真空の聲、静謐の旋律
β:初夜8
家に帰るなりがくぽに抱き上げられてベッドに運ばれたミクは、目を瞬いて自分を見下ろしている藤色の双眸を見つめた。
「あの……え? 今、何て言ったの?」
「え、じゃない。抱きたいと言ったんだ」
結い上げていた髪を下ろす途中だったため、中途半端にとかれた長い髪は乱れて枕から流れ落ちる。髪を整えようとした指はがくぽの指に絡めとられて、優しく押さえつけられてしまった。
「でも、え? だって昨日……、その、したばっかりじゃない?」
「俺は毎日でもいい。状況が許すなら1日中でも抱いていたい。いつでもお前を抱いていたいし お前に抱かれたい」
「は……、え? 待って? あれ? 私が? 私が、がくぽを、え?」
混乱するミクに構うことなく、がくぽの唇がミクの細い首筋に触れる。熱い吐息にくすぐられて、ミクが小さく悲鳴を上げる。
「主導権の違いだ。結果は同じだろう」
「いやあの、そんな真剣な顔して言われても……ふざけてるの?」
「ふざけてなどいない。俺はいつでも真剣だ。昨日も言っただろう、俺はお前に求められたい。求められている実感が欲しい」
切なげに見つめられてミクは言葉に詰まった。それはがくぽにとっては承認欲求だ。認められたい、必要とされたいという願いだ。それを無碍にするということは 彼を必要としていないと明言するのと同然だった。
藤色の真剣な眼差しを受け止めて、ミクは小さく息を飲んだ。
「がくぽは……私が、欲しい?」
「欲しい」
「本当に?」
「この期に及んでまだ疑うのか? 俺がどれほどお前を切望していると思っている……」
吐息が絡みあう距離で見つめ合い ミクが震える唇で言葉を紡ぐ。
「……抱い、て……」
言葉にした思いを自分の耳で聞いて、ミクは改めて自分が口にした言葉に頬を朱色に染めた。
「いいのか?」
「そっちこそ疑ってるの?」
「……そうだな」
微笑みあって、目を閉じた。静かに柔らかな唇が重なり合う。そこから伝わる互いのぬくもりにふわりと包み込まれるようだった。穏やかで温かな日差しの中にいるような、緩やかで優しい空間で寄り添っているような 。
ふと唇が離れてミクは目を開いた。すぐそこに藤色の眼差しがある。どこか寂しそうにミクを見つめて、
「……ミク。今日はやめよう」
「え? でも」
「無理に俺に付き合う必要はない。そんなことで嫌ったりしないから心配するな」
「別に無理してる訳じゃ……」
「 今お前は求められたから応えようとしているだけだ。お前が俺を求めている訳じゃない。……俺はお前に求められたい」
「なんで? 私は、」
「……そんな乾いた瞳で抱いてくれと言われても……、……結構傷つくものだな」
もう吐息は絡まない。身体を起こしてがくぽは小さくため息をついてからミクの横に寝転がった。
「がくぽ、あの……」
「怒ってない。心配するな」
仰向けになったまま目を閉じてがくぽが答える。
「……傷ついた……の?」
不安そうにがくぽの袖をひっぱるミクに、
「少し……。傷ついたというか、寂しいというか……」
目を閉じたままがくぽは続ける。
「また無理強いをしてるんじゃないかとか、俺に気を遣わせてるんじゃないかとか……。心が伴わない身体だけを重ねても意味がない。俺はお前の全部が欲しい。心も、身体も、全部だ」
「気を遣ってる訳じゃないの……求めてくれてるなら応えたいし……」
「俺が欲しい訳じゃないだろう?」
「そんなことないよ!? そんなこと……」
言いながら口ごもる。こちらを見もしないがくぽから目を逸らしてミクは黙り込んだ。
袖を掴んだまま沈黙したミクの手に自分の手を重ねて、がくぽはミクに向き直る。
