緑影騎士-竜騎士の降臨-

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27.

 ルティナに腕を引っ張られながら、ラスフィールは抵抗もせず無言で見慣れた廊下を足早に歩いていた。先を小走りに進むルティナは振り返ることもなく無言である。
 しばらく歩いて、ある部屋の前でルティナが立ち止まった。見覚えのある扉にラスフィールがかすかに眉を動かしたが、それに気付くこともなくルティナは彼を部屋に引っ張り込む。
 扉を閉め鍵をかけると、ラスフィールを扉の前に立たせたまま、椅子を勧めることもなくカーテンを閉めた。まだ日の高いこの時間、カーテンを閉めても真っ暗にはならない。
 ルティナは薄暗い部屋の中で対峙するラスフィールを見上げた。かつて自ら命を絶とうとした時には短かった銀髪も今は伸びて、後ろでひとつに小さく結ばれている。伸びた前髪がカーテンの隙間から差し込む僅かな光を反射してきらきらと輝く。前髪の奥からまっすぐルティナを見つめる蒼い双眸は──冷たい水のようだった。
 部屋に着いたら投げつけてやろうと思っていた言葉が、急に喉の奥に張り付いて出てこない。吐き出してしまいたい。何も解っていないこの木偶の坊に、どんな気持ちで助けたのか思い知らせてやりたい。
 そう意気込んで部屋まで連れて来たはずなのに、ここがどんな部屋かラスフィールが知らないはずもないのに、ここまできて──足が竦む。心が怯む。開きかけた唇を、ぎゅっと噛む。
 うつむいて沈黙してしまったルティナを見守っていたラスフィールだったが、ひとつ深呼吸をしてから静かに告げた。
「君は監視役を降りるべきだ。一般人の君が私の罰に巻き込まれる必要はない」
 言われたルティナは、への字に曲げた唇を震わせてラスフィールを睨み付ける。
「君は目の前に怪我人がいたから助けた。罪人を助けた訳ではない。──そうだな? 君の優しさを逆手にとって責任などと言って罪人を押しつける方がどうかしている。もういい。これ以上苦しまなくていい」
「わた、しは」
「私は主君を守れなかった。騎士失格だ。生きたいとは思わない。むしろ長く生き過ぎたくらいだ。例え今から処刑されたとしても、未練は──」
「私は!」
 諭すように語るラスフィールを遮って、ルティナが叫んだ。
「私はラスフィール、あなたを助けたの! あなただから助けたの! 前に言ったわよね、あなたは父を殺したの、だから勝手に死ぬなんて許さないって! なのにどうして死に急ごうとするの? 私は許さないって言ってるのよ!」
「……父君の命を奪ったことは申し訳なく思っている。許してほしいとも思わない。復讐したい気持ちもあるだろう。だがそのために何故君が苦しまなければならないのだ。私と共にあることで泣かなければならないのなら、それは」
「私が泣いたのは、苦しいからじゃない! 可哀想だって、言われ、たから」
 ルティナの叫びが嗚咽で詰まる。
「泣くほど辛かったんだろう」
「違……、そうじゃ、なくて」
 何を言えば。どう言えば。親切で助けた訳ではないのだと理解させられるのか。
「ラスフィール、あなたは私の父を殺したの。……その時のこと、覚えてる?」
「……いや」
 どれだけ人を斬り捨てたかすら覚えていないのに、その中のひとりなど覚えているはずもない。お前が斬ったと言われれば、そうなのだろうと思うだけだ。幸か不幸か、心当たりは山ほどある。
「私の父は兵士だったの。一般兵だけどね。でもあんまり剣とか得意じゃなかったみたいで、階級はずっと上がらないままだったみたい。私はよく知らないけど、近所の人達が話してた」
 静まりかえった部屋で、ぼそぼそと呟くように語るルティナの声を聞き漏らさないよう、ラスフィールが耳を澄ます。
「兵士って夜の見張り番があるでしょ。あの日はその当番で、朝帰ってきたの。それで、帰って来るなり殴られて。それはいつもなんだけど、あの日に限ってお酒を買い忘れてて、父にそれがばれて、余計に殴られて、顔なんか何度も引っぱたかれて腫れ上がって、きっとひどい顔してた。
 蹴り飛ばされて、吐いて、鼻血も出て、死ぬかと思った。服を脱がされそうになった時、このままだと殺されると思って、咄嗟に逃げ出したの。本当に必死だった」
 黙ったまま聞きながら──何を言っているのかラスフィールには理解ができなかった。言っていることは解るのに、意味が分からない。父親に殴られる日常とは、彼女は何を言っているんだ?
