真空の聲、静謐の旋律
β:初夜14
「……俺の勝ちだ」
乱れた呼吸を整え、ひとつ深呼吸をしてからがくぽはほろ苦い勝利宣言をした。
彼の腕の中でミクが時折しゃくりあげながらすすり泣いている。唇をぎゅっと結んでがくぽを見上げ、黙って勝利宣言を聞いていた。
「……大丈夫か」
心配そうに顔をのぞき込めば、小さな唸り声が聞こえてくる。
「痛むのか」
「悔しい……」
「ミク?」
「くやしいぃぃぃ!!」
ぼろぼろと涙をこぼし顔を真っ赤にしながらミクが叫んだ。
「あとちょっとだったのに! もう、なんで涙が止まらないのよぅ……! 私のバカぁぁぁ!!」
「……思ったより元気そうで安心した」
「……。元気だけど……ごめん、やっぱりちょっとまだ痛い……」
「動かさない方がいいか」
「うん……」
がくぽが昨夜そうしたように、ミクを抱き上げて静かに横向きに寝ころんだ。ようやく泣き止みそうなミクを優しく抱きしめて何度も髪をなでてやる。
「よくがんばったな」
「……うん」
鼻をすすってがくぽの胸に額を預けた。
「痛くて泣いたんじゃないの。悲しかった訳でもなくて……、すごくね。嬉しかったの」
「ああ」
「ちゃんと心も身体も繋がれたんだなあって思って……。なんか嬉しすぎて涙が出てきちゃった」
「……ああ」
「でも泣いちゃったから、負けは負けだね」
「……」
「どうしよう。何か欲しいものとか、ある?」
「……笑ってくれ」
顔を上げたミクの額に口づけて、
「俺はお前の笑顔が欲しい。だから笑ってくれ。最高の笑顔を見せてくれ」
切なげに訴えた。
一瞬きょとんとしたミクだったが、
「がくぽ、あのね」
「うん?」
「大好き」
まだ涙の跡が残る顔で、長い夜の終わりを告げる朝陽のようにきらきらと笑って見せた。
「ああ……、俺も大好きだ」
眩しい笑顔を両手で包み込んで、瞼に焼き付けてから優しく唇を重ねる。間近く見つめ合って 安心したように抱きしめた。
「また汗をかいたな」
「そうだね」
「今お湯を用意する。少し待ってろ」
「あ、あの、ちょっと待って」
身体を離そうとしたがくぽの腕を掴んでミクが引き留める。
「どうした、まだ痛むのか」
「ううん、そうじゃなくて……、もう少しだけ、このままでいてもいい?」
「ミク?」
「あとちょっと……。がくぽとひとつでいたいから……」
頬を赤らめて囁くミクの瞳が星空のように輝いた。
「……ああ……」
ミクの瞳の奥の星空に吸い込まれるような錯覚を覚えながら、がくぽは優しくミクを抱きしめていた。
名残を惜しむように身体を離したがくぽは、ランタンに火を灯すとそれまで部屋を照らしていた光の球を消した。そのまま洗面器を取りに行こうとすると、
「ちょっと待って!? その格好でうろうろするの!?」
ミクが慌ててがくぽを呼び止める。
「……何か問題でもあるのか」
「あるでしょ! 恥ずかしいじゃない、せめて……、えっと、腰に何か巻くくらいして!」
「恥ずかしいも何も、さっきあれほど……」
「もう! いいから! 何とかして!」
言いたいことだけ言うと、ミクは顔を真っ赤にして毛布を頭から被ってしまった。
(何なんだ……)
腑に落ちなかったが、ミクが嫌がることをわざわざする気にもなれず、がくぽは仕方なく床に投げ捨てられていたシャツを腰に巻いた。洗面器に水を張り、魔術で湯にしてから手拭いを浸す。
「ミク、出てこい。用意できた」
もそもそとミクが毛布から顔を出すと、がくぽがひょいとミクの手を捕まえる。
「え?」
がくぽは目を瞬いたミクの腕を手拭いで拭き取った。今日もこんなふうに優しくしてくれるのかと一瞬見とれたミクだったが、反対の腕を差し出すようがくぽに促されて我に返る。
「あ、大丈夫だから! 自分で拭けるし!」
「いや、それは俺が……」
「いいから! 自分でやるから! その手拭い貸して」
思わぬ強い反対を受けてがくぽが驚いている隙に、ミクがその手から手拭いを奪い取る。
「こっち見たらダメだからね」
「……何だ。さっきまでとはずいぶん態度が違うじゃないか」