「あんな辛い思いをして後込みしない訳がないだろう。まだお前の心は開いていない。昨日は薬の副作用の勢いだ。今日拒まれたからといって責めたりしない。だから心配するな。急がなくても、いつか俺を受け入れてくれればいい」
「でも、がんばるから……」
悲しそうに見つめるミクの乱れた髪をなでてやる。いつも結い上げている髪がおろされていて、どこか儚げに見せる。
「気持ちは嬉しいが、がんばるものでもないだろう。もっと……そうだな。楽しんで欲しい」
思いがけないがくぽの言葉にミクがきょとんとした。初めて鏡をのぞき込んだ子犬のような表情が可愛らしい。
「楽しむ?」
「会話だと思えばいい。普段俺たちは言葉を使って会話をするだろう。それを身体と感覚に置き換えているだけだ」
「身体と……感覚」
「例えば俺が何か言ったとする。そうするとミクは考えて、こちらの反応を窺いながら言葉を返すだろう。それと同じだ。ただ言葉での会話は誰とでもできるが、身体と感覚を使った会話は誰とでもという訳にはいかない。心も身体も差し出しても良いという相手とだけ 俺はそういう会話をしたい」
掴んでいた袖を離し、重ねられた手に指を絡めながらミクは黙って聞いていた。
「疲れているときや気分が乗らないときに話しかけられても、あまり会話をしようという気にはならないだろう。適当に相づちを打ったところで相手にもそれは伝わる。俺は楽しく会話をしたい。……だから適当な相づちを打たれると、俺は傷つく」
そこまで言われて、ミクはようやく理解した。黙ってうつむいて、しばらく考え込んでから、
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。
「解ってくれればいい。俺はさっき言った通りいつでもミクが欲しいと思っている。だがミクはそうはいかないだろう。だからもしミクが心も身体も、両方が俺を求めてくれるなら ミクが誘ってくれ。『抱きたい』でも『抱いて欲しい』でも」
「え……、え?」
「俺から誘ってまた適当に相づちを打たれたら傷つくからな。ダメならダメと言われた方がいくらかマシだが、お前は無理にでも応えようとするだろう。だからお前から誘ってくれ。俺は拒まない」
「あの……、でも」
「不服か? じゃあ何か代替え案を出してくれ。俺にはこれ以上の最善策を思いつきそうもない」
戸惑うミクに悪戯っぽく笑うと、がくぽは両手でミクを抱きしめた。小さなぬくもりが甘えるようにしがみついてくるのがこの上もなく愛おしい。
結われることなく流れ落ちる蒼い髪ががくぽの指に絡み、引っ張らないようにほどいてから石鹸の香りのする髪をなでる。
「……きれいな髪だ」
「お手入れ大変なんだから」
嬉しそうにミクが頬をすり寄せる。
「このままずっと伸ばすのか」
「……昔ね。お父さんが褒めてくれたの。だからなんだかもったいなくて」
紅い髪の少女の言葉を思い出す。
「ミクの父親はどんな人だったんだ?」
顔を上げて一瞬不思議そうな顔をしたが、ミクは深く追求することもなく父親について語り出した。
「お母さんはね、私が物心ついたときにはもう死んじゃってたの」
そのためミクの記憶に母の姿はない。ただ母にベタ惚れしていた父親から、とにかく美人で優しくて髪がきれいだったと夜毎寝物語に聞かされた。そして、やや病弱だったということも。
母は流行病で亡くなったという。身体が弱く旅に出ることなどできなかった母は、いつか見たいと思っていた景色を夢に描きながら息を引き取った。そのときに、夢の景色の場所に連れていって欲しいと長く美しい髪を切って父に託した。
母の夢の景色に近いところを必死になって調べた父は、数年がかりで場所を突き止めた。ただ、その場所に行くにはとても険しい難所を越えなくてはならず、幼いミクを連れていくことはできなかった。
