真空の聲、静謐の旋律

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   β:初夜7

 カルは洗い終えたシーツと寝衣をたたんで脱衣所の籠に入れると、湯船に浸かっているミクの隣に腰を下ろした。
「はぁ〜。で? あんたはマリイさんの元カノが気になって仕方ないと」
 洗濯で冷えた指先が湯船の中でじんわりと温まっていくのを感じながら、カルはため息混じりに隣でうつむくミクを眺める。
「気になってっていうか……比べちゃうっていうか、比べられてるんじゃないかなあっていう気がするっていうか……」
「『私は元カノの代わりなの?』……でしょ?」
 一切の妥協を許さない強い口調でカルに言い切られ、ミクはいよいよ黙ってうつむいてしまう。
「代わりでいいじゃん? そのうちに代わりじゃなくなるよ。だって今一緒にいるのはミクだもん。いつまでも死んだ女の面影にしがみついていられるほど、男もバカじゃないと思うよ」
 軽い口調でカルは言うが、彼女はすべてを知っている訳ではない。
 真実を話す訳にもいかず、ミクはこう説明した。
 マリイには身分違いの恋人がいた。愛し合ってはいたが互いの手を取ることは許される状況ではなく、結局恋人はマリイの目の前で死んでしまった。傷心の旅路の果てにたどり着いたこの国でミクと出会い、今に至る  と。
 これだけなら「いつまでも死んだ女の面影にしがみついていられるほど」バカではないだろうと言えるだろうが、実際にはがくぽは触れることさえ叶わない相手に二百年も想いを捧げ続けたのだ。
 カルの言葉はミクを励ますにはあまりにも軽すぎた。ミクはただ黙って頷くだけである。
「不完全燃焼の恋は美化されていつまでもきれいな思い出のままだっつーけどさ、思い出で食っていける訳じゃないじゃん? 一緒に暮らしてて、仕事もして、ミクにゃんこんなにかわいいのにさ? 男だったらあんたに傾かない訳ないよ。心配いらないって」
「でも……私、なんか面倒くさいし……」
「えー?」
「……言っちゃったんだよね……。その、元カノ? のこと……」
「あー……」
「で、謝ったんだけど、今度はマリイが相手のことをちょっと悪く言ったのね。なんかすごい悲しくなって、相手のこと庇ったりしたし……」
「混乱するわ。庇う必要ないし」
「でもさー……。悲しいんだもん、そんなに好きだった相手のことなのに、悪く言われたら……。なんかそのとき好きだった気持ちも否定してるみたいで……」
「いいじゃん別に。気持ちなんて変わるもんでしょ」
「変わるけど、そのときの気持ちは変わらないでしょ? もし本当にマリイが私のこと好きでいてくれてるなら、いつか今を振り返ったときに好きだった気持ちを否定されたら悲しいから……」
 心から悲しそうな顔をするミクに、カルは大きなため息をついてミクの両肩をがしっと掴んだ。
「ミクにゃんは真面目ないい子ちゃんですにゃー。あんたそんないつもいい子チャンな訳? そんなんじゃ疲れちゃうよ。あんたたち恋人でしょ? もっとわがまま言えばいいじゃん、甘えればいいじゃん? なんなの? なんでそんな距離があるの?」
「ふぇ……」
「泣かないの。あんたら寝た仲でしょ? 何なのそれ? 意味わかんない」
「ね……寝たって……」
 湯船で温まって赤くなっていた顔がさらに赤くなる。
「ほうほうかわいいなあ、ミク! 昨晩はお楽しみだったんでしょう〜? こーゆうこと、いっぱいしたんでしょう〜?」
「痛い痛い痛いー!! そんな強く掴まれたりしてないもん、もっと優しく……」
「……ほぉぉぉぉ。そうかそうか、ミクにゃんは優しくされるのが好きなのかにゃ?」
「は!?」
「こーんな感じ〜?」
「ちょっと、えっ、なに、やめ、カルなにするの、ねえちょっとやめてってばぁ!」
「やばいミクかわいい。これで堕ちない男がいるならもうそいつ病気だわ。断言する。マリイさん絶対あんたにメロメロだから」
「へっ? さっきから何言ってるのよ……。もう、髪洗うの手伝ってよ」
 のぼせそうになってきたミクが立ち上がって湯船から出て腰掛けに座る。結い上げていた髪をほどこうとして両腕を上げたとき、唐突に後ろから抱きしめられて小さく悲鳴を上げる。
「えっ、なに!?」
「湯上がり肌のうなじが色っぽいですにゃあ」
「湯上がってないよ! これから髪を洗うんだから離し……え? カル、ちょっといい加減に……、きゃああっ」
「あああかわいいい。やっぱりミクかわいいいい!」
「離し、離してったら! もう、あ、バカぁっ」
「ねえねえ、昨日はどんなふうにしてもらったの? おねーさんにお・し・え・て?」
「おねーさんて年違わない……」
「言うこと聞かないとおしおきするよ?」
