緑影騎士−聖騎士の帰還−
17.
賑やかな宴が終わり、静けさを取り戻したジルベール王国の夜が明けようとしていた。東の空が白みはじめ、新たな歴史の始まりを告げようとしている。
通りには祝いの花がまだ散らばっており、酒瓶がちらほらと転がったままになっている。さすがに夜通しの宴で酒が残っているのか、まだ誰一人として目を覚ましてはいない。
否アープ家の二階で毛布にくるまったまま床で眠っていたリグル・シルヴィアは目を覚ますと、自分にもたれたまま眠っているエリスを起こさないように静かに立ち上がり、少しだけ窓を開けた。夜の闇が徐々に朝の光に溶けようとするその光景は、いつ見ても不思議な気持ちにさせる。終わらない夜はないのだという不思議な安堵感と、これから新しい何かが始まるような言いようのない期待と微妙に入り混じった緊張と、朝陽はそれらを静かに運んでくるのだ。
真新しい朝の空気を大きく吸って、そのまま数秒間肺に溜めてからゆっくりと吐き出した。
しばらくそのまま窓から見える町並みを眺めていたが、再び屈みこむと、眠ったままのエリスを起こさないように毛布ごと慎重に抱きあげて、そっとベッドに横たわらせた。毛布をかけ直して、わずかに窓から差し込んでくる朝陽に照らされたエリスの寝顔をじっと見つめた。
かつてこの国を離れるとき、エリスはまだ幼く、いつもディーンや自分の後をついて走り回っていた。転んでは泣き、ふたりからはぐれると泣き、それは大層な泣き虫だったが、お菓子を頬張っては笑い、両親に誉められてははにかみ、花で編んだ首飾りをしてはすまして、いつも表情豊かに無邪気なまま走り回っていた。それが再びこの国に戻ったときにはエリスはすっかり成長して、魔法を操り後方支援ではあったが反乱軍の一員としてディーンと共に戦っていた。守られているばかりではなく、自分も一緒に戦いたいと。父譲りの強大な魔力で兵士たちを吹き飛ばし、また瀕死だったディーンをその治癒魔法で救った。守られるのみを良しとせず、自ら戦う道を選んだ彼女はなんと逞しく潔く、そして美しいのだろう。
はかなげな外見とは裏腹に自分の意志を貫き通すその強さに、惹かれているのかもしれない。でなければ最後の戦いに赴くとき、何が何でも彼女の同行を留めていたはずだ。まるでそうすることが当たり前かのように、エリスが一緒にあることを認めていた。
たったひとりで翡翠騎士団長に挑もうとしたり、戦場に身を投じようとしたりと無茶をするかと思えば、再会した途端に泣き出したり、相反するものがごちゃまぜになったままの彼女は例えるならそう、この夜明けのような不思議な魅力の持ち主だった。
まだあどけなささえ残るエリスの寝顔をしばらく見つめていたが、リグルは開けたままだった窓を閉めると、そうっと彼女の額にくちづけた。
「さよなら、エリス」
ほとんどない荷物を抱えると、静かにリグルはその部屋を後にした。
家人を起こさぬよう音を立てないように静かに表に出たリグルは、荷物を置いて大きく深呼吸した。だんだんと明るくなる空に、最後の星がまだ瞬いている。他に活動する者のいない静かな朝が明けるにつれて、宴の夜は姿を消していき、穏やかで温かく、しかし忙しい一日が近づいていた。
「……やはり行くのか?」