ミクを預けられる安全な場所はないだろうか その結果、父は聖ボカロ王国の孤児院にたどり着いた。ミクの当面の生活に必要なものとどれだけかの金銭を置いて、父はひとりで危険な旅路へと向かった。
孤児院を後にするとき、父はミクの髪をなでてその髪を褒めた。母に似た色の髪を何度もなでて、泣きながら思い出を振り切るように立ち去って行った。
それがミクが最後に見た父の姿だった。
「お父さんが目的の場所にたどり着けたのか、そもそもそれがどこなのか私には解らないんだけど……。ただ、なんとなく、お母さんの願いは叶えてあげられたような気がするの。だから置いてけぼりにされて寂しかったし、悲しかったけど なんかね。許してあげたくなっちゃうんだよね」
変かな? と首を傾げたミクに、がくぽが首を横に振る。
「それはミクが父親に深く愛されていたことを理解しているからだろう。ミクも父親のことを愛してるんだな」
「……うん」
大幅に端折ったが、ミクがそう思えるようになったのは孤児院に来てだいぶ経ってからだった。孤児院にいる子供たちの多くは親に愛されなかった者たちだ。ミクのように愛されていながら孤児院に預けられる者は少ない。ミク自身ですら最初は捨てられたものと思っていた。
「多分、お父さんはいろんなことを話してくれたんだと思うけど、覚えてるのって最後に髪を褒めてくれたことだけで。だから……なんか、切るのがもったいなくて」
照れくさそうにミクが笑った。優しく慈しむように髪をなでるがくぽを見上げ、
「がくぽの家族ってどんなふうだったの?」
「俺の?」
「あ……別にあんまり話したくないなら……」
「そういう訳じゃ……」
言い淀むがくぽを不安げに見つめる。
「家族のことなどずっと思い出すこともなかったなと……」
十三歳のときに王国に来てから、いったいどれほど家族のことを思い出しただろう。孤独な森の中ではついに一度も家族に思いを馳せることなどなかった。もう両親の顔さえ朧気にしか思い出せない。
「……俺が生まれたときには祖母はもう亡くなっていた。どこまで本当かはわからんが、南の国から祖父を追ってきたらしい」
「ずいぶんと情熱的だね!?」
「祖父は魔術師であることを隠していたから推測でしかないが、多分祖母も魔術に携わっていたんじゃないかと思う」
ふんふんと興味深そうに頷きながら目を輝かせるミクに、がくぽがやれやれと肩を竦める。
祖父母の間に生まれた男の子 後のがくぽの父はごく普通に、魔術とは一切関わることなく育てられた。手先が器用だった祖父は道具屋を営んでおり、父はその後を継いだ。
母は近所に住む美しい娘で、子供の頃からの顔見知りでそうなるのが当たり前であるかのように父と結婚した。やがてがくぽを生み、ごく普通の母親となった。
「そこから先の離別は前に話した通りだ」
祖父が魔術師であることを知った母は、それを受け入れるにはあまりにも魔術師への偏見と古い価値観に支配されすぎていた。一緒には暮らせないと家を出て、実家はすぐ近くのため遠くの親戚の家に逃れたという。
父はそれでも努めて今までと同じように生活しようとしていたが、がくぽが魔術を学びたいと言い出したため、自暴自棄になって家を出た。
残されたがくぽは祖父に魔術の教えを請うたが決して教えてくれることはなく、祖父は家族を離別させた魔術を恨んでさえいるようだった。だががくぽが独りで魔術を学ぼうとするのを止めることはなく、静かに見守ってくれていた。
祖父の中で魔術に対する恨みと誇りが拮抗していたのだと気づいたのは、がくぽが魔術師として世に知られるようになってからだった。
「ねえねえ」
「……なんだ」
ミクの口元がニヤリと緩んだのを見て、嫌な予感を感じつつもがくぽが返事をする。
「がくぽってさ、十三のときに王国に来たんでしょう?」
「ああ」
「子供の頃に好きな子とかいなかったの?」