「だって……恥ずかしい……」
「あんなにも愛し合っておいて何を今さら……」
「もう、いいから! あっち向いてて!」
「……解った」
がくぽが背を向けて椅子に腰掛けたのを見届けて、ミクもまたがくぽに背を向けて身体を拭った。
(……最中は夢中だから平気だけど、それ以外は恥ずかしいんだってば。そういうの解らないのかな。酔ってるときと素面のときじゃ違うでしょうよ)
そういえばがくぽが酔っ払っているところを見たことがないかもしれないと思いつつ、手拭いを折り返しながら身体を拭いていく。
(それに……、あれ見られるの恥ずかしい……)
昨夜ベッドから下りようとしたときに、突然足を伝った生温かい感触を思い出してミクがかあっと赤くなる。
(がくぽって普段いろんなことに気づいてくれるけど、割と雑なところあるよね……。シーツの洗濯のこともあるし、男の人ってそういう感覚ないのかな)
心の中でぶちぶちと呟きながらも身体を拭き終わり振り返ると、すでにがくぽは下衣を着てお茶の用意をしていた。ベッドから手を伸ばして床に落ちているワンピースを拾い、もそもそと着込んでいると、苦いとも渋いとも言い難い匂いが鼻孔を刺激した。
「何の匂い?」
「薬湯だ。昨日の薬草の残りで配合を変えた。飲んだところで昨日のような副作用はないから安心しろ」
テーブルに置かれたコップから湯気が立っている。ベッドから下りようとしたミクにコップが差し出され、ベッドに腰掛けたままでミクは薬湯に口をつけた。
「……味違う」
「使う薬草は同じでも量が変われば味も変わるだろう」
「へー……。がくぽって魔術以外にも詳しいよね」
「魔術そのものが世界を構築する元素と力と理論を知ることから始まる。そうなるとあれもこれもと知りたくなったんだよ。昔は薬草も星の動きを知ることも魔術の範疇だったしな」
椅子に腰掛けたがくぽが薬湯をすすりながら、ミクから手拭いを受け取って足下の洗面器に放り込む。
「ミク、明日は何か用があるのか」
「んー? ううん、別に何も……」
「それなら午前中に孤児院で風呂を借りてこい。午後からは魔術の勉強だ。夕方前に一度マスターに挨拶に行こう」
「わかった……けど、孤児院行くの前提なの?」
「公衆浴場で胸元の印を見せびらかしたいというなら話は別だが」
ニヤリと笑ったがくぽに対し、ミクがあっと顔を強ばらせる。
「あー! ああー! そうだ、私これ当分孤児院通いじゃ……」
「当分というほどでもないだろう。せいぜい2、3日だ」
「どっちでも一緒じゃん! もう、なんでこんな意地悪したのよぅ……」
半ベソをかいたミクには微笑みだけで答え、
「なんだかんだでもういい時間だな。そろそろ寝るか」
ミクの頭を優しくなでた。まだ何か言いた気だったが、なでられて不満を言葉にする勢いを失ったミクは黙って頷いた。がくぽが手を差し出して空になったコップを受け取る。
ミクに先に横になるように促すと、がくぽは洗い物を片づけながら、
「なあ、ミク」
「んー?」
「どうだった」
「どうって?」
「良かったとか、悪かったとか。ああされると痛いとか、こうされたのが良かったとか」
「え!? 感想文を毎回提出しないといけないの!?」
やや右斜め上の返答に噴きかけて、かろうじて堪える。
「感想文の提出は必要ない。提出されてもどんな顔をして読めばいいんだ。そうじゃない、俺の独りよがりにならないようにしたいんだ。良かったなら良かった、悪かったなら悪かったと正直に言って欲しい」
洗い物を終えたがくぽがベッドに腰掛ける。
「楽しく会話したいと言っただろう。俺だけが楽しくても意味がない。ミクと一緒に楽しみたい。なんだ……反省会みたいなものか?」
うまく表現する言葉が見つからず、がくぽが腕組みして首を傾げた。
「んんーとね……。良いとか悪いとか、私まだ全然わからないんだけど……」
ミクが自分の考えを表現する言葉を探してうんうん唸りながら続ける。
「でもね、嬉しかった。それだけはわかるよ」
「ミク」
「うん」
「好きだ」
