真空の聲、静謐の旋律
β16.
ミクはカイトと共に王国に戻り、国王・王妃・司教・騎士団長の前で報告した。
魔術師が聖女を連れ去ることになった理由。
禁を犯した神官、聖女の結界と森の出現。
聖剣を携えて聖女を連れ戻すために旅立った者たちの末路、聖女の変異。
ミクの話を最後まで聞き届け 誰もが沈黙した。
聖女は戻らなかった。
今まで教会が差し向けた歌姫の実力を持つ者たちに課してしまった運命は、その場にいる全員の言葉を奪うのに充分だった。
司教もまた先代の司教から伝えられた話との齟齬に困惑を隠せない。
ひとつだけわかることは、聖女は永遠に戻らないということだった。
重い沈黙を破ったのは国王だった。
ミクに褒美を取らせるべきだと。そしてかつての聖女のように、大聖堂で歌って欲しいと 。
ミクはその申し出を断った。聖女は聖ボカロ王国で歌を志すすべての者にとっての憧れである。その聖女のように大聖堂で歌うというのはこの上ない栄誉だった。
だがミクは、歌唱隊として歌うことは構わないが聖女の代わりにはなれないと断った。
その場にいる誰もが残念がったが、ミクはある決意をしていた。代わりに、小さくてもいいから自宅を持ちたいと願い出た。ミクは孤児院に住んでいる。場所はどこでも構わないので、住居が欲しいと訴えた。
ミクの願いは聞き届けられ、孤児院から少し離れた場所にある小振りの2階建ての住居を与えられた。名目としては、北の国への3カ月間慰問団に参加し国交樹立に貢献したため、となっている。ミクは大聖堂で歌い、孤児院で皆と一緒に食事をし、自宅に帰るという生活を送っていた。
それから一年が過ぎた。
時折ミクはカイトに融通を利かせてもらって馬を借り、森へ出かけていた。聖女に花を捧げたいと言われればカイトに断る理由はない。ミクは籠の中に花が傷つかないように入れて、馬を走らせた。
荷馬車で出かけたときは半日かかった距離も、単騎で駆ける分にはそれほどにはかからない。ミクは森の入口に馬を停まらせると、籠を持って森へと入った。
最初に訪れたときは右も左も解らず、また何が起きるか警戒しながらだったためにとても広く感じられた森だが、もともとそれほど広くもなく、慣れたミクは目的地までさほど時間をかけずにたどりつくことができた。
少し森が開けた場所に、3mほど地面が隆起した場所がある。その前に 彼はいた。
「来たのか」
「……今日は元気そうね」
藤色の長い髪を高くひとつに結わえた長身の男がミクを振り返った。足元にピンク色の花が咲いている。
「お前も飽きぬ奴だ。何が面白くてこんなところに来るんだ」
かすかに微笑むがくぽにもう悲愴感はない。ミクはがくぽの足元に咲く花の前に、持ってきた白い一輪の花を置く。
「聖女の魂に逢いに……?」
自分で言いながらミクは首を傾げ、がくぽを見上げた。
「レンがね、言ってたの。聖女に歌をならいにきたの? って。もしルカ様に教えてもらえるなら……どうすれば人の心を癒せるように歌えますかって、聞きたかった」
聖女の歌声に癒されぬ者はいなかったという。もしミクの歌声にそんな力があったらがくぽの心を癒せただろうかと、ミクはいつも思っていた。
ミクが癒したいのはがくぽではないかもしれない。彼の中にある、ミクと同じ痛みかもしれない。もしそれを癒せたら、自分の心の中にある辛さも癒せるのかもしれない。
「お前は歌で誰かを癒したいと思うのか」
「私は歌うことしかできないから……それで誰かを癒せたらいいなあって思う」
「……そうか」
がくぽは足元の花に目をやってから、ミクに歩み寄った。
「え、あ、ちょっと!?」
唐突にがくぽにひょいと抱きあげられて、ミクが声を裏返す。
「何だ、まだお前を抱える男はいないのか」
「ほっといてよ! だいたい一言くらい断りなさいよ!」
「うるさい、少し黙れ」
いつの日かと同じように身体がゆっくりと浮き上がる。あのとき、隆起した大地の上には聖女がいた。今はもう何もないその場所に降り立つと、がくぽはミクを下ろして眼下を見渡す。
「……あれからもう一年になるのか」
藤色の髪が風に揺れる。
「昨日のことのように思い出せるのに……」
聖女が穿った大地は窪んだままでそこに草が生えていた。折れた木はそこから枝を伸ばして成長を続けている。鮮明に思い出せるほどに胸に焼き付いているのに、無情に季節は変わり続け 生命は芽吹き、大地は美しいままだ。聖女を失ったとき、がくぽの世界は色を失い音は消えた。永遠に時は凍てついたかのように感じた。がくぽを置き去りにしたまま世界は廻り時は流れ がくぽは己の殻の中にこもり続けた。
あの絶望の時から約一ヶ月後、聖女が消えたその場所にうずくまるがくぽの元へミクがやってきた。ミクが声をかけても何の応えもない。ミクは持っていた白い花を捧げてあの日の歌を歌った。
翌月もミクはやってきた。がくぽに声をかける。反応はない。花を捧げて歌う。その繰り返しだった。
