサウィン、ここはジルベールの王宮の奥だ。誰もサウィンを害したりはしない。それでも心配なら私がこの部屋に結界を張って、他の者が入れないようにしよう。だからもう、怯えることはないんだ」
 リーヴの言葉を噛み締めるように、サウィンが彼の言葉にひとつひとつ、小さく頷く。
「それで、よかったら教えてくれないか。いったいサウィンは何処から来たのか、どうしてあそこにいたのか。……帰る場所はあるのか」
 誰に、どうしてあんな目に遭わされたのか、とは訊かなかった。そのことをできれば思い出させるようなことはしたくない。たとえいずれは訊かなければならないことだとしても。
「……わたし……は」
 その先の言葉をじっと待つリーヴに、彼女はようやく声を絞り出した。
「わからない……何も、覚えてない……私は、何……?」
 自分を害する者がいなくても、その自分を証し立てる唯一の記憶が、ない。自分が何処の誰かさえわからなくなっていることに気づき、サウィンはぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「……!」
 彼女の涙にひどく胸を締め付けられて、リーヴはサウィンを抱きしめた。いつもベルティーナにしてやったように何度も背中をさすってやる。
「すまない、私が悪かった。思い出せるまで私があなたの面倒を見るから……誰にも傷つけさせないから……約束するから、今は落ち着いて眠りなさい。まずは体力を回復させることが優先なんだから」
 抱きしめられたまま、サウィンは大人しくしていたが、こくんと頷くとそのまま眠りに落ちてしまった。
 リーヴは毛布を掛けなおしてやり、そのまま部屋を後にして王の執務室に足を向けた。

 彼が抱きしめた彼女の細さを思い出すのと、同時に咄嗟に何を口走ったんだろうかとひとりで慌てふためくのは、この日の夜半を過ぎた頃である。

back menu next home