「うん」
「愛してる」
「……うん」
嬉しそうにはにかむミクの額に、がくぽの唇が優しく触れる。
「おやすみ」
「あ……がくぽ、あのね」
立ち上がりかけたがくぽの腕が軽く引っ張られ、どうしたと振り返ればミクが拗ねるように見上げていた。
「ミク?」
「お休みって明日までだよね?」
「ああ」
「朝ゆっくりしてても大丈夫だよね」
「ああ」
「じゃあ……一緒に寝よう?」
「……、お言葉に甘えることにする」
照れたようにミクが笑った。誘われるままにがくぽがミクの隣に寝転がる。
「あのね、がくぽ」
「うん?」
「好き。大好き」
「ああ」
「愛してる」
「……ああ」
確かめるように唇を重ね、その余韻に満たされたまま静かに眠りに落ちていった。
カルの目を盗んで風呂を借りてしまおうと思っていたのに、脱衣所の前で待ち伏せていたカルにがっしりと腕を掴まれてしまったミクはそのままずるずると脱衣所に引きずり込まれてしまった。
「え、ちょ、何!? なんで待ち伏せしてるの!?」
「まあまあまあ、細かいことはどうでもいいじゃん。もう体調は大丈夫ー?」
「え……、うん、ご飯食べたしゆっくりしたしもう平気」
「今日は洗濯物とかないの?」
「うん……?」
「なんだ、そっかあ」
へらりとしたカルの笑顔の裏から舌打ちが聞こえてきたような気がして、ミクが一歩引いたがそこで引き下がるようなカルではなかった。
「でー? 昨日言ってた心理テスト、あれどうだった?」
「もう、何なのよ一体? おかげでヒドい目に遭ったんだから」
「へえ? どうなったのか見せてみ?」
「……やだ」
「見なきゃ結果が分からないじゃん」
「いいよ別に、どうせカルがひとりで喜ぶだけなんでしょう?」
「ほぉ〜う? 言ってくれるじゃないか。解ってるんだったらさっさと脱げええええ!!」
「いやあああああ!! や、ちょっと待って破れ……っ」
「いやなら言うこと聞け!」
「や、あ、やあああああっ!!」
為す術もなく上衣をはぎ取られたミクは顔を真っ赤にしてカルを睨みつけた。もちろんそんなことで堪えるようなカルではなく、赤毛の少女はミクの腕を掴んで露わになった左脇を確認した。
そこは昨日、カルがつねって赤い痣をつけた場所だった。それほど大きくはない痕だったはずだが、その周囲に似たような赤い痣が取り囲むように追加されたためにやたらと大きく見える。
当てつけるように追加された刻印に、カルが勢いよく噴いて笑い転げた。
「ちょ……、ちょ……! あんた大変だね、マリイさん超絶ヤキモチ妬きだよ! すげえ! ここまでやるか普通!?」
「は!? 何!?」
「うわ! しかも、え? 胸とかめっちゃ痕ついてるじゃん! うわあ、がっつり痕つけられてるし。いや〜、びっくりするわー。あんな澄ました顔して、え? どんな顔して痕とかつけんの?」
「どんなって……、……あ! あ! そういうこと!?」
昨夜、ミクががくぽに『虫よけ』なら見えないところに痕をつけても意味がないのではないかと問うた時、彼は何と言っただろう。
普段隠れているミクの肌を見ようとする相手にだけ伝わればいい それはすなわち、カルにだけ伝わればいいということだ。
「そういうことってどういうことかにゃ〜ん」
「とぼけないでよ! もう! 何ふたりして張り合ってるのよ!」
「いやあ、張り合ってなんかいませんよー? 向こうが勝手に意地になってるだけじゃん?」
「もう、嘘ばっかり! 昨日だって何が挨拶よ、すっごい笑われちゃったじゃん! がんばったのにもう、あんな恥ずかしいこと二度としないんだからー!」
カルを掴まえてがくがくと揺さぶってみても、
「挨拶みたいなもんだって言ったんだよ、あんた挨拶って言ったの!? つか、できたんだ!? すげー! ミクにゃんがんばったにゃあ!」
「ふざけないでよー! おかげで同じことやり返されちゃうし、もう大変だったんだからあああ!!」
「やり返されって、あ、あー! あはははは!! マジで!? 何それ超ごちそうさまー! それでどうだったー? 気持ちよかったー?」
