真空の聲、静謐の旋律

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   6.

 駆け抜けた時間はそれほど長くはなかったであろう。森の木々が途切れた場所まで走り抜けると、少年はミクをすぐ近くの岩に座らせて自分もその傍らに腰を下ろした。
「いきなりでごめんね。僕はレン。お姉さんは?」
 松明に照らされる少年は屈託なく微笑んだ。
 ミクは用心深く体重を右足にかけ、いつでも剣を構えられるよう抜き身のままで答えた。
「その前に答えて。あなたは……何者なの?」
 夕闇に閉ざされた森の中を難なく駆け抜け、あの不気味な女にすら臆する様子もない。ましてやここは伝説では音も光も届かない閉ざされた森であり、選ばれた者しか入ることはできないのだ。実際、カイトはこの森には入れなかった。この少年が魔術師の手先でないとどうして言い切れるだろう。
 だが少年は笑顔を崩すことも気分を害した様子もなく、両手を挙げてひらひらとさせる。
「お姉さんの言いたいことは解るよ。でも僕に敵意がないことは信じてほしいかな。その剣をしまってくれないと、お姉さんの足を治療できないよ」
 ミクの左足首は先ほどの大蛇のような根に打たれ、ブーツの上からの攻撃だったため裂傷にこそなってはいないが、痣になっているだろうと想像に難くないほどには痛みと熱を持っていた。正直なところ、レンと名乗った少年に逃げろと言われ、走って逃げられる余裕などなかったのだ。
 改めて少年を見る。
 警戒するミクの返事を待たず、レンは周辺から枯れ枝を拾い集め櫓を作り松明の火を移して焚き火を始めた。
 ちょうど野営に適した、木々が少し開けた場所である。空を見上げればすっかり日は沈み切り、夜の帳の中に星が瞬いていた。焚き火に照らされるレンの横顔は幼さ故か純粋さを浮かび上がらせる。年の頃はミクより2、3年下と言ったところだろうか。金色の髪が揺れる炎に照らされてオレンジ色に燃え上がる。
 ミクの視線に気がついたのか、青い双眸が揺らめく炎に煌めきながら、返事を待つようにじっと見つめる。つぶらな瞳とはこういうことを言うのかと、ミクは一瞬惚けてしまった。返事を催促するでも疑うでもなく首を傾げる様子は、まるで正も邪も知らぬ子猫のようだった。思わず抱き寄せて頭を撫でてしまいたくなるような   
(あれ? 私、何を考えてるの!?)
 場違いな考えを振り払うように頭を振って、ミクは意を決した。
「私はミク。ある人を探しに来たの」
 聖剣を鞘に収めて、大きく深呼吸する。
「レン   だったわよね? あなたはこの森で何をしているの?」
 選ばれなかった、一般の人たちにとっては閉ざされた森。木々の根が蠢き、侵入者を排除しようとする森で、レンはそれを易々と見切った。「それ」が何であるのか知っているかのように。そして何より、旅装束に武装したミクに対し、レンは旅装束ではなく荷物すらない普段着であり、当然武器も何も所持していない。それはどこかからここへ来たのではないことを意味している。
「……ごめん。今は先に左足を見せてくれる?」
 言い淀み、わずかに視線を泳がせてから再び視線をまっすぐミクに向けてきた。明らかな訳ありである少年をどこまで信用するべきか迷ったが、ミクは自分を担いで安全な場所まで逃げてくれた恩に報いようと剣を置いた。
 ブーツを脱ごうとして、手が止まる。思ったよりも足首が腫れていて脱ごうとするとかなりの痛みを伴う。数秒考えてから、思い切ってブーツの爪先部分を引っ張った。
「いったああああああい!!」
 脱いだブーツを放り投げ、両手で左足首を押さえた。揺れる灯りにあっても赤く腫れ上がっているのが解る。熱を帯びているのは焚き火のせいではないはずだ。あまりの痛さにのたうち回りたいくらいだったが、レンの手前、なんとか自制しきった。
 ミクの葛藤を知ってか知らずか、レンは静かに呻き声を必死で噛み殺しているミクの傍らに屈み込み、腫れ上がった左足首にそっと手を触れた。
 儚げな少年の手は柔らかく、圧を感じさせない指はどこかひんやりとしていた。熱を持っている患部に心地よく、ミクは知らず小さく溜息をもらした。
「……熱を持ってるね。包帯になりそうなもの、何か持ってる?」
「包帯っていうか、ただの布ぐらいしかないけど……」
 手拭いの代わりにしたり、松明に巻き付けるなどして火を着けやすくするなど、何にでも使えるように何枚かは布を用意してある。
「じゃあそれを2枚用意して。僕はちょっと薬草を採ってくるから、ここで待ってて。あと松明借りるね」
 焚き火とは別に置いてあった松明を手にすると、レンの小さな身体は森の闇へと吸い込まれるように消えていった。ぽつんとひとりで焚き火の前に取り残されたミクは、再び空を見上げる。先ほど見上げたのと同じく、漆黒の舞台に星の照明が瞬いている。ほんの数十分も経ってはいないだろう。星の位置も変わらない。なのに何故こんなにも   つい先刻には感じなかった心細さを感じるのだろう。
 じんじんと痺れるように熱と痛みを伴う足首にそっと触れる。3ヶ月間剣の稽古に明け暮れた手は、少年の手のように柔らかくはない。否、それ以前も孤児院で掃除や炊事に追われていて、決してきれいと言われるような手ではなかった。それを恥ずかしいと思ったことはなかったが、レンの手と比べて急に恥ずかしくなってしまった。
(男の子なのにあんなきれいな手してるなんて、ずるい……)
 自分で自分の足首に触れながら、なんてがさがさした手なのだろうと思う。どうせなら、彼の手で触れられたい   
(あれ? 何? 私、何考えてるの?)