てっきりまだ眠っているだろうと思っていたのに、ディーンがその扉から姿を現した。昨夜はやはりほとんど眠らせてもらえなかったのか、少しやつれた顔が痛々しい。
「どうして解った?」
「……なんとなく……な」
リグルは誰にも今朝発つとは告げていない。置き手紙さえ残さなかった。皆が目を覚ましたときには姿がなくなっている、そうなるようにこんなにも早くに起きたというのに。
「……もっといればいいのに。せっかく帰ってきたんだから」
ディーンの言葉にリグルはただ微笑むだけだった。互いに返すべき言葉がないことが解っているから、もう何も言うことができない。長い沈黙の中で、朝陽だけがふたりを照らしている。暖かく、穏やかな優しい光がふたりを包み込んでいく。
「何処へ?」
「……さあ」
ようやく見つけたディーンの言葉も、リグルの短い返事であしらわれてしまった。否、考え込んでいたのか、リグルがふと思い出したように、
「……強くなりに。せめて父上くらいには強くなりたい。新しい王を守れるくらいに強くなれたら、きっと帰ってくるさ」
女王亡き後、ジルベールの統治者は自然とディーンになるだろう。新しい王のために、強くなろう。誰にも負けないほどの強さを、守るべき者を護れるだけの強さを求めて、新しい世界を見に。
「そうか」
幼馴染を留める手段がないことをディーンは改めて実感して、ため息をついた。この国の誰にとっても異邦人であったとしても、ディーンにとっては大切な幼馴染であることに変わりはないのに。そしてまた、共に女王軍に挑んだ戦友でもあるというのに。
「ああ……」
ため息をついた幼馴染を見て申し訳なさそうにリグルが微笑む。それでも変わることのない強い意思は、誰にも変えることはできないのだろう。リグルにとってもうこの国が異国であったとしても、ディーンが大切な幼馴染であることに変わりはない。
切なさと寂しさと名残惜しさを含んだ沈黙が、そよと吹く風に踊った。夜も明けやらぬこの時間の風は、まだ肌寒い。
「……行くのなら馬を一頭連れて行くといい。はずれの厩舎は覚えているな?」
「覚えてるさ。でもどの馬を?」
「一頭だけ白馬がいる。お前の父の愛馬の血筋だよ。どういうわけだか誰にも懐かなくてなあ、引き取ってくれるならこちらとしても大助かりだ」
「……ちょっと待て。厄介者を押し付けられてるのか、俺は?」
「失敬な。もともとの飼い主に責任取ってもらおうってだけさ」
顔を見合わせて、ふたりの若き英雄は笑った。
そして、笑いがおさまったとき、どちらからともなく固く抱擁した。
かつてシルヴィアは突然ジルベールから姿を消した。それは些細なことが原因だった。
リグルのたった一言、時の王を伯父上と呼んだことがシルヴィアにそうさせた。
英雄王と謳われたルーク王とロゼーヌ王妃の間に子はなかった。ジルベールは歴史が浅いせいもあり、王の血縁者はそうはいない。まして長い戦時下で、若くして散っていった命も多くあった。そんな中、前王の血を引く者はルーク王とその妹ベルティーナのふたりきりだったのだ。ベルティーナはウュリア・シルヴィアとの婚姻の際に王族であることを拒んだが、その血だけは拒みようがなかったのだ。
ルーク王にもしものことがあったら、王位は誰が継ぐのか?
血の濃い順で決められる王位は、普通に考えればベルティーナになる。だがすでに彼女は王族そのものを拒むことで拒否している。ならば、その子は?