「え……、え……? あ……あ、あ!?」
自分が何を口走り、カルにいかにいらぬことを言ってしまったかに気づいてミクが青ざめる。
「ねえねえ、誰にも言わないからさー、おねーさんに教えて? 昨晩何回ヤったの?」
「やっ……、もう、カルのバカあああ!!」
ミクが手当たり次第に近くにあった脱衣カゴやら何やらをカルに向けて投げつける。
どうやら何かが当たったらしく、カルがうめき声を上げてうずくまっている間にミクは衣服を脱いで浴場に逃げ込んだ。
髪を結い上げかけ湯してから湯船に浸かってひとつため息をついた。
(もー、カルったら絶対私をおもちゃか何かだと思ってるんだから……)
唇を尖らせてふと自分の胸元を見てみれば、がくぽが刻みつけた愛の印がくっきりと見て取れる。
(あーもう、何でふたりして張り合うのかな……がくぽもあんまりカルのこと良く思ってないっぽいし……)
元はといえば、昨日風呂に入ったときカルがそそのかしたのだ。ミクの左脇を小さくつねって赤い痣をつけて、これを見てどんな反応をするかでマリイさんがミクのことをどう思ってるか解るよ、と。
がくぽはこれを見てすぐにカルの仕業だと気付いたに違いない。そして意趣返しをしたのだ。
(ふたりして私を取り合ってるみたい……?)
そんなことを考えて、何をバカなことを考えているのかとおかしくなり、愛の印をなぞりながら小さく笑った。
「なにをひとりでニヤニヤしてるのかにゃ?」
すぐ耳元で聞こえた声に、ミクがびくりと肩を震わす。
「え、何!?」
「ご挨拶だなあ。あんたが投げた手桶が頭に当たって呻いてたっつーのに。まあいいや、あたしも悪かった。ごめん」
カルがミクの隣で湯船に浸かりながら、ふうと一息ついて天井を仰いだ。
「あー、その。あたしだって心配してるんだよ。ミクは生真面目が服着てるようなもんだからさ。孤児院にいたときだって浮いた話とかひとつもないし。最初はあいつに騙されてるんじゃないかと思ったもん」
思いも寄らぬカルの言葉に驚いてミクが言葉を失う。
「でさー、ミクがだんだん孤児院に顔出さなくなってさー。でもたまに顔出すとき、すごい楽しそうな顔してるから、ああ、ミク今しあわせなんだろうなって思ってさー……」
「カル?」
「なんであたしじゃなかったんだろうって、あんた笑うかもしんないけど、マジ思ったんだよ。そりゃあたしは女だし、あいつがミクをしあわせにするようにはしてあげられないけどさ。だってあいつ、ミクの何を知ってるんだよ。あたしの方がミクとずっと一緒にいて、ミクのこと何でも知ってて、あいつより何倍もミクのしあわせを願ってるのに、ミクが選ぶのは……、あいつでさ。あたしじゃないんだ。悔しいんだか何なんだか……」
「でも、」
「ごめん、なんかよくわかんないこと言っちゃったね。忘れてよ。あたしらしくないや、こんなの」
頭をかいてカルが笑った。
「……そんな寂しそうに笑わないでよ」
「別に寂しくなんか……」
「私にとってマリイは仕事仲間だし、恋人だし、歌とかいろいろなことの先生だったりするけど、友達じゃないの。友達にはなれないの」
戸惑うカルの目の前で、温まって薄紅色の頬でミクが微笑んだ。
「だからね、カルは私の一番の友達なの。解った?」
ミクの笑顔を受けてカルがにいっと口の端を吊り上げる。
「何言ってんの? あたしだって先生でしょ〜? 男の攻略法上級者編、教えて上げようか?」
「いえ結構です」
「早ッ! そして容赦ない!」
「そういうの、教えてもらわなくてもいいから。ひとつずつできるようにしていくから大丈夫」
「そう言われたんだ?」
ためらいがちに頷いたミクを見て、カルが大きくため息をついた。
「はぁ〜。まあいいや……。でもさ、あんた子供とかどうすんの? ちゃんと話したの?」
「う……」
ミクが視線を泳がせて小さく呻く。
「あんた子供すごい好きじゃん。欲しいんでしょ?」
「……うん……」
「じゃあちゃんと話し合わなきゃダメじゃん。ミクだけじゃなくて向こうも子供が欲しいって思ってくれないと、どんだけやることやっててもいつまで経っても子供できないよ?」