「だからいい加減に……、……っ、ひゃん!?」
「情熱的な夜を思い出して感じちゃったかなあ? あーもうかわいいなあ、私なんで男じゃなかったんだろう」
 ミクをいじり倒す手を止めることなくカルがため息をつく。
「な、なにを物騒なこと言ってるの!?」
「私が男だったら絶対ミクを泣かさないー! あんな奴に負けないのにー! ついでに言うともっとミクを気持ちよくさしてあげられる自信がある!」
「何を張り合ってるの!?」
 中途半端にほどいた髪をぐちゃぐちゃにして、ミクは泣き出しそうな顔でカルを睨みつける。
「だからねー?」
 きっと悪魔がいたらこんな笑顔で囁くんだろうという顔で、カルがニヤリと笑ってミクの耳元で囁いた。
「男なんて単純なんだよ。抱けなかった女より抱いた女の方が絶対いいって。で、気持ちよかったら尚更だよ? 元カノなんか忘れるくらいにあんたが気持ちよくさせてやればいい話でしょー?」
「私が……、」
「そうそう。で、真面目なミクにゃんでは攻略が難しいだろうと思われますので、不肖ながら私めが攻略法を伝授いたします」
 親切なのか単に面白がっているだけなのか。
 1:9くらいの割合で後者が勝っている確信があったが、心の隙をついた悪魔の囁きは簡単に純粋な少女を籠絡した。ミクがおそるおそる頷くのを見て、カルは役得とばかりにニヤリとしたのだった。



 夕食前にミクが畳んだ洗濯物を籠に入れて階段を下りていると、食堂の方から賑やかな声が聞こえてきた。つられてそちらに足を向けてみれば、がくぽが椅子に腰掛けてフィドルを奏でている。ちょうど今曲が始まったところらしい。
 開かれた扉の前で立ち止まり、ミクは子供たちに囲まれて歌うがくぽを見つめた。こんなふうに吟遊詩人マリイとして歌うがくぽを見るのは初めてかもしれない。いつも彼が吟遊詩人として振る舞うとき、その隣にミクがいた。マリイとして歌うこともあるがメインはあくまでミクであり、彼はコーラスが主であった。
(ああ……そうだ……、この歌声だ……)
 がくぽが歌ったのは童謡だった。習う訳でもないのに知らない間に子供たちが覚えているような、けれど大人になったら歌わなくなるような歌だ。
 愛を歌った訳でもない。心がちぎれそうな寂しさを歌った訳でもない。
 そこに花が咲き、風が吹き、鳥が舞う。そんな歌だ。どこにでもある風景を描写しただけの素朴な歌なのに、どうしてこんなにも胸が切なくなるのだろう。
 あの日  森の中で初めて聴いたがくぽの歌声を思い出す。心に傷を負っていることを思い出させるような、それでいてその傷を昇華させてくれるような、そんな歌声だ。
 旋律だって童謡のものだ。切なくなる要素などどこにもない。それなのにがくぽの声は、それだけで涙が出そうなほどに聴く者を切なくさせる。
 短い童謡を歌い終えると、呆けたように聴いていた子供たちがわあっと我に返ったように大喜びで拍手をした。聴いていた大人たちは時折小さく鼻を啜りながら温かい拍手を贈る。
「ミク」
 食堂の入り口の前で立ち尽くすミクに気がついて、がくぽが軽く手を振った。ミクも手を振り返したが、子供たちに次の曲をせがまれる姿を見て、
「これ片づけてくるから、もうちょっと待ってて!」
 微笑みながら食堂を後にした。子供たちに囲まれてまんざらでもなさそうにリクエストを受け付けているがくぽが、意外にも優しいお父さんになるような気がして  ミクはそんなことを考えている自分に可笑しくなって小さく噴いた。
(がくぽがお父さんかぁ……)
 ミクは口元を綻ばせたまま食堂を後にしたのだった。

 がくぽが3曲目を歌い終わった頃、カルがひょいと食堂に顔を出した。
「ごめーんマリイさん、ちょっと手伝ってもらってもいい?」
「……私でよければ」
 なんとなく微妙な気分になりながらもフィドルを置いて立ち上がると、食堂の入り口で手招きするカルのところへ歩み寄る。
「悪いねー、こっちこっち」
「……?」
 手伝いを頼むなら勝手が利かない自分よりも他に頼んだ方がいいのではないかと訝しみつつ、がくぽはカルについて行こうとした。
「あれ? ふたりしてどこ行くの? もうすぐご飯だよ?」
 背後から聞こえたミクの声に振り向くが、
「あー、ごめん、ちょっとマリイさん借りるわ。ミクは食堂の手伝いお願い」
「ん? うん、わかった」
 返事をする暇も与えずカルが強引にがくぽの腕を引いて廊下を進んでいく。特に何の疑いも持たずにミクは食堂へ入り、がくぽは仕方ないとばかりにカルの後に続いた。
 二階へと上がり奥の部屋に入ると、夕日が射し込む部屋で子供用ベッドに赤子がすやすやと寝息を立てていた。
「さっき洗濯したら腕が痛くってさ、この子ちょっと重くなってきてて今抱えるの大変なのよ。で、悪いけど食堂まで連れてってもらってもいい?」