苦虫を噛み潰したような顔でがくぽが唸る。
「……聞いてどうする」
「えー? だって聞いてみたい〜」
「そんなに俺の口から他の女の話を聞きたいのか」
「子供の頃の話だもん、別にいいじゃない?」
「俺はよくない」
「モテそうじゃん」
「知るかそんなもん」
「初恋とかー、ファーストキスとか早そうだよね」
「……」
「ねー?」
「お前ちょっと黙れ」
がくぽの胸に顔を埋める形で強く抱きしめられたミクが息苦しそうに両手でもがけば、そっと腕を緩められる。かろうじて顔を上げられるだけの隙間から見上げれば、がくぽがどこか楽しそうに微笑んでいた。
むずがゆいような、くすぐったいような、甘酸っぱい関係に自然とミクの口元が綻んだ。見つめあって引き寄せられるように唇を重ねる。
「……がくぽってさ」
「うん?」
「王国に来たのが十三歳のときでしょ?」
「ああ」
「ルカ様と会ってから、どのくらいで好きって自覚したの?」
吐息さえ絡む距離でそれを訊くのかと、がくぽが再度苦虫を噛み潰したような顔をする。
「お前はまだ……」
「んー。そうじゃないんだけど、自分の中で答えが出ないと言うか迷ってることがあって……。それで参考になるかなあと」
「それで俺とルカのことを聞き出すのか。他の奴じゃダメなのか?」
「がくぽに訊くのが一番だと思う。他の人に聞けないし……」
すっきりしない物言いをするミクに、
「何だ。何を迷っている」
「んーと……。『好き』ってどういう気持ちを言うのかなとか、『愛してる』との違いって何かなとか」
「ずいぶんと哲学的だな」
がくぽが意外そうな顔をする。
「たとえば……誤解しないでね? がくぽの気持ちを疑ってる訳じゃないの。ただ私の言う『好き』とがくぽの言う『好き』に温度差があったらどうしようかなとか……」
「ほう」
「たとえば温度差が大きかった場合、それって片想いとあんまり変わらないんじゃないかなとか……」
「それで、お前はどちらの方が温度が低いと思う?」
がくぽの言葉にミクが身体を強ばらせた。ミクがそんなことを気にするのは、端的に言えばがくぽとの気持ちに温度差を感じているからだ。がくぽのミクへの想いを疑ってはいないが、不安を感じている。
たとえば 聖女への想いと自分への想いはどちらが強いのか、自分が想っているようにはがくぽは想ってはいないのではないか など。
不安があるから、求められたら必死に応えようとする。拒んだら離れていってしまうのではないかという不安がつきまとう。その不安が消えない限り、ミクはいつまでもがくぽの顔色を窺い続けることになる。
ミクの問いに答えたところで、彼女の不安は消えはしないだろう。かえって不安を煽るかもしれない。
がくぽは自分の気持ちに確信が持てるまで、自分の想いを欠片もミクに見せなかった。ミクからしたらあまりにも突然で唐突な告白だっただろう。がくぽにとってはけじめのつもりだったが、結果としてはミクを不安にさせてしまった。
(……俺の責任だな)
がくぽが抱かせた不安なら、がくぽが取り除いてやらなければならないだろう。それはきっと、今日明日で解決するような問題ではない。そして解決したと思っても、ふとした拍子に何度でもぶり返す。
気の長い話だが、こじれた糸は根気よくひとつひとつほどいていかなければならない。ちぎれないように細心の注意を払って、その都度丁寧にひとつずつ。
(いいさ。その先にお前の本当の笑顔が見られるなら……)
孤児院で見せたような、あんな眩しい笑顔をふたりきりのときにも見せて欲しい。
身を強ばらせたままのミクの背中を優しくなでながら、がくぽは遠い目をして語り始めた。
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