真空の聲、静謐の旋律

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   β:初夜10

「あなたの声が聞きたかった……」
 切なげなため息交じりの声ががくぽの胸をくすぐった。
「……ミク」
「もっと呼ばれたい……私を呼んで。あなたの声で……」
「ミク」
「嬉しい……」
 ミクの唇がちゅぅ、と甘い音を立てた。誘惑の音にミクの背中をなでていたがくぽの手が動きを止める。
「……ミク」
「うん……」
「ミク……」
「……」
 ミクはもう答えなかった。その代わりに数え切れないほどに唇を甘く押しつけていく。時にかわいらしい音を立てて吸い上げ、時に甘えるように食んでくる唇に、がくぽの鼓動が早鐘を打つ。追いつめられていく心を映したかのように、ミクをなでる手がぎこちない。
 がくぽの胸の上で弧を描きながら舞っていたミクの指先がベルトに触れた。
 ぎくりとしたのか  どきりとしたのか、がくぽの心臓がひときわ大きく跳ねた。
 ミクの唇がそれらをすべて見透かしたように、がくぽの左胸を艶めかしく吸い上げる。
(……っ)
 かすかに吐息を乱れさせてがくぽが視線を落とせば、がくぽの視線にも気づかずにミクがベルトに悪戦苦闘していた。
「……手伝おうか」
「……平気だもん」
 顔も上げずに頬を膨らませて格闘する様子からは先ほどの妖艶な行為はとても想像できない。しばらくミクがベルトと格闘する様子を微笑ましく眺めていたがくぽだったが、
「それはな、これをこうすると……」
「え!? あっ、そうなるの?」
「この状態でこっちを引っ張ってみろ」
「あ! すごい! こんな簡単に外れるんだ!」
 感心するミクに小さく噴いた。
「今バカにしたでしょう」
「してない」
「うーそーだー」
「嘘じゃない。ちょっと面白かっただけだ」
「そういうのをバカにしたっていうんじゃないのー?」
「さあな。だが可愛い」
「……」
「可愛い」
「……二度も言わなくていいです……」
「そうか。じゃあ三度目はやめておこう」
 むう、と拗ねたように唇を尖らせながらミクががくぽのベルトを抜き取った。奪い取った獲物を見向きもせずに床に放り投げる。
 今度は慣れない男物の下衣と格闘しているミクを高見の見物とばかりに眺めながら  ふと、
(……この先どうするつもりだ?)
 この流れで予測するこれから行われるであろう行為を、ミクは本当にするつもりなのだろうか。
(まさかな……いや、どうなんだ?)
 期待よりは無理だろうという予測の方が強い。恐らくはあの赤毛の娘にいろいろと吹き込まれたのだろうが、知識とそれを実践するのとでは訳が違う。
 がくぽの予想では、無理だ。昨晩もその前も、ミクは今必死になって露わにしようとしているそれを見てはいない。実際に間近で見たら一気に引くのが想像に難くない。
 だが、あの赤毛の娘が言っていたように  ミクも嫌われないために自分の魂を切り売りすることに躊躇しないのだとしたら  がくぽに嫌われないために行うのであれば、それはとても、悲しい。
 嫌われたくないからとか、自分を見て欲しいからとか、そういう理由で何かをされても嬉しくはない。それはただの代償の先払いだ。
 そうではなくて、純粋に求められたい。
 心を犠牲にした上に成り立つ行為に意味はない。
 身も心もとけあって、ひとつになりたい。
 ただ、それを望むにはあまりにも早急だったかもしれないとも思っている。ミクと出会ってから自分の中の気持ちが育った程には、ミクの中の気持ちは育っていないだろう。まだ十代の世間を知らない娘だ。成熟した想いを求めること自体に無理がある。ましてミクへの想いを疑われている身だ。自分と同じだけの想いを求めるのはまだ早い。
(いつか同じだけの気持ちになれればいいが……)
 こんなに想っていても、想いの丈を疑われる。不安にさせている。その隔たりが悲しい。
(なあミク、今お前はどんな気持ちでいるんだ? 教えてくれ……)
 翳りを見せた藤色の視線にも気づかず、まだミクは悪戦苦闘していた。時折可愛らしい唸り声が聞こえてくる。
(まあ……いいか、今は……)
 ミクがやりたいようにやらせてやればいい。その上で、ひとつずつ確かめていくしかない。お互いの気持ちが何処にあるのかを  