ベルティーナが生んだ男児の父は、かの三英雄のひとりなのだ。彼が王位を継いだとして、誰が否を唱えようか。
そのことを思い知らされたのは、結婚から十年が経過しても子宝に恵まれない国王夫妻のことが宮中で話題になっていたとき、何の因果か家庭で血縁の話が出た。それを説明しているときに、幼いリグルが言ったのだった。
じゃあルーク陛下は伯父上なんだね、と。
だから逃げた。
我が子に国などという重荷を背負わせたくないがために、宮中の醜い争いに巻き込まないために、そしてこれ以上王妃を追い詰めないために。
そうして二度とは戻らぬはずが、リグルは再び祖国に戻ってきた。
独裁に走った女王を討った。王政を覆した。反乱軍のリーダーであったディーンが新しい国の統治者になるのは自然な流れである。だがこの先、必ず国民から不満が出てくる。どんな善政を敷いたとしても、一度や二度は揺らぐことがある。そのときにリグルがいたら、どうなる?ディーンに対して不満を持つ者であれば、かつての王族の血を引き、また英雄の息子であり、同時にまた彼も女王を討った英雄なのである。彼を新たな統治者に立てようとするのもまた、自然な流れであろう。
ひとつの国に、ふたりも英雄はいらぬのだ。
だからシルヴィアは去る。十年前と同じように、誰も知らないうちにひっそりと、供も見送りもなく。
そうして今度こそ、戻ることはない。
「リグル……元気でな」
「ああ……ディーンも」
だからこそ、何を言っていいのかわからなかった。
身体を離し互いにじっと見つめあっていたが、やがて微笑みあった。
荷物を背負うと、リグルは新しい風に誘われるまま足を厩舎に向けた。
一度も後ろを振り返ることなく。
白いマントを風にゆるく躍らせながら去っていくリグルの背中を見つめながら、ディーンはそのまま立ち尽くしていた。もう二度とは戻らないであろう幼馴染の背を、その眼に焼き付けるように。
しばらくして目を伏せ息を吐くと、誰にともなく呟いた。
「よかったのか、見送らなくて」
ディーンがわざと少しだけ開けておいた扉の向こうで、じっと佇む気配があった。
「今ならまだ先回りすれば間に合うはずだ」
厩舎に行くには少々道を迂回する。まっすぐ正門に向かえば待ち伏せすることができる。
「……でも……私」
震えながらエリスが扉の向こうで呟いた。リグルが彼女を抱きかかえたときに目が覚めたのだ。こっそり起き出して、ディーンが開けておいてくれた扉から、ずっとふたりの話を聞いていたのだ。
今すぐにでも追いかけていきたい。もう待つのはいやなのだ。
けれど、そうしたら兄はディーンはひとりきりになってしまう。両親もなく、ひとりですべてを背負っていかねばならない時に、近くにいて支えることもせず勝手に振舞うことができるほど、エリスは単純ではない。
「ははは、私なら大丈夫だよ。アレクや、他のみんなもいるしね」
もう何もかもをひとりで抱え込むのはやめよう。自分には仲間がいる。支えてくれる、一緒に戦ってくれる仲間がいるのだから。自分はもうひとりではない。エリスはこれまでよく戦ってくれた。血塗れの者を幾人も治癒してくれた。……彼女もまた、自分のために夢を見る権利があるのだから、止めはすまい。
「好きにしなさい、エリス」
兄の言葉に、エリスはようやく姿を見せた。扉が開く音にディーンは振り返り、今にも泣き出しそうなエリスに両手を広げた。
「……ッ」
声もなく駆け寄って、エリスは兄に抱きついた。一緒に戦っている間はあんなにも頼もしく思えたのに、抱きしめたときの折れてしまいそうな華奢な感触にディーンは驚いた。そして思うのだ、どんな強大な魔法を操れたとしても、まだエリスは少女なのだと。
行けばもう、二度と逢えない。
「大好きよ兄さん、本当に……」
「……お前が何処に行こうと何を為そうとも、私の大切な妹だよ」
あふれる涙を振り切るように、エリスはディーンの元を離れて走り出した。
「愛してるよ……エリス」
兄妹の絆は永遠。何があったとしてもどこかで繋がっていられるから。
だから好きなところへ行って、好きなことをするといい。
そうして何処かで輝いている君を思うだけで、きっとしあわせになれるから。
「お互いに貧乏くじなんだよな」
エリスを見送って家の中に戻ろうとしたディーンは、不意に聞こえてきた声に足を止めた。