「うぅー……」
半ベソをかきながら唸るようにミクが続ける。
「でも……今はまだ……私の気持ちの整理がつかなくて……」
「あんたの気持ちの整理って何よ」
「なんか……なんて言えばいいのかな……、もっと自分に自信? が持てたら……」
「それってつまり、元カノが気になるってこと? あんたまだそんなこと言ってんの? マリイさん、あたしから見てもあんたにメロメロじゃん。ちょっと可哀想なんじゃないの」
「えっと、その、違う……。相手の問題じゃなくて、私の問題なの。でも、ごめん。うまく言えない……」
雨に打たれる子犬のようにしょぼくれたミクにこれ以上何か言う気にもなれず、カルは一度肩を竦めてからミクをぎゅっと抱きしめた。
「まあ、あんたらの問題だから、納得がいくようにすればいいんじゃない。あたしはミクがしあわせならそれでいいよ」
「うん。ありがと、カル」
ミクもカルを抱きしめて 小さく鼻を啜った。
店が混み出す夕方前にいつもの酒場を訪れたミクとがくぽは、3日間ゆっくり休んだおかげで回復したことと、迷惑と心配をかけたことに対する謝罪を述べた。
マスターから快気祝いだと言って早めの夕食をご馳走になり、ちらほらと客が増え始める時刻になったため店を出ようとしたときだった。
「そうそう、ミクに頼みがあるんだ」
マスターが少量の酒を入れたコップを3つ、水を満たしたコップをひとつミクの前に並べた。
「最近女性客が増えてきたんでね、デザートみたいな酒を置こうと思うんだが、ミクに味見をしてもらおうと思ってな」
「私でいいの?」
「酒の好みが決まってない若い娘さんって言ったら、一番身近なところがミクなんだよね」
「味の違いが解るかどうかわかんないけど……」
ひとつ目の酒を口に含んでしばらくしてから飲み干した。水で口の中をゆすいでからふたつ目の酒を口に含む。
「酸っぱい!」
「ははは、甘酸っぱいって言うかと思ったらミクには酸っぱさの方が強く感じられたか」
しかめっ面で水を飲んでから、最後の酒を口に含む。
「……あ。甘くておいしい」
「そうかい」
「うん。最初のはすっきりしてて飲みやすいけど、デザートみたいなお酒っていうならこっちかな」
酒の繊細な味の違いまでは解らなくても、大雑把だが的確な感想を述べる。酒にうるさくない女性客がターゲットなら、概ねミクと同じ意見になるだろう。
「じゃあ、お礼にミクにはこれをあげようかね」
「え?」
「最後に飲んだ酒だよ。蜂蜜酒(ミード)って言うんだが、試しに仕入れたヤツだから量が少なくてね。店用には改めて仕入れるから、これは家でマリイと飲んだらどうだい」
「マスター、ご馳走になった上にいただいてばかりでは……」
それまで黙って聞いていたがくぽが慌てて蜂蜜酒のボトルを突き返そうとしたが、
「水くさいねえ。ミクは俺にとっちゃ娘みたいなもんだし、それにこのボトル開けちまったし。どうせなら味が落ちる前に飲んでもらった方が酒もしあわせってもんだろ?」
マスターがウインクしてボトルを押し返した。
「はあ、まあ……。じゃあ、ありがたくいただきます」
押し切られたがくぽが改めてボトルを受け取って頭を下げる。
「あ、あとね。マリイにも頼みがある。今度店の模様替えをするから手伝ってくれないかね。ちょっと朝早いけど大丈夫かな」
「マスターの頼みなら断る訳にはいきませんよ。いつでも言って下さい」
笑顔で席を立つと、ミクも合わせて立ち上がった。
「マスター、ごちそうさま。明日はいつもの時間に来ますのでよろしくお願いします」
「こっちが無理を言って歌わせてもらってるのにごめんなさい。明日からはもう歌えますから!」
「ああ、俺も客も待ってるよ」
マスターに見送られ、すれ違う客に声をかけられながらふたりは店を後にした。
明日から、いつもの日常が始まる 。
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