 混乱して頭を振った。相手が何者なのかも解らないのに、何を考えているのだろう。血迷うにもほどがある。気が動転していたところを助けられたから、何か錯覚しているのだろうと言い聞かせ、揺らめく焚き火を見つめた。
 即席の櫓だがきちんと枝が組まれ、炎は一定の量を保って揺らめいている。よく見れば傍らには継ぎ足し用の枯れ枝も確保されている。本来ミクも森の中での生活の術を学んでいるので同じ技術は持ち合わせているのだが、不自由な足ではこうまで手早く用意することはできなかっただろう。レンが初めからこの場所を知っていたのかどうかは解らないが、結果として野営の場所も確保できた。ミクにとっては助けられる一方である。
 三度、空を見上げると、深まる闇に星が瞬いていた。目が慣れてきたのか星の数が増えたような気がする。
 聖ボカロ王国は人が多いせいか、ここまで澄んだ星空は見えない。吸い込まれそうな星空に、一瞬意識が遠のいた気がした。
「ミク、お待たせ! 足は大丈夫?」
 元気な声が松明の灯りと共に森の闇から現れた。星空まで飛んだ意識が、一気に引き戻される。
「うん、大丈夫……あっごめん布2枚だったっけ!?」
 言われたことを思い出し、慌てて荷物に手を突っ込んでひっかき回す。目当ての物を掴んで引っ張りだした。
「これでいいの?」
 一辺が約30センチの正方形の綿の生成の布を受け取ると、レンは近くの岩の前にしゃがみ込み、ポケットから取り出した草を岩の上に並べた。それを1枚の布でくるみ、両手で強く揉みほぐす。
 その様子を眺めていると、ふと何かが香ってきた。揉みほぐされた薬草の匂いなのだろう。あまり芳しいとは言えない渋い匂いが少し鼻につく。最後に布を開いて何かの実のようなものを潰し、薬草に混ぜる。改めて布に包み込んで、
「足、見せて」
 ミクの腫れた左足首にそっと当てがった。熱を帯びた患部が急速に冷やされる。
 レンはもう一枚の布をたたみ、薬草の湿布を固定するように巻き付ける。
「きつくない? 大丈夫?」
「平気、すごく楽」
 締め付けすぎないように布を結わえると、レンは顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
 自分を見上げて微笑む少年は、あどけなさのせいか、あるいはそんな真っ直ぐな微笑みを向けられたことがなかったせいだろうか、とても可愛く   愛しく見えた。
「この森ね、薬草が結構生えてるんだ。多分明日の朝には腫れも引いてると思うよ」
「……詳しいのね」
 この森のことに。
 暗にそう言われたことに気づかないほど、少年は幼くはなかったらしい。一瞬言葉を詰まらせ、
「……うん。そうだね。でも……ごめん、自分でも何て言えばいいのか……どう言えば信じてもらえるのかわからないけど……」
 言い淀んでうつむいた。
 今度はミクが返事を待つ番だ。促すでもなく、責めるでもなく。沈黙ではなく、ただ静かにレンの言葉が紡がれるのを待っている。
 彼が自分を欺こうとしたり、陥れようとしている訳ではないことだけは解る。根拠などない。ただの直感だ。それで裏切られるというのなら、いっそ見事だと笑って見せよう。
 顔を上げミクを見つめるレンの表情は苦渋に満ちていた。愛らしい少年の顔立ちが、苦しそうに歪んでいる。そんな表情をさせてしまうくらいなら、何も訊かなかったことにしてしまいたくなるほどの、それなのに苦悶の表情は陰を帯びてどこか艶めかしい。
「多分、ずいぶん前からこの森にはいると思うんだけど   記憶がないんだ。昨日までの記憶が」
 レンが吐き出した言葉が、うまく飲み込めない。何を言っているのだろうかと、聞いたばかりの言葉を反芻する。ミクのそんな様子を見て、レンは時に舌をもつれさせながら続けた。
「昨日まで森にいたっていう記憶はあるんだ。でも、何をしていたのか思い出せない。どの植物が使えるのかとか、そういう知識は覚えてるくせに……たとえば、そうだね。そもそもどうして森にいるのかはわからない。冗談じゃなくて、昨日何を食べたのか本当にさっぱりわからないんだ」
 ミクの目をまっすぐ見つめたかと思えば、うなだれて頭を両手で抱えながら、レンはたどたどしく説明した。