「……いつからそこに?いや、よく起きられたな」
「昨夜結局寝てないからなぁ」
建物の影からふらりとアレクが姿を見せた。二晩の徹夜はさすがに応えたのか、アレクも少しやつれている。
「アレク、よく耐えてたな?」
「だからシルヴィアは嫌いなんだよ」
エリスがリグルを追いかけていこうとするのを止めることもできたはずなのに、アレクはそれをしなかった。ただ黙って姿も見せずにエリスを見守っただけだった。以前のアレクならばすぐにでも飛び出して、エリスを何としてでも阻むであろうに。
「……でも、エリスは好きだから」
彼女がしたいと思うことをさせてやりたい。飛び立とうとする小鳥を無理やり籠に閉じ込めて、歌をさえずることさえ忘れさせてしまうような愚を犯すほど、アレクは自分勝手ではない。
「本当に貧乏くじだよな、俺たち」
「ああ……全くだな」
顔を見合わせて苦笑するしかない。
「エリスがしあわせなら、もうそれでいいさ」
あきらめたように呟きながら、空を見上げた。夜の闇を飾っていた星たちは姿を消し、白とも紫ともいえない不思議な色の絨毯が広い空に敷かれ始めていた。
はずれにある厩舎は昔と変わることなくそこに建っていた。世話をする者もやはりどこかで酔いつぶれているのか、近辺には見当たらない。仕方なくリグルは勝手に厩舎に立ち入ると、言われた白馬を探してその中を見渡した。
十頭ほどがいる中で、ひときわ目立つ色彩のその馬は、リグルをまっすぐ見つめたままで彼が近づいてくるのを待っていた。白馬とは聞いていたが、そのたてがみだけが黒かった。白い衣装に黒髪のリグルに合わせたかのようなその馬は、目の前に立ったリグルに対してぷいと顔を背けた。
「お前か?ディーンに厄介者扱いされてる白馬っていうのは」
馬は目を閉じたままで顔を背けている。
「すまなかったな。おいてけぼりにされてすねてるのなら謝るよ。もっともお前は知らないんだろうけど……」
十年前シルヴィアが国を去るとき、愛馬はこの厩舎に繋がれたままだった。あのときの馬は今頃はかつての主人と冥界で再会をしていることだろう。
「ごめん」
白馬の顔を優しくなでた。果たしてリグルの謝罪が通じたのか否か、白馬は向き直って人間の顔をべろりとなめた。
「行こう、新しい世界へ」
かつて父が使用したものであろう蔵を白馬に取り付けると、リグルは厩舎の外で馬上の人となった。馬に乗るのも久し振りなので、練習も兼ねてまだ人気のない通りを歩いた。
変わってしまった大通り。なくなった噴水。変わることのない王宮、変わってしまった町並み、昔のままの町並み……。ひとつひとつを忘れないように、思い出の箱に閉じ込めていくように見つめていた。
国を去るのはこれで二度目。何も知らされないままだった十年前と比べて、覚悟の上で国を立ち去るのは何と辛いことだろうか。何と去りがたいことであろうか。かつて両親もこんな思いでこの国を後にしたのだろうか。
忘れないように、そして振り切るようにひとつひとつの景色を胸に刻み付けていき、リグルは王国の正門に馬を進めた。残していく人たちを思うと後ろ髪引かれる想いだったが、振り返ることなくリグルはその門に向かった。
向かった、が。
そこにはいるはずのないひとが、いた。
確かに残してきたはずの。
どうして。
「エリス」
開け放たれた門を背に、エリスがそこにひとり佇んでいた。自分が出てくるときにはまだ眠っていたはずなのに……いや、それよりもどうしてここに?
馬上で対応に困っているリグルに、エリスは震える手を握り締めて、ありったけの勇気を振り絞って叫んだ。
「もう待っているのは嫌なの!」
目に涙さえ浮かべてエリスは続ける。
「お願い、私も……」
「おいで」
エリスの訴えを遮るように、リグルが馬上から手を差し伸べた。
向けられた優しい笑顔に、エリスは迷うことなくリグルの手を捕まえた。
「行こう」
軽々とエリスを引き上げて自分の前に座らせると、リグルはそっと囁いた。
「何処へ行きたい?」
「リグルさんと一緒なら何処でもいいわ」
ふたり、微笑みあった。
どこまでも広がる大地を朝陽がゆっくりと照らしていく。
時折吹くまだ冷たい風が、踊る心に心地よかった。
駆け出した白馬の黒いたてがみがゆれ、砂が舞った。
白いマントがはためく空は、雲ひとつなく。終