真空の聲、静謐の旋律
5.
森の中に一歩足を踏み入れ、ミクは天を仰いだ。高く伸びた枝から茂る葉が青空を遮りはしているが、完全に覆い尽くしてしまっている訳ではない。木も密集してはおらず、天頂にある太陽の恵みをある程度は大地にまで届けている。
魔術師がくぽがこの地に聖女ルカを攫ったときに突然現れたという森も、それから200年を経過しているのである。木々の幹は太く、大地には大きく張り出した根や、日差しに恵まれず立ち枯れした木、倒れてなおそこから芽を出す木や草に絡めとられた木、あるいは木々に負けまいと地を這う草 いくら大した広さはない森とはいえ、ここから聖女を探すのは容易ではない。ただ、伝説に聞くような音も光もない閉ざされた森でもなく、おとぎ話に出てくるような鬱蒼とした森でもなく、少なくとも見た限りではごく自然にある森となんら変わるところはない。ミクはそれだけでも少し気が楽になった。
少し進んだところで森の入口を振り返れば、馬車から下りたカイトが沈痛な面持ちでこちらを見守っている。
「カイトさま! いってきます!」
大丈夫だと大きく手を振るが、カイトには見えていないのか、身じろぎひとつせずにミクを見つめている。
(本当に見えないんだ……)
カイトの言葉が甦る。
私には、この剣の先には何ひとつ見えない真の闇だ。つまり君は選ばれし者で、私はそうではない 。
伝説にある聖女を取り戻すために後を追った騎士団は、真の暗闇に閉ざされたのだろう。仲間の無事を確認しようにも声さえ届かないのでは、闇の中での混乱に同志討ちにもなっただろう。その状態では、王も追手を出すことをあきらめるしかなかっただろう。
ミクは腰に佩いた聖剣に触れた。本当に、自分は選ばれたのだと改めて実感する。
君みたいな少女ひとりをこんな危険な森に行かせることには反対だ 。
ついさっきカイトに言われた言葉を思い出して、ミクは耳まで赤くなった。憧れの人にそう言われて嬉しくない者などいない。だが、ミクは確信している。聖女を救出するのに、これ以外の方法はないのだと。
司教は何もひとりぐらい犠牲になっても、などとはきっと思ってはいない。本当にこれしかないのだろう。200年もあれば歴代の司教たちが聖女奪還の方法を研究し、試してこないはずがない。ただ、森の中には入れなかったのか、閉ざされているということを立証するだけで手も足も出なかったのか。いずれにせよ、ただ手をこまねいていただけではないはずだ。
「必ず戻ります! 待っていてください!」
騎士団がするように、ミクはカイトに敬礼をした。
その声は騎士団長には届かなかったはずだ。だが カイトは安心したように、かすかに表情を緩めて馬車へと戻った。これから野営の準備をするのだろう。
ミクは踵を返し、森の奥へと足を踏み出した。
聖剣は抜き身で結界に封じられていたため鞘がなかった。3カ月間ミクが特訓を受けている間に造られたのである。急拵えのため何の飾りもない、聖剣の鞘と言うにはあまりに素っ気ないものであった。ミクは左手を鞘に添え、右手で静かに剣を抜いた。一点の曇りもない刀身に木漏れ日が反射してミクを照らす。何度か角度を変えている内に、じわりと刀身が燐光を放った。鼓動と言うには長めの周期で、しかし脈打つように刀身は燐光を放っている。
聖剣を初めて手にしたときも同じように燐光を放った。そして、ミクの歌声に反応してひときわ強い光を放った。聖剣が放つ脈打つ光は、王宮にいたときよりもその輝きを増している。おそらくは聖女の存在が近くなったからであろう。
この聖剣は聖女の祭器。聖女が聖剣を手に歌うとき、その刀身は眩いばかりに輝いたという。聖女の祭器であるため武器として使用されたことはないが、切れ味は並の剣では到底及ばないものであるという。ただの祭器なのか、それとも何か特別な使い方があるのか、それは司教にもわからないという。ただの祭器だったとしても、剣として使うには問題ないため、ミクは戦闘に役立ちそうな武器は他に持っていない。ただでさえ野宿のための用意などで荷物が多いのに、これ以上増やしても負担が増える一方である。