 半分は期待、半分は怖いもの見たさで、がくぽはミクに助け船を出すようにわずかに腰を浮かせた。
 ようやく下衣を下ろすことに成功したミクが小さく歓声を上げた。中途半端に膝の位置まで下衣を下ろして、今度は下着に手を伸ばす。
「……っ」
 伸ばしかけた手を一瞬引っ込めてミクが息を飲んだ。自分が何をしようとしているのか改めて認識して怯んだようにも見える。
 がくぽの眼差しに気づきもせずに、ミクの手はしばらく宙に留まったままでいたが、やがて迷いを振り切るように下着に手を伸ばした。
 実に色気も何もない思い切りの良さで下着をはぎ取ったミクが硬直する。
(まあ、想定内の反応だが……それでも多少は傷つくものだな)
 顔をひきつらせたまま言葉もなく硬直するミクに、どう声をかけようかがくぽが考えていると、
「あの……さあ」
 震える声でミクが呟いた。
「変なこと聞いていい?」
「なんだ」
「……歩くときとか、邪魔にならないの?」
「……うん?」
「だって、その、いつも……くっついてるんでしょう?」
 ミクが困惑した表情でがくぽを見つめた。ミク以上に困惑した顔でがくぽが声を絞り出す。
「……いや別に……。生まれたときからついてるから……」
「座るときとか、フィドルを弾くときとか、邪魔にならない?」
「気にしたことはない」
「そういうものなの?」
「犬も猫も自分の尻尾を邪魔に感じることはないんじゃないか」
「ああ、そっか……」
 納得したのかミクががくぽから視線を外した。少し顔を青ざめさせて、ミクの震える指先が触れる。
(……!)
 かすめるように触れられたところから背筋をぞくりと這い上がった。思わず声を出しかけて、慌ててがくぽは左手で口元を押さえてミクの指先を視線で追う。
 優しく人差し指でなぞられただけで一気に全身が縛られたように動けなくなる。
 甘い拘束に身を委ねていると、ミクがふと顔を上げた。一体どんな顔をしていたのだろう、ミクが耳まで赤くしてうつむきながら、がくぽの右手を掴まえて自分の頭の上に触れさせる。
 その行動の意図を図りかねてミクを見つめれば、泣き出しそうに潤んだ蒼い瞳は視線を落として  ぎこちなく屈み込んだ。
 がくぽの見つめる前で、ミクが可愛らしく口づけた。ちゅ、と音を立てて少しずつ位置をずらしながら、幾度も、幾度も。
 ミクの髪に触れている右手を強ばらせて  がくぽは自分の言葉を思い出す。
 触れていいなら髪をなでてくれ。嫌なら髪を引っ張ってくれ。
 肯定ならなでる。否定なら髪を引っ張る。
 それだけの約束ごとだ。
 今ミクがしていることを、続けて欲しいかやめて欲しいか。そう問われているのだ。
 嫌な訳がないが、無理をさせているのなら  やめて欲しい。それががくぽの本心だ。
 髪をなでることも引っ張ることもためらわれて、優しく口づけてくれるミクの頬をなでる。
「ミク、無理はするな。そんなに頑張らなくていい」
「……無理してる訳じゃないよ」
 顔を上げてやや不満げに唇を尖らせる。
「その……。別に無理してないから心配しないで。ちゃんと、あの、自分で、その……したいって思ってやってるから……」
 もじもじと上目遣いで恥じらいながらがくぽを見つめるミクが可愛らしい。
「えっと……ちゃんと挨拶しておこうと思って……」
「挨拶?」
「んんー……。なんだろ……、昨日はお疲れさまでした?」
「……何だそれは」
「あれ、違う? じゃあ、これからもよろしくお願いします」
「……」
「えっ、あれ? そうじゃない? じゃあ、じゃあ……えっと、いただきます?」
 おろおろし始めたミクの様子に耐えきれず、がくぽは思わず笑い出した。
「ちょ……っ、お前、面白すぎる……」
「えー!? 何、何がおかしいの!?」
「いや……、いいよ、ミクお前もう本当に好きだ……。どうしてくれるんだ、こんなに俺をお前に夢中にさせて」
「またバカにしてるでしょう!?」
「してない。予想外の回答がちょっと面白かっただけだ」
「あああ、さっきもそんなこと言ったああ」
「そうだな。やっぱり可愛い」
「……」
「可愛い」
「あの、ちょっと恥ずかしいです……」
 うつむいたミクの髪を優しくなでて、
「そうか。じゃあ三度目はやめておこう」
 がくぽが穏やかに笑った。
 優しく髪を何度もなでられてその感触にうっとりとしていたミクだったが、