あるときミクは花の苗を植えた。このときもがくぽは反応しなかったが、きちんと水をやってほしいとだけ告げた。育てやすいが乾燥が大敵の花だった。それが花を咲かせたのは、がくぽがきちんと水をやったからである。一輪だけだったピンクの花は手入れが良かったのかその数を増やしていた。
「花は美しいな」
聖女の髪の色に似た花が青春の歓びと悲しみを歌うように咲いている。
「あのとき、俺は何も見えなかった。聞こえなかった。ルカは俺にとっての太陽で、世界で すべてだった。ルカが俺の手をすりぬけて行ったとき、俺の心は永遠の闇に閉ざされた。後悔と絶望と終わりのない悲しみを重ねて……。それなのに世界は廻る。俺とルカを護るための森は俺さえも置き去りにして時を紡いでいく。俺の時間だけが止まったままだ」
自嘲するようにがくぽが笑った。その表情を見るのも久し振りだ。横顔を見つめるミクの前で、がくぽは高く結わえた髪を下ろした。長い髪が長身の彼の腰まで覆う。
「歌で誰かを癒したいと言ったな。ならば 少なくとも、俺には届いた。閉ざされた闇の中にいた俺の心に、お前の歌声は光となって届いた。まるで流れ星のようにな」
「流れ星じゃ一瞬だなあ」
「そうだな。だから追いかけてみたくなった。あの星が流れ着く先はどこにあるのかと」
言葉の意味を掴みかねたミクに、がくぽは視線を空へ移した。
「ルカの最期を思い出した。あんなにも苦しい200年だったのにな。思い出すのはルカの笑顔ばかりで……最後まで、笑顔だった」
ミクの位置からルカの表情は見えなかった。彼女が最期にがくぽに見せたのは、花さえ霞むほどの笑顔だった。ルカを失った絶望の闇の中で、ミクの歌声は彼の中に埋もれてしまっていたルカの笑顔に光を当てた。ひとつひとつが小さな光でも、数えきれないほどの小さな光はやがて集約され、眩しいほどにがくぽの心を照らしていった。そうして思い出したのだ。ルカと過ごした大切な思い出の日々、彼女の笑顔、優しさ、愛しさも何もかも。闇の中で見失いかけていた大切なものを取り戻したのだ。
「お前が歌わなければ、俺は思い出すこともなかった。ルカの笑顔も忘れたままだった。俺の世界は止まったままだった。俺はお前のおかげでようやく新しい世界に歩き出せる」
向き直り、がくぽは自分を見上げるミクを見つめた。目を瞬かせるミクの目の前で、がくぽは藤色の長い髪を手でまとめた。それを無造作に刀で切り落とす。
「この森は俺とルカを護るための 時間と空間を切り取るためのものだった。だがもう必要ない」
髪が藤色の風となって宙を舞う。しばらくその様子を見つめ がくぽは刀を地に突き立てた。
ミクの足下で大地が揺れた。
轟音を立て、木々も激しく揺れる。まともに立っていられない。倒れそうになるミクをがくぽが支える。
地煙をあげながら、隆起した大地が沈んでいた。同時に周囲の森は時間を巻き戻したかのように急速に小さくなっていく。枝が短くなり、幹は細り、葉が消えていく。やがては芽に、最後には荒れた大地へと戻っていく。隆起していた大地は元の場所に収まったのだろう、それまでの地面と同じ高さになる。
見る間に周囲は荒野へと戻った。ただぽつんとピンク色の花が咲いているだけの、何もない場所となった。森の外に停めていた馬が驚いて暴れているのが見える。
大地の揺れは収まっていた。がくぽは大地に突き刺した刀を収めて周囲を見渡すが、見渡す限りの荒野で何もない。
「さて、これからどうしたものかな。きれいさっぱり何もないのは俺も同じか」
肩の力が抜けたように、がくぽは笑った。彼は戻ってきたのだ。昏く深い闇の底から、太陽が照らす大地へと。
「ねえ!」
ミクががくぽの腕を掴んだ。不意を突かれたがくぽが一瞬よろめきそうになる。
「どうした」
「お願いがあるの! 私に魔術を教えて!」
思いも寄らぬミクの言葉に、がくぽが言葉に詰まった。お願いしますと必死に頭を下げるミクに、腕を組んで思案する。
「魔術を覚えてどうする気だ」
「作りたいものがあるの」
「作りたいもの?」
「私も使ってたけど、魔術を使った着火具とか、あれ元はあなたが作ったものでしょう? ああいう魔術を使った道具を作りたいの」
「……200年経って魔術師への偏見が薄れたとも思えんが?」
「それは……わからない。今は魔術師を名乗る人はいないから……。でもどうしても作りたいものがあるの。お願い、私を弟子にして下さい!」
このまま土下座でもしそうな勢いのミクを前に、がくぽはどうしたものかとため息をついた。
「まったく……本当にお前はたいしたものだな」
どこまでこちらの期待を裏切れば気が済むというのか。
ミクは下げたままの頭をなでられ、驚いて顔を上げた。そこにがくぽの不敵な笑顔がある。肩の高さで無造作に切られた髪が風に揺れて、どこか彼を幼く見せる。
「言っておくが、魔術は簡単なものではないぞ。覚悟はいいか?」
「はい!」
ミクの弾けるような笑顔に、がくぽは目を細めた。
この流れ星を追いかけたその先には、いったい何があるのだろう。それを追いかけてみるのも悪くない 。
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