「どのタイミングで記憶が消えるのかはわからないけど、きっと眠るか夜が明けるとどうにかなっちゃうんだと思う。確実に思い出せるのは今朝のことだから」
 顔を上げ、あきらめたように笑って見せたレンの笑顔が痛々しい。
 レンの言葉から推測するなら、自分の行動や思考の記憶は消えるが、純粋な知識は記憶として継承されるということだ。
「どうしてそんな……何とかならないの?」
「何とかしたいけど、どうしていいかもわからないよ。見ての通り何も持ってないし、名前以外の自分の手がかりも何もない。また記憶が消えたときに今日のことを思い出す手がかりになるかと思って」
 ポケットから小さな石を取り出す。丸くて白いきれいな石だ。ところどころキラキラと輝いている。
「石を拾ったんだけどね。でも、記憶が消えたら何で石を持ってたのかも思い出せないかもしれない。もしかしたら前にも同じことをしてるかもしれないし」
 手のひらで白い石を転がしながら、レンは自嘲気味に笑った。
「じゃあ、こういうのはどう?」
 ミクはポケットからハンカチを取り出した。布なら何枚か持ってきているのに、いつものくせでポケットに入れたものだ。白い折り柄の入った綿のハンカチで、青い糸でミクの名前が刺繍されている。
 レンの手から石を受け取り、ハンカチに包んで、飾り折りをした。それをレンの手に戻す。
「これなら何か思い出せるかもよ?」
 ただの石では思い出せなくても、ミクの名前入りのハンカチがポケットに入っていれば、もしかしたら思い出せるかもしれない。
「うん……ありがとう」
 レンは穏やかに微笑むと、ハンカチの形ができるだけ崩れないように折り畳んでポケットにしまいこんだ。
「ねえ、明日の朝まで一緒にいたら……どうなるの? 私のことも忘れてるの?」
 おそるおそる訪ねるミクに、レンが一瞬きょとんとする。
「さあ、どうなんだろうね。あれ、僕一緒にいていいの?」
「あの、別に無理にとは言わないから、嫌なら別に気にしないでっ別に私は気にしないから!」
 明らかに動揺して不自然な言い回しをしていることに気づいているのかいないのか、ミクがわたわたと両手を振り回す。小さく吹き出したレンに、ミクは両手で膝を抱えて縮こまる。
「夜、心細いし……。一緒にいてくれたら心強いかなって……」
 ミクの顔が赤いのは、焚き火に照らされているからだろうか。
「きれいなお姉さんと一緒にいられて嫌な男なんていないよ」
 顔が火照るのは絶対に焚き火のせいだと決めつけて、ミクは冷えた両手で頬を覆った。それからふと思い出した。
「お腹すいてない?」
 きゅうん、とミクのお腹が鳴った。

 すでに暗くなってしまっているため、夕食は携帯食となった。レンは空腹ではないといい、湧き水を探し出してミクの水筒に水を汲んできてくれた。レンに聞けば近くに小さな泉があるという。またもう少し森の奥に行けばウサギなどもいるとのことなので、明日の朝食はうまくいけば肉を食べられるだろう。
 食事も終えて、なるべく石などが落ちていない草の生えた場所を選び、ふたりは並んで横になった。
「ミクが探してる人ってどんな人?」
 この少年はどこまでこの森のことを把握しているのだろう。ミクはしばらく考えてから、
「レンは森の中で誰にも会わなかったの?」
 この森は大した広さはない。レンが今日森で誰かと遭遇していても不思議ではないのだが。
「覚えてる限りではミク以外には会わなかったかなあ。この森に住んでる人なの?」
「昔からこの森にいるって聞いたんだけど……」
「ふうん? 今日歩いた限りでは人が住んでる気配はなかったと思うよ。森の中に住むなんて、ずいぶん引きこもりを極めちゃった人なんだね」
 レンの言い種がおかしくて、つい小さく吹き出してしまった。その拍子に足が動いたのか、左足首が微かに痛んだ。レンのおかげでだいぶ痛みは収まったものの、動かすと鋭い痛みが走る。
「レン、あれは   人じゃないの?」
 ミクが左足首を痛める原因となった戦い。最終的にはレンがミクを連れて逃げ出したため、相手が何者だったのかさえ解らない。
 地中から這い出してきたあの女は、いったい   
「あれが何なのか、知ってるのね」
 レンの表情が強ばったのを見て、ミクは確信した。過去にも少年はあれに遭遇したことがあり、記憶ではなく、知識として継承しているのだ。