剣を鞘に収めると、ミクは森の奥へと歩き出した。足元は張り出した根や倒木、蔓延る蔦などで道らしい道はない。転ばないように気をつけながら、また魔術師の気配にも注意しながら、ミクは慎重に歩を進めていった。
森と言うには大した広さではないが、そこを探索するとなると容易ではない。さらに野営することも考慮にいれると、探索の時間は限られている。今日は移動だけで半日かかってしまっており、森の探索は早めに切り上げて明日に備えた方がよさそうだと判断した。ミクは野営できそうな場所を探して森を見渡した。見た限りの情報では何も得るものはなく、入口に背を向け森の奥を目指して歩き始めた。
日が傾いてきたのか、森の中に射し込んでいた木漏れ日も徐々にか細くなり、地を這い絡み合う大木の根に足を取られるようになってきた。ミクはこれまで歩いてきた道なき道を振り返り、天を仰いだ。生い茂る森の木々の隙間から覗く空はすでに青の鮮やかさを失っており、ややくすんだそれになっている。そう時を置かずに茜色に染まることだろう。
来た道はすでに薄暗く、ところによっては夜の支配下にある。行く道も似たようなもので、ミクは大きな溜息をついた。
果たして野営できるような場所は見つかるのだろうか。
食べ物に関しては、3日分の携行食は準備がある。ただ味も素っ気もないものなので、食事らしい食事をしようと思ったら狩りをしなければならない。火は簡単に起こすことができる道具を支給されている。水は必要最小限だが用意がある。
だが横になって眠るスペースだけは現地調達しなければならない。こんな木の根が絡み合い足の踏み場もないような場所ではとても眠れそうにない。
ミクは立ち止まって周囲を見渡した。目を凝らしても耳を澄ましても野営に適した場所の見当などつくはずもなく 盛大に溜息をついて再び歩き出した。
どれだけ進んだのだろう 。ミクはそろそろ灯りがなければ足下を確認するのが困難になってきたため、胸元からペンダントを引っ張りだした。それはこの聖女奪還作戦を命じられたときに司教から渡されたもので、炎の妖精の力を閉じこめた丸い瓶状をしている。大きな炎は出せないが、焚き火などの火を起こすことはできる。約100回程度で使えなくなるそうだが便利で携帯にも邪魔にならないため、旅人にとって必需品である。
ミクは途中で拾ったやや太めの枯れ枝にボロ布を巻き付け、ペンダントの蓋を開けて布のすぐそばで軽く振った。瓶の中で揺らめいていた炎が大きく揺れ、火の粉となってわずかにあふれた。それはボロ布に絡みつき、松明となって周囲を照らす。
夕闇の森にあってはか弱い灯火ではあるが、注意を払えば充分移動可能である。ミクは野営場所を求めて再び歩き始めた。
ごぉぉぉぉ……。
唸り声のような、地鳴りのような不気味な音をミクの耳は聞き逃さなかった。風の音かとも思ったが、松明は揺れていない。松明をかざしながら周囲を窺うが、何の気配もない。
気のせいだろうか 。
まだ日没前だろうが、生い茂る木々に空を遮られた森の中はすでに夜の闇に等しい。息を潜めて耳を澄ます。
ぉおぉぉぉ……。
くぐもった唸り声 呻き声? 確かにそれは聞こえてきた。声は単体。群ではないことに少しだけ安堵し、静かに聖剣を鞘から引き抜いた。白い刀身が聖女に反応しているのか脈打つように輝きを放つ。
息を殺して声の主の気配を探る。まだそれほど近くはないが、確実に、ゆっくりとだがこちらに近づいてきている。
カイトからは対人戦術を、ココネからは森での獣の捕らえ方と戦い方を3ヶ月かけてみっちりと叩き込まれた。ある程度は自信があるものの、実戦はこれが初めてである。こちらの気配を消そうとするのに、まるでこちらの存在を主張するかのように胸の鼓動は早鐘を打つ。
おぉおぉぉ……。
おおおおぉぉ……。
徐々に咆哮にも似た声が近づいてくる。だがどの方角からなのか見当もつかない。後ろ? 前? 否 。
下だ!
