罪人たちの舟

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3.

「誰!? あなたはいったい……!」
 一瞬の空白のあと、真雪は虚空に向かって叫んだ。
 辺りは果てもなく昏い闇に覆われ、天も地もなく、真雪ただひとりがそこに存在していた。
「何の目的であんな・・・、あんな夢を見せたの!」
 普段の真雪なら絶対に出さないような荒い声で叫んだ。しかし、応えはない。叫び声は虚空に飲まれ消えるだけ。
 思い出したくもない、あんな過去の記憶を呼び起こしてどうしようというのか。
 ふと今朝の夢が生々しく甦ってきて、真雪は思わずうつむいて目を固く閉じた。
 その、刹那                 

「…………………………ッ!!!!」

 音もなく、一条の稲妻が真雪を撃ち貫いた。

「ああ……っあ………っ」
 彼女の中で凄まじい轟音とともに、莫大な記憶があふれだした。
 そこにいるのは………                     



 泣いていたあの時助けてくれたあなた、そっと手を伸ばして私に触れてほしい言葉をどうぞ私だけに、いつか時を重ねてもいくつもの時代が通り過ぎていっても変わらないままそばにいてほしい、交わした約束は永遠に、どこにも行かないで私をひとりにしないでと泣いてすがる私をどうかどうか慰めて、ねえその唇で囁いて、ゆびきりした指を何度も絡ませて、どうすればいいのふたりの想いはどこへいくの、手をつないで逃げようふたりで、誰もいない誰もこないふたりだけの静かな楽園に、たとえ世界を敵に回してもこの想いは譲れない、ねえ何度でも誓って愛を囁いて、私たちを引き裂くだけの明日ならいらない、今だけでいい永遠にこの一瞬だけが永遠、何度も触れ合った唇と唇、絡みあった吐息、触れ合ったぬくもり、その髪、その声、そのまなざし、ふたりだけの希望とささやかな夢と命と、奪われるくらいなら引き裂かれるくらいなら、明日なんていらない。
 明日なんて、いらない。



 大きく背を反らしたまま、真雪の頬を涙が伝った。

 そこにいるのは……、…………。

「呼んだのはあなた……ね」
 視界の端で、小さな光が瞬いた。
「真雪!」
 肩をつかまれ激しく揺さぶられて、真雪はようやく意識を取り戻した。見ればグレンが顔をのぞきこんでいる。
「グレン……」
「こんな縁起でもないところで何を……」
 そこは聖戦跡地の、有刺鉄線の囲いの前。辺りに人はなく、まだ高かったはずの陽は西に傾いている。囲いの中の血のあとは片付けられて、もう誰もいない。
 あれは、夢?
 否、頬を伝う涙……あの声……、夢のはずがない。
 ぼんやりとしたままの真雪に顔を曇らせてグレンが尋ねる。
「……お前、処刑見たのか……?」
 神はすべての生命を愛しているのだと本気で信じている彼女にとって、公開処刑は衝撃的だっただろう。絶対の存在を失うに等しいはずだ。もし、見てしまっていたとしたら。
 グレンの問いかけも聞こえているのかいないのか、真雪は遠くを見つめている。
「『その呼び声のみが呪縛から解き放つ    』……」
 グレンはあの時なんていっただろう。神がすべての生命を愛しているのだと真雪がいったその時に。

 その証拠がどこにあるんだよ、と。

「聖戦記のラストだろ?それくらい俺だって知ってるぜ」
 聖戦記。ミカエルとルシファーの戦いの前後をまとめた書物で、天界・魔界に住まうもので知らないものはないだろうというほどの物語だ。真雪がつぶやいた一節はまさにその最後の文だった。
 つぶやいたきり遠くをみつめ、ぼんやりとしたままの真雪の様子に不審を感じたグレンは、おもむろに彼女の顔をのぞきこんだ。
 ふ……っと、真雪の目がグレンのまなざしと重なった。
 澄んだ瞳   その奥に、不思議な気配を感じてグレンは何か言おうとしたが。
 そっと彼の頬を包む真雪の細い手に気を取られ、その言葉は飲みこまれた。
「まゆ……」
 あたたかな、やわらかい一瞬の笑顔の後で、真雪はグレンにくちづけた。

 そして、そのまま   消えた。
 祝福のくちづけなど、それはいつものこと。
 唇にぬくもりだけを残して、真雪はひとりでどこへ消えてしまったのか。
 グレンはそっと唇に指を当てて、そこに残る気配を探る。それをどこかで感じたことがあるような気がする。

(この気配……そうだ、下界の魂   人間か!)

 まさか、【門】へ……!

 グレンはあわてて【門】へ跳んだ。
 その後に、白い羽がふわりと舞っていた。

「おいで……」
 闇に閉ざされた【門】で、真雪はそっと手を差し伸べた。
 ふわり、ふわりと近寄ってくるふたつの魂   それらはこの【門】で彷徨っていた人間の魂。幾度も彼女の周囲を漂って様子を窺っている。
「そうよ……あの子が私を呼んだの……。大丈夫よ、あの子はちゃんと光の国へ行ったから……」
 つぶやくような、囁くような真雪の言葉に安心したのか否かは分からない。が、ふたつの魂は寄り添って向かうべきところへとふわふわと飛んでいく。
「せめて光の国で倖せに……」
 飛んでいく魂たちへの、それが手向けだった。
 光の国へと旅立つ魂を見送りはすまい。彼らに背を向けたまま、真雪はその場に立ち尽くしている。

 これが……、私にできる精一杯よ……。

 あのちいさな魂に報いることのできる、唯一の方法。
 こぼれそうになる涙を懸命にこらえて、【門】から飛ぼうとした、瞬間。

 ヒョウ……ッ

 一陣の風が吹きぬけた。閉ざされた世界で、それはありえないこと。
 まさか……!?