 言葉もないラスフィールをそのままに、ルティナが続ける。
「狭い家だったから隠れる場所もないし、家の外に逃げ出したの。私が父から逃げてるのは見れば解るはずなのに、近所の人は誰も助けてくれなくて。父は追ってきて、怖くて走って逃げて、大きい通りに出ちゃったの。そしたら、あなたがいて」
 声が詰まる。喉の奥が引きつって、肩が震える。ルティナが大きく深呼吸する。
「助けてって、声も出なくて。あなたの方に走り出そうとしたら、転んじゃって。父に追いつかれて、その場で服を摑まれて、破れて、それで、それ、で」
「無理しなくていい」
 息を乱し声を震わせたルティナを止めようとするが、彼女は大きく首を横に振った。
「怖くて、声も出なくて。うずくまってたら、あなたが何か言ったの。聞き取れなかったんだけど、父の手が離れたから、あれって思って、顔を上げたら、あなたが、父を、斬って、血が、ばあって……」
 嗚咽混じりの声が震える。
「もういい、喋るな」
「違うの……父が真っ赤になって倒れて、動かなくて。起き上がったらどうしようって、思ったんだけど、しばらくしても動かなくて。ああ、父は死んだんだって思ったの。誰も近づいてこなくて、時間が止まったみたいだった。
 本当にね、あの時、ほっとしたの。安心したの。もう殴られなくてすむって。あんな痛い思いしなくていいって。お礼を言いたかったんだけど、気が付いたらもうあなたはいなかったから……、ラスフィール、あなたは私の父を殺したの。そして、私の命の恩人なのよ」
 耐え切れずこぼれた涙が、ルティナの頬を伝ってぼたりと床に落ちた。
「でも、誰にも言えなくて。私は助けられたのに、皆に可哀想って言われて。お父さんを殺されてお気の毒にって、騎士団長は血も涙もないって、そんなことばっかり言われて。誰にも言えなくて。誰にも解ってもらえなくて」
 しゃくりあげるルティナを言葉もなく見つめていたが、ラスフィールの脳裏に不意に鮮明に甦る。今まで思い出せなかったのか不思議なほどだった。
 あの日、部下を伴って巡察に出ていた。すでに幾度か公開処刑が行われた後であり、国中の空気が張り詰めていた頃だった。翡翠騎士団長自らの巡察とあって、午前中の忙しい時間帯にも関わらず通りの人はまばらだった。そこへ飛び出してきた女は髪も服も乱れ、力尽きたように足をもつれさせて転倒した。追いかけてきた男は一般兵の革の鎧を着ており、怯えてうずくまった女の服を掴んで引き裂いた。
 もしもそれがただの男と女だったなら、痴情のもつれと放置したかもしれない。だが男は兵士に貸与されている鎧を着たままだった。王に仕えるべき兵士が往来で乱行に及ぶなど、到底許されることではなかった。
 ラスフィールは一瞬の躊躇もなく斬り捨てた。そして所属を確認することもなくその場を去った。そんな見苦しいものを兵士と認めるつもりはなかった。
(──ああ、そうだ。確かに殺した)
 小柄な女だった。ただ、顔は覚えていない。声も出せずに震えていたため、年の頃も分からなかった。
(あれは、君か)
 女王の命令は、規律に反する者を捕らえること──抵抗するならばその場で斬っても良いということだった。だがあの日ラスフィールがやったことは、半分は私情だ。本来ならば取り押さえて所属を明らかにし罰しなければならないところを、許せないからと斬り捨てた。あの男を許せないと同時に、私情を挟んだ自分が許せなかった。
 ただその記憶も、日々の忙しさと数多の悔恨の中に埋没していった。
 甦った記憶に呆然とするラスフィールを見て、まだ解ってもらえないのかとルティナが途方に暮れる。いくつか深呼吸をしてから少女が続けた。
「……お母さんが生きていた頃は、そんなんじゃなかったの。あんまり覚えてないけど、普通に暮らしてたと思う……。お母さんが死んで……なんだっけ……分からないけど、ある日突然殴られて……本当に……動けなくなるまで殴られて、服を破かれて、何か入れられて、すごく痛くて暴れたらまた殴られて、怖くてずっと歯を食いしばって我慢して……一晩中耐えて、朝お父さんが出かけた隙に、隣のおばさんのところに駆け込んだの。足なんかがくがくだったけど、痛いし血が止まらないしこのまま死んじゃうんじゃないかって、すごく怖くなって。
 私、その時は何をされたのか解ってなかったけど、おばさんはすぐに解ったんでしょうね。大急ぎでお医者さんを呼びに行ってくれたんだけど、お父さんが戻ってきて大暴れしたの。私は連れ戻されて買い物以外は家から出してもらえなくなったし、近所の人もお父さんが怖くて見て見ぬ振りをするようになったの。お風呂は……時々おばさんがお湯を貸してくれたけど……。