ミクのすぐ足下の根が大地の束縛から解かれ、大蛇のように鎌首をもたげた。飛び退けようとしたミクだったがわずかに間に合わず、よろめいてたたらを踏んだ。その瞬間を違わず狙い、鞭となった根はミクの左足首を撃つ。
「あ……っ!」
倒れ込まずに何とか持ちこたえたのは奇跡だった。右足で地を蹴り、転がりながらその場から逃げ出し振り返れば、たった今ミクが離れた場所から3本の槍となった根が突き出していた。
体勢を立て直し、松明をすぐそばの岩に置くと剣を両手で持ち直した。
地鳴りのような唸り声は聞こえない。その場は静まり返り、今起きたことが幻であったかのような風情である。だがミクの左足首はそれが紛れもなく現実であったことを激しく訴えている。全身の神経を研ぎ澄ませ、乱れた呼吸を整える。
……ぉぉぉ……。
聞こえる。だがまだ遠い。
……ぉおおぉぉおお……。
だんだんと確実に、こちらを探るように近づいてくる。
今度はどこから
すぐ、目の前 !!
ごぼり、と鈍い音を立てて、モグラが現れるかのように大地が盛り上がった。しかし明らかにモグラのそれを上回る大きさを予感させ、ミクはそれめがけて剣を振り下ろす。
姿を現すよりも早く、聖剣はそれに深く斬りつけた。まるで大地が裂けるかのような轟音が暗い森を貫き、ミクの身体をビリビリと震わせる。
強い手応えがあった。相手が生命体だとしたら致命傷になっているはずだった。だがそれは動きを鈍らせたものの、地割れのような雄叫びをあげながらも地表に這い出そうとしてくる。
第二撃のために剣を引き抜こうとするが、思ったよりも深く相手に食い込んでいるのか引き抜くのに手こずってしまった。
ミクがようやく剣を引き抜くのとほぼ同時だった。ミクの右足のすぐ横から 急速に成長する蔓性の木か何かかと見間違ったそれは、ミクの右足首に絡みついた。否、掴んだのだ。尋常ではない力で右足首を掴むのは、おそらくは色白の、細い女の腕だった。松明の光を受けて、その腕だけが異様に白く浮かび上がる。
(人!?)
剣を振り下ろすことをためらったミクの前で、腕の本体が姿を現した。
長い金髪、白い肌、右肩にはミクに受けた傷が生々しく細い肩を引き裂いていたが、そこに血が流れた様子はない。土埃にまみれ上半身だけ大地から這い出した女は、地鳴りのような呻き声ではなく、空気を引き裂かんばかりの金切り声を吐き出した。
衝撃波にも似た金切り声に耐え、ミクは間合いを取るべく一歩下がろうとしてよろめきかけた。
左足は思うように動かず、右足は地面から這い出そうとしている女の左手がしっかりと掴んでいる。腰あたりまで露わになった女の左腕にとっさに剣を降り下ろす。
二度目の金切り声と衝撃波に耐え、ミクは数歩飛びずさった。女の左腕は肘の下あたりで分断された。切り落とされた左腕は、まだしっかりと右足首に絡みついている。完全に地表に出て来る前に倒してしまわなければ ミクが三度剣を降り下ろそうとしたときである。
「逃げて!」
やや幼さの残る、だがはっきりとミクに対して放たれた言葉は、遠くからでも鋭くミクの耳に届いた。信じるべきか否か迷ったミクと同様に、不意を突かれたのか金切り声は止み、地面から這い出そうとする動きも止まった。
刹那。
風が吹いたのかと思った。
およそ夕闇の森の中には似つかわしくない、若葉の季節を思わせる風が。
それはミクの正面からやってきた。
対峙する這い出し女を背中から蹴り倒し、そのまま踏みつけると、鮮やかにミクを抱えてその場を走り抜けた。
「え、あ、ちょっと!?」
若葉の風の正体は少年のようだった。ミクよりやや背が低いだろうに、ミクを肩に担いだまま、軽やかに森の中を疾走していく。気がつけば少年の手にはミクが置いておいた松明もしっかり回収されている。元の場所に目をやれば、木々で視界が悪いせいもあるがすでに夕闇の中に溶けてしまっていた。
今のミクにできることは、この少年が敵ではないことを祈ることだけであった。
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