「詳しくはわからないけど」
 ミクの眼差しを受けて、レンが語る。
「ああやって木の根を操るけど、僕には攻撃してこなかったよ。前に話しかけてみたんだけど、意志の疎通はできなかったんだ」
「いつも同じところにいるの? あれの仲間とかいるの?」
「何度か見た気がするけど、それが同じ奴だったのか仲間だったのかまではわかんないや。ごめん」
 しゅんとするレンを見て、ミクはあわてて首を横に振った。
「ううん、こっちこそレンの事情を聞いてたのに質問攻めにしたりしてごめんね」
 パチパチと薪が焼ける音を沈黙が包み込む。幾ばくかの沈黙をやり過ごして、レンが先に口を開いた。
「ミクが探してる人ってさ、どんな人なの?」
 地中から女が這い出してくるような森の中に住んでしまう引きこもりの達人に対する純粋な興味だったのだろう。どこまで話してよいものやら、と考えてから、ミクは相手の顔も知らないことを思い出す。手がかりは聖剣の反応だけなのだ。
「とても歌が上手な人よ」
 魔術師のことはなんとなく伏せた。もし翌朝には記憶が消えてしまうというのなら、ここで心配をかける必要はない。ミクとしてもこの3ヶ月間、ずっと息が詰まるような特訓の日々だった。今夜くらいどうでもいいような、日常の会話をしていたい。
「私ね、歌が好きなの。楽器とかはできないけど、歌はちょっぴり自信があるのよ」
「へえ、じゃあその人に教えてもらいに来たの?」
「教えてもらえたら嬉しいけどね」
 聖女と崇められた歌姫である。もしその歌声を聞けるのであれば僥倖だが、おそらくは難しい話だろう。ただ、自分が聖女ルカに歌を習う姿を想像して、ミクは微笑んだ。
「ねえ、何か歌ってよ!」
 レンが半身を起こして顔を輝かせる。
「ミクの歌、聞いてみたい!」
「えっと、え? 歌うの?」
 伴奏もなしに……と言いかけて、レンの瞳の輝きに押され、ミクはその言葉を飲み込んだ。続けて何の歌がいいかを尋ねようとして、再度その言葉を飲み込んだ。記憶を維持できない少年が歌を知らない可能性があったからだ。
「じゃあ……」
 ミクは身体を起こして近くの岩に腰掛けた。いくつかの歌の詞を思い浮かべて、やがてひとつの歌を選んだ。
 それは聖歌祭で歌ったのとは違う、街に訪れた吟遊詩人が歌う切ない恋の歌だった。

    君がくれた優しさも
    壊れそうな切なさも
    忘れはしないから……
    <この夜が終わる前に>

 歌い終えたミクはほうと息をついて、舞台の上でそうしたようにお辞儀をした。ミクが顔を上げると、レンは膝を抱えて口を半分開けたままの状態で硬直していた。ミクのお辞儀に気づいているかどうかも怪しい。
「あの……どうだった?」
 練習の時は感想や指導が、舞台で歌うときには必ず拍手が付き物だった。こんな風に無反応であることは初めてで、ミクは緊張と不安で身を強ばらせる。
「レンー? 聞こえてるー?」
 すぐ目の前で手を振られ、ようやくそこでレンは我に戻った。そして、
「すごい! ミクってすごいんだね!!」
 目に星を輝かせ、尊敬の眼差しでミクを見つめながら、彼女の両手を自分の両手で包み込んだ。
「歌ってこんなに感動できるんだね! あんまり聞き入りすぎて意識が戻ってこないかと思ったよ」
 こんなに純粋に、まっすぐ感動を訴えられることなど今までにあっただろうか。レンはあふれる感動を持て余すかのように、握ったままのミクの両手をぶんぶんと振り回す。
「あーもう、なんていうの? この感動を言葉に表現できない自分の語彙量のなさに絶望するね。どうして今聴いてたのが僕だけなんだろう? いいの? 独り占めしちゃっていいの!?」
「独り占めでいいの」
 花も霞むようなレンの笑顔を前に、ミクは振り回される両手の動きを止めて、
「レンのために歌ったんだから」
 そっと抱きしめた。
 忘れはしないから。
 祈りをこめて、歌った。たったひとりのためだけに。
「うん……ありがとう、ミク……」
 今にも泣き出しそうな星空に、囁くほどの声が吸い込まれていった。
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