 その内に、暖炉に火がついてる日は裸にされて焼いた鉄の棒を押しつけられたりして。殴られた痕は次の日くらいには何とかなるけど、火傷って結構痛みが続いて辛くて……ある時ね。焼いたナイフに炭……なのかな、をつけて背中を傷つけられたの。夜も寝れないくらい痛くて、手当もしないから何日も高熱が出て、本当に死ぬかと思った。さすがにお父さんも不安だったみたいで、仕事の時はおばさんが看病してくれたの。身体を拭いてくれた時に、私の背中を見て泣いてるみたいだったから、相当ひどい傷なんだろうなって思ったんだけど……。
 女王を倒した後、私は身寄りがないし、王宮に住むことになったのね。好きな部屋を使っていいって言われていろいろ探索してる時に──あれってアープ様が作ったのかしら。背中が見える鏡ってあるでしょう?」
 初代三英雄のアープは魔法を用いた道具を作るのが得意だったという。王宮地下の大浴場や公衆浴場の湯が出てくる栓も、封じの塔も初代アープが作った物だ。そして背中が見える鏡は衣装部屋にあり、ロゼーヌが高熱を出した後、もしやと自身で背中を確認するのに使用している。
「あれでね、鏡に映してみたの。何か文字が書いてあったわ。私は読めないけど、おばさんが泣くくらいだし、お父さんのことだからきっとひどいことが書いてあるんだろうなあって思っては、いたん……だけどね……」
 言葉を途切れさせたルティナがラスフィールに背中を向けた。しばらく俯いていたが、不意に上衣を脱ぎ始めた。戸惑うラスフィールの前で小さな背を露わにし、
「これ。読める?」
 消え入りそうな声で呟いた。
 小さな背中に文字のようなものが書かれていたが──ナイフで傷つけられた痕は文字にしては歪で、解読するのに数秒かかった。
(……何だ、これは)
 文字は読めるが、意味が分からない。ラスフィールがこれまで歩んできた人生で、縁の無かった言葉だ。
「文字。教えてくれたでしょう。本当に嬉しかったの。それで、忘れてればよかったのに、今なら背中に何て書かれたのか解るんじゃないかって、思っちゃって」
 少女の声が震えていた。
 見れば背中だけと言わず、腕もあちこちに火傷の痕があった。腕は肘から手先にかけては傷がなく、肌が露出するところは意図的に避けたのだろう。
 背中の文字を心の中で反芻している内に、ラスフィールはどこかの酒場で聞いたような記憶を思い出し──そして明確にその文字の意味を理解した。
(何だ、それは)
 ぞっとした。吐き気がした。父親が実の娘の身体を傷つけるだけでも常軌を逸しているのに、あまつさえそんな言葉を刻みつけるのか。一生消えない傷を背負わせるのか。
(私が文字を教えなければ──)
「……あなたのせいじゃないの」
 ラスフィールの心を読んだかのように少女が背を向けたまま呟いた。
「私が言いたいのは、そうじゃないの。哀れんでほしい訳でもないの。ずっと父にひどいことをされてきたって、誰にも言えなくて。だから、誰も知らないから仕方ないんだけど、父が殺されて私は助かったのに、嬉しかったのに、安心したのに──皆が皆、可哀想って言うから──父が殺されて喜んでる私は悪いのかなって……。
 私はあなたに助けられたの。でなきゃきっと殺されてた。だから、自分のことを罪人なんて言わないで。死んでもいいなんて言わないで。父を殺したことをあなたが罪と言うなら、それを喜んでる私も同罪なの。
 あなたが父を斬った時、創世神話に出てくる銀の竜が魔王を倒してくれたのかと思ったくらいよ。本当に、本当に感謝してるの。あの時、助けてくれてありがとう。あなたの剣で私は救われたの。あなたに死んで欲しくなかった。生きてて欲しかった。だから助けたの。勝手に死ぬなんて許さない。……私はずっとあなたのことが──」
 そこから先は声にならなかった。
 震える少女の背中から目を離して周囲を見回せば、いくつもの懐かしい物があった。
 ジルベールを旅立つ時に置いていった銀の鎧が、きれいに磨かれて部屋の片隅に置かれている。創世神話の本とガラスのペンが置かれている机も椅子も、ベッドの寝具も変わらない。かつてラスフィールが使っていた部屋は、何ひとつ変わっていなかった。
 好きな部屋を使っていいと言われ、この部屋を選んだ少女の震える背中にかける言葉も見つからないまま、ラスフィールはただ立ち尽くしていた。

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