「『捕縛』!!」
「グレン!!」
【門】に跳びこみざま、飛んでいこうとするふたつの魂に掌をかざし、そこからほとばしった光の網が魂を捕らえた。
 捕らえられた魂たちが苦しげにもがいている。
「やめて、お願い!」
「真雪!! お前、自分のしたこと解ってんのか!?」
 懇願した真雪の肩を強くつかんで、強引に自分の方に向き直させると、グレンは大声で怒鳴りつけた。
「【門】で迷ってる魂なんて地獄行きに決まってるだろ! それを光に導く!? 重罪だぞ!! 昼間の処刑見てただろう!!」
 魂が本来向かうべき処とは異なる道に導く。それはすべての世界の秩序を乱す罪になる。背信に匹敵する重罪だ。
「あなたが……あなたが、私を責めるの?」
 今にも泣きそうな顔で真雪が見つめた。
 グレンにしたって、真雪を責めたい訳ではない。けれど、もし見つかったら……? もし、処刑されるようなことにでもなったら……!
 そう思ったら叫ばずにはいられなかった。
 ひとまず、魂を捕縛したことで『未遂』扱いになるはずだった。それで最悪の事態だけは免れるであろう。だから、どんなに乞われても魂たちを解放するわけにはいかないのだ。
「グレン……」
 魂の解放を懇願するにはどこか様子がおかしい彼女の様子に、グレンがいぶかしんだ時だった。
 純白の羽が、闇の中に佇むふたりの間に降ってきた。
【門】にすでに入っているグレンと真雪の背に、今は翼はない。降ってきたその真白い羽の気配に、覚えがあった。
「つけてやがったな……」
 ふたりが仰いだそこに、武装天使がその手に鞭を持ってゆっくりと降臨してくる。
 体を強張らせ、それでも気丈に睨みつける真雪を見下ろしながら、武装天使が宣告した。
「犯した罪は償わねばなるまい   解っているな……」
 その言葉が、グレンの淡い望みのすべてを打ち砕いた。未遂だろうがそんなことは構いはしないのだ、この神の犬は……!
「真雪!」
 グレンが彼女を強制転移させようとした時には、すでに手遅れだった。武装天使が振るった鞭が真雪の身体に巻きつき、そのまま召し取られてしまった。真雪は抗うでもなく、ただ苦しげにうつむいて目を閉じている。
「捕獲完了」
 満足げに笑むでもなく、武装天使は事務的に告げた。
「協力感謝する。お前にはこの女の処刑の後でなんらかの謝礼をしよう」
 そのまま翼を広げて跳ぼうとする武装天使に、真雪は素直に従った。
「待……っ 真雪!! どうして……!」
 解せなかった。どうしても。
 何故唐突にあのふたつの魂だけを光に導こうとしたのか? それも、我が身の危険も顧みずに?
 微かに振り向いた真雪が、
「似てたの」
「え……?」
「彼女、『深雪(みゆき)』っていうのよ」
 優しいいつもの、けれどどこか寂しげな微笑だけを残して   武装天使ともども、消えてしまった。

 閉ざされた世界にひとり取り残され、グレンは虚ろな思考でそれでも考えた。
 処刑のときに何か見たのだろうか……?
 そして、真雪の言葉が気にかかる。
『あの子が私を呼んだの』
 あの子   それが誰なのか。彼女をここまで突き動かす誰か。
 消える寸前の彼女の笑顔が、先刻のくちづけの後の笑顔に重なる。
 そうだ……あの気配。
 そっと唇に指をあてた。
 あの時の気配   
「真雪……」
 つぶやきが終わる頃には、【門】には誰もいなくなった。

 天界の中央よりやや外れたところに軍の事務所がある。事務所といっても大きな図書館のようなものなのだが、そこの「資料室」の管理をしているのは、グレンと真雪の幼馴染のさつきだった。彼女は軍の制服に身を包んで、資料の整理で残業していた。
「最新の調書?」
 その手を止めてさつきが顔をあげた。
 調書というのは、死者たちの生前の行い、深く人生に関わった人たちのデータなどが記された、いわゆる閻魔帳である。もちろん門外不出の資料であり、部外者の閲覧は固く禁じられている。
「頼む」
 だが、グレンにこうして頼み込まれると、どうしても断れないのだった。
「……仕方ないなぁ……」
 幸い勤務時間外ということもあって、他には誰もいない。さつきからフロッピーを受け取ると、グレンは早速閲覧用のデスクでモニターを睨みつける。
「あんたが調べものなんて珍しいわね」
 作業の手を止めないでさつきが軽口を言った。その間にデータの読み込みが終わり、グレンが探しているデータが見つかったのか、彼の手が止まった。
「……さつき、これはどういう意味だ」
 モニターには個人情報が出るはずだった。が、そこはほとんどが空欄で、名前にいたっては何桁もの数字が並ぶだけだった。
「ああ……それね、水子よ」
 ひょいとモニターを覗きこんで、またすぐに作業に戻る。
「流産とか堕胎とかするとそうやって生没年月日が空欄になって、名前がナンバーになるのよ。生まれてないから罪の犯しようもないし、たいてい光の国直行よ」
 さつきの言葉を聞きつつ、その水子の関連データをあさっていたグレンが、一瞬硬直した。

 そんな、ことって。

「まったく……真雪は広場から急に消えるし、あんたは調べものとか言い出すし。明日は雪でも降るのかしらね」
 ともすれば嫌味に聞こえただろうかと、グレンの顔を窺ったさつきだったが、彼の返答に肩透かしを食らってしまった。
「もしそうなら真雪が喜ぶ」
 そのまなざしがいつもと違っていたことに、果たして気づいただろうか     
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