「……私よりも子供の扱いに慣れた人の方がいいんじゃないかな」
「あーそれはねー。そう思うんだけどさー」
 赤子のそばに屈みながら、小声で話していたのをさらに声を潜めてカルが続ける。
「マリイさんてさ、ミクのことどれだけ知ってんの?」
 初対面の軽い雰囲気を微塵も感じさせない、ひどく張りつめた紅い瞳ががくぽをまっすぐに見上げていた。
「あの子の髪、すごい長いでしょ? あれなんであんなに伸ばしてるか知ってる?」
 がくぽはそれに答えられず、ただ沈黙で応えるしかない。
「ここにいる子供たちはたいてい親に捨てられるとかなんだけど、あの子の場合はちょっと変わってて、父親が孤児院に預けに来たんだって。行かなきゃならないところがあるからってさ。泣く泣くあの子を置いてったぽいけど、そのときに髪を褒めたんだって」
「……」
「だから……あの子、髪を切ろうとしないんだ。さすがに毛先が傷めば多少は切るけどね。あの長さじゃ50センチ切ったってあんまり変わらないよねえ」
 カルが赤子の頬をぷにぷにとつつきながら小さく笑った。
「ねえ、あんたご両親はご健在?」
「……まあ、それなりに」
 事実を説明することもできず、がくぽは適当に濁した。大して興味もなさそうに、カルはそう、とだけ呟いた。
「ここにいるのはみんな、親に愛されなくて、下手したら親の顔も知らないような子ばっかりでさ。だから誰かに愛されたくて必死なんだよね。大人になったら出てく人が多いけど、どこでも重宝されるよ。そりゃそうだよね。人の顔色窺うことと空気読むことにかけては子供の頃から慣れてるもん。なんつーの、どこに行っても優等生のいい子チャン?」
「……君は」
「自分の居場所を確保するのに必死なの、うちら。誰かに必要だって言ってほしいんだよ。そのためだったらいくらでも自分の魂なんか迷うことなく切り売りできるよ。そうすることが当たり前だった。無償で自分の居場所を手に入れることなんてできないって、身を持って知ってるんだもん。無償の愛なんて夢見てられるほど、余裕ないんだよね。うんざりするほど現実を突きつけられてきたからさ。あんたに解る? あたしらの気持ちとか状況とか」
 紅い瞳が焼き尽くすようにがくぽを睨めつけた。沈黙で応えたがくぽに反し、ふたりの間に走る緊張を感じ取ったのか眠っていた赤子がぐずり始める。
「それは……」
「あたしがあんたに訊きたいのは、あんたはミクにずっと居場所を提供し続けられるのかってことだよ!」
 声を荒げてカルが立ち上がった。自分より長身のがくぽを見上げて、怯むことなく藤色の瞳をまっすぐ見つめる。
「あたしたちは……、自分の居場所を確保するために自分を犠牲にすることは厭わない。それは代償だと思ってる。でも、代償の分はきっちり保証してもらわなきゃ、あたしら報われないじゃん!? ミクがあんたに代償を払ってでも手に入れたいと思ってる居場所なら、ちゃんと居場所を提供し続けてほしいんだよ! ミクが安心して、ここに居ていいんだって思える場所に、あんたなれるの!?」
 カルの激情に刺激され、ぐずっていた赤子が弾けるように泣き出した。ふたりの視線の間に飛び散る火花を消そうとするかのように、大きな声を上げて両手を伸ばしてわめき散らす。
 灼熱の瞳を振り切るように小さくため息をついて、がくぽは赤子のベッドの脇に歩み寄った。泣きわめく赤子を両手で静かに抱き上げて、慣れない手つきであやすようにそっと揺らす。
「君は怖いね」
 赤子をあやしながらがくぽが呟く。
「……は?」
「まるで抜き身の刃のようだよ。研ぎすまされすぎて、斬りつけたらすぐ刃こぼれしそうな  
「何が言いたいの? 言いたいことがあるならはっきり……」
 赤子がひときわ大きな声をあげたため、カルはそこで言葉を切った。こちらを見向きもしないがくぽを鋭い瞳で睨みつける。
 カルの視線に気づいているのか否か、がくぽは小さな声で囁くように  子守歌を歌った。
 童謡と同じように誰でも知っている子守歌だ。カルや他の仲間もその赤子に何度も歌ってきた。かつては親代わりの誰かに聴かされたことだろう。聴き慣れた、歌い慣れた、いつもの歌だ。
 それなのに歌い手が変わるだけで  こんなにも歌は周囲の空気を変えるのかとカルは言葉を失った。
 初めて聴くマリイの歌声は、カルの心の奥深くに沈めたはずの傷を容赦なく抉り取り、本人ですら忘れていたはずの痛みを思い出させる。
(やめろ……)
 幼い頃、目覚めた朝に母が居なかったときの悲しさ。
 父親に連れられて行った知らない建物に閉じこめられて、何人もの大人の男の相手をさせられた辛さ。
 自分が汚れていくのを実感した苦しさ。
 押し込めていたものが、心の奥底で主張する。
(もうやめて  !)