「あの……」
「うん?」
「まだ挨拶が途中なの。続き……しても、いい?」
「……ああ。好きなだけ挨拶してくれ。お手柔らかに頼む」
 頬を薔薇色に染めて微笑みながら頷いた。
 がくぽに見つめられて照れくさそうにしていたミクだったが、やがて再び屈み込んだ。長い髪をかきあげて口づける仕草がひどく艶めかしい。これが男を誘う意図なく無意識でやっているのなら、ある意味で恐ろしい魔性の女かもしれない。
 幾度も優しく口づけて  一瞬の躊躇の後、ミクの舌がちろりと這った。
 唇よりも確かな温もりを持った感触がからかうようにがくぽの心を刺激する。腰から背筋を通って確実に這い上がってくる感覚にうろたえるがくぽの心情を知ってか知らずか、ミクの舌が少しずつ反応を確かめるようになぞっていく。おそるおそる触れていた舌が次第に大胆に捉えていき  飽きたかのように唐突に離れた。
 心のどこかで安堵したがくぽは溜めていた息を吐こうとして、思わず声を上げた。
 不意打ちだった。
 ミクの濡れた唇が開いて、がくぽのそれを包み込む。舌が触れた時とは比較にならないような有無を言わせぬ衝撃が身体を貫いた。
(……まずい)
 ミクに包まれて昨夜の感覚を思い出す。理性が飛ぶほどの快感の記憶に引きずられ、一気に全身が粟立った。急激に身体の芯が熱を帯びていくのが解る。どうしようもないほどに血が騒いでミクの中の女を欲している。
(同じ過ちを繰り返す訳には……)
 がくぽの葛藤に気づいたのか否か、ミクがちらりと顔を上げた。
 どんな情けない顔をしていただろう。がくぽが平静を取り繕うよりも早く、ミクが満足そうに微笑んで視線を戻すと  ちゅぅ、と音を立てて吸い上げた。
  勘弁してくれ)
 がくぽを見つめる仕草も、柔らかな唇の感触も、口の中の甘い熱も、たどたどしい舌の動きも  何もかもががくぽの中の男を挑発する。誘うなどという可愛らしいものではない。無理矢理捉えて引きずり出していく。
 このまま誘惑に身を委ねて快楽に堕ちていけたら  そんな欲望を死にもの狂いで押さえつけて、がくぽはミクの髪に指を絡ませて軽く引っ張った。
「んんー……」
 少し悲しそうな表情でミクが顔を上げた。
「もう充分だ。ありがとう」
「ごめん、痛かった? あんまり……、よくなかった……?」
「それは……すごく良かった。そうじゃなくて、それ以上は……、本気になる」
 髪を優しくなでられながら、ミクがふてくされたように頬を膨らませる。
「なったらダメなの?」
「……うん?」
「本気になったらダメなの?」
 拗ねたような、困ったような、思わず抱きしめたくなるような表情でミクが上目遣いでがくぽを見つめた。
「本気になっちゃえばいいじゃない」
「あのな、ミク。お前は昨晩何が起きたか、もう忘れたのか」
 呆れたようにがくぽがため息をつけば、
「ちゃんと覚えてる。痛かったし辛かったけど……」
 言い淀みながらもミクは続けた。
「辛かったのは、がくぽが私を見てくれなかったからだもの。だから、ちゃんと私を見て  私を呼んでくれるなら……辛くなんかない」
 潤んだ蒼い瞳ががくぽの心に突き刺さる。
 大切にしたいと思っていながら、守りたいと思っていながら  傷つけたのはがくぽ自身だ。自分の中の抑えきれない衝動が招いた現実を直視する勇気もなく、その弱さがミクを苦しめた。
(俺はまたミクに守られるのか……) 
 昨晩あんな目に遭わせたというのに、ミクはこんなにも健気に尽くそうとしてくれる。どうすればこの少女を守れるのだろう。どうすれば彼女をしあわせにできる  
 戸惑う藤色の瞳にしびれを切らしたのか、蒼い髪をもてあそぶがくぽの指を振り払ってミクが再び屈み込んだ。
「ちょっと待て、ミク、おい……!」
 がくぽの制止を振り切って勢いよく吸い上げた。肩を掴まれたが構わずに容赦なく責め立てる。
 肩を掴む手が緩むのとほぼ同時に  ミクが慌てて顔を上げて咳き込んだ。
「……っ、……!!」
「そら見ろ、無理するからだ」
 やれやれと身体を起こして、顔を真っ赤にして涙目でむせるミクの背中をさすってやる。
 何か言いたげにミクが睨むが言葉にならない。中途半端に脱がされた衣服を脱ぎ捨ててしまうと、がくぽはベッドを下りて水差しからコップに水を注いだ。
「少し落ち着いたか」
 差し出されたコップを素直に受け取ってミクが口をつける。
「俺はもう充分だ。ミクはまだ俺に触り足りないか?」
 怒るでもなく、呆れるでもなく、いたわるような優しい声で言うと、がくぽはベッドに腰掛けた。
 ひとくち水を飲んでようやく人心地ついたミクは、コップをテーブルに戻してがくぽの正面に立つ。
「まだちょっと触り足りないけど……。今は触って欲しいかな」
 自分の両手の指を絡ませながら、うつむき加減でミクが呟く。見上げる形のがくぽと視線が絡み合い、恥ずかしそうに視線を泳がせて  まっすぐに藤色の瞳を見つめた。
「『愛してる』には触って欲しいっていう気持ちが入ってるのよ?」
 手を繋ぐよりも、もっと深く触れて欲しい。
 甘く、優しく、切なく、強く。
 それは、『好き』では足りないものだ。
 待っているのか、焦らしているのか。ミクを見上げたまま沈黙しているがくぽに触れる位置まで歩み寄って、ミクはがくぽの膝に腰を下ろしてそっと唇を重ねた。
 柔らかく繊細な唇がミクの唇を優しく包み込む。腰と背中に回された大きな手に抱き寄せられて、甘えるようにもたれかかった。
 お互いの気持ちを確かめるように緩やかに舌を絡ませ、穏やかな口づけを存分に味わい尽くす。
「あ……」
 先に身体を離したのはがくぽだった。うっとりと瞳を開いたミクの間近で、驚いたようにミクの瞳をのぞき込んでいる。
  思い出した」
「なあに? どうしたの?」
「さっきの話の続きだ。最初にいつミクを意識したのか思い出した」
「え?」
 唐突に話を戻されてミクが目を瞬かせたが、がくぽは構わず話を続けた。
「いつだったか、あの森の中で花の苗を植えただろう。あのときも俺は自分の殻に閉じこもったままだった。だが数日後、苗がしおれかかった時  このまま枯れてしまったらお前がどんなに悲しむかと思ったら、考えるよりも先に身体の方が動いていた。今思えば魔術で水を運べば良かったのにな。森の中の湧き水を汲んで、毎日苗に水をやった。ようやく苗が持ち直したある日の夜、流星群が見えたんだ」
 ミクはただ黙って耳を傾けている。
「夜空から流星の雨が降ってきたのかと思った。あの流れ星を見ていたとき  ミクを思い出した」
「……私?」
「そうだ。あの流れ星のように煌めくお前の歌声を聞きたかった。  お前に逢いたかった……」
 切なげな藤色の瞳に見つめられ、ミクの瞳から涙がこぼれ落ちそうになる。
 先刻、がくぽは何と言っただろう。彼にとっての『逢いたい』は  
「俺はあのとき、とっくにお前に心を奪われていたんだな……」
 ようやく得心がいったと満足そうに微笑んで、がくぽがミクの頬をなでた。
「……好きだ……」
 潤みきった瞳を閉じて、ミクは求められるままに唇を与えた。甘く切ない口づけが身体の芯まで夢見るようにとろけさせる。
 唇を離して強く抱きしめられた。甘い吐息とともにミクが小さくがくぽの耳元で囁く。
 がくぽの両腕がミクを抱き上げてベッドに横たわらせる。
「ミク。引き返すなら今のうちだぞ」
「……もう。さっきから待ってるのは私でしょう?」
 拗ねた口調で不満を言うミクがはにかんだ。
「そうだったな」
 がくぽが苦笑する。さっきからミクはまっすぐすぎるほどに己の気持ちに正直だった。なんだかんだと面倒な建前と言い訳で自分の気持ちから逃げていたのはがくぽの方だ。
「ミクを泣かせる」
「……そう簡単に泣かないもん」
「じゃあミクが泣いたら俺の勝ち、最後まで泣かなかったらミクの勝ちだ」
「何を賭ける?」
「お前の好きなものでいい。どうせ勝つのは俺だ」
「ええー? 勝負は最後まで分からないでしょ?」
「……泣くまで抱くから覚悟しろ」
 耳元で囁かれ、ミクが顔を赤くして身をよじった。
「ずるい……」
 藤色の髪をなでながら、そっと抱き寄せる。
「俺を本気にさせたお前が悪い」
 抱き寄せられるままにミクの首筋に唇を這わせながら囁いた。
「ちゃんと……私を見てね。私を呼んで……」
「ミク」
「うん」
「ミク……」
「あ……、……」
 返事の代わりに甘い吐息がもれる。
 首筋に降り注ぐ唇の雨に誘われて、ミクは自分の中の女が目を覚ましつつあるのを感じていた。
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