 思い出したくもない傷が鮮明によみがえる。足が震える。身体がちぎれそうになる。呼吸ができない。心臓が押しつぶされる  
(……、……)
 ただマリイは子守歌を歌うだけだ。それだけでこんなにもカルの心を揺さぶり続ける。思い出したくもない、忘れようとして実際に今まで忘れていた記憶さえ引きずり出して  その記憶を核としていた心の澱が、マリイの歌声によって浄化されていく。
(どうして……)
 火がついたように泣いていた赤子は泣きやみ、楽しそうにきゃっきゃと笑ってがくぽに向けて手を伸ばす。その様子を見て我に返ったカルがマリイに何か言おうとしたが、
「この子を食堂に連れていけばいいのかな」
 長身の吟遊詩人はカルの視線を受け流すように歩き出した。
(……酒場には行かない方がいいかもね。泣いちゃいそう……)
 マリイの背中を見つめながら、カルは心の中でひとりごちた。

 がくぽが赤子を抱いて食堂に戻ると、ミクが配膳の手伝いをしていた。
「あれ、カルは?」
 カルはがくぽに赤子を委ねたまま、後を追ってはこなかった。背後に鼻を啜る音を聞いたがくぽは振り返ることなく食堂に向かったため、カルがまだそこにいるかどうかは解らない。
「何か他に用があるとか? で、この子はどうすればいい?」
「あ、そこの椅子に座らせてくれる? マリイは向かいの席に座って待ってて。今日はシチューだよ〜」
 ミクが嬉しそうにパンを配りながら指示を出す。
 がくぽが言われた通りに席に座ると、ひとりふたりとそれぞれ席に着き始めた。いくつかある空席は今厨房にいる者の席だろう。
 配膳がすべて終わるとミクは赤子の隣の席に座り、がくぽと向かい合わせになった。少し離れたところに院長が座り挨拶をする。その途中でカルが食堂にやってきて赤子を挟んだミクの隣に座る。
 食堂に集まったのは大人も子供も合わせて二十人弱といったところか。食事が始まると最初の内は静かだったものの、年齢の小さい者から賑やかになっていった。ミクが赤子の面倒を見ていたためがくぽが質問攻めに合う羽目になったが、いつもの吟遊詩人の飄々とした笑顔で適当にかわしていく。
 ふと向かいに座るミクに目をやり、がくぽは食事の手を止めた。
(こんなふうに笑うのか……)
 家でだって、酒場でだって、ミクは笑う。なのに今ミクが見せる笑顔はどこで見る笑顔よりもあどけなくて無邪気で無防備で可愛らしくて  何よりも眩しかった。
「え〜? なになにマリイさん、ミクに超熱い視線じゃん?」
 先刻の険しい表情など微塵も見せずにカルが冷やかす。
「え? なに? 私の顔に何かついてる?」
 カルの意図をまったく汲まずにミクが顔に手を当てる。
「いや……子供の扱いに慣れてるなと思って……」
 自分も食事をしながら赤子に離乳食を食べさせている。どちらも滞りなくなめらかに行われる作業に呆気にとられるほどだった。
「そりゃ、ずっと面倒見てるもの。大きくなったら自分より年下の子の面倒を見るのがここの決まりなの」
「へえ……」
 赤子の口からこぼれでたものを拭いつつ、あやすように食べさせているミクの手慣れた様子を見て  ぼんやりと、面倒見の良い母親になるかもしれないなどと考えながら、がくぽはシチューを口に運んだ。
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