真空の聲、静謐の旋律
β:初夜15
二週間が過ぎた。
疲労で倒れたこと、それを伝えにきたのがマリイだったこともあり、歌唱隊の中で時の人になったミクだったが、それも数日で落ち着いてそれまでと変わらない日常がすぐに戻ってきた。
いつもの酒場でも常連客たちにとても心配をかけていたこと、そしてミクが思っていた以上に彼女の歌を待っていてくれたことを知った。
ふたりの関係は恋人同士になったからといってこれまでと何かが大きく変わった訳ではない。甘い言葉を囁き合ったりするものの、起床時間が異なるため基本的には寝所は別のままだ。確実に異なるのは、おやすみのキスを毎日するようになったことだろうか。
嵐のような濃密な3日間が過ぎたというのに、呆気ないほどそれまでの日常に戻っていった。
階下の気配を感じながら、がくぽは鳥のさえずりに誘われて目を覚ました。
ミクはそろそろ出かける時間だ。いつもならがくぽはまだ眠っている時間なのだが、マスターに頼まれて酒場の模様替えを手伝うことになっているため、早起きをしたのだ。
いつもは見ることのない、出かける準備をするミクの様子はどうなのだろう なんということはない好奇心で、がくぽは静かにドアを開けて足音を立てないように部屋から出た。二階から階下を見下ろせば、洗い物をしていたらしいミクが小走りに玄関へと向かう。
上から声をかけようとして、ミクがふと足を止めて机に向かったのを見てがくぽはそのまま様子を見ることにした。二階からでは机に向かうミクの背中しか見えない。机の引き出しの奥の方から何かを取り出して、両手で大切そうに持っているようだった。
(……何だ? それほど大きくはなさそうだが……)
握りしめていたのか抱きしめていたのか、がくぽの位置からではよくは解らなかった。ただ取り出した何かがミクにとって大切であるらしいことだけはその扱いで見て取れた。
がくぽが見守る中でミクは何かをそっと引き出しの奥にしまって、玄関に向かおうとした。
「ミク、おはよう」
「えっ?」
階段を下りてくるがくぽの声に、ミクの肩がびくりと震えた。
「おはよう、どうしたの? まだ早いよ?」
「ああ、マスターに頼まれてた仕事だ」
「そっか。じゃあがんばってね。行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
ミクが出ていったドアが閉じるのを確認して、がくぽはミクの机の前に立った。
(一番上の引き出しだったな)
手を伸ばしかけ 数秒の逡巡の後、がくぽはその手を握りしめた。
(……俺だって人のことを言えない……)
彼の引き出しの中には想い出のペンダントが入った箱がある。つい先日まで肌身離さず身につけていたペンダントだ。普段は上衣に隠れていたが、ミクはいつでも彼の胸にあるペンダントのことを気にかけていたはずだ。だが彼女はついにそのことについて、一言も触れなかった。
ミクが引き出しの中に大切にしまっている何かが、『好きを初めて越えた相手』との繋がりを示すものだったとしても がくぽに何かを言う資格はない。
もしミクがまだ相手に想いを残していたとしても、彼女がその相手とがくぽは違うから比べることに意味はないと言えば、彼はミクに訴える言葉を失う。何故なら がくぽは同じ言葉をミクに言ったからだ。
(因果応報とはよく言ったもんだな)
胸の奥にちりちりと燻ぶるものを感じながらがくぽは自嘲した。
ミクはこの言いようのない焦燥感と不安を抱えているのだ。これまでも、きっとこれからも。今のところミクの不安は落ち着きを見せているが、必ずこれから先、何度でもぶり返す。理由は簡単なことだ。がくぽがミクに言ったのと同じことをミクに言われたとして 彼の不安は消えないことを熟知しているからだ。
ならば耐えるしかない。
がくぽは振り切るように机に背を向けると、ミクが用意してくれていたパンにかじりついた。
酒場には板などを積んで作られた小さなステージがあるが、1年ほど前に即席でその場に作られたために単純に客席数を圧迫した。
純粋に酒を飲みにくる客の他に、ミクの歌を聴きにくる者、マリイ目当ての若い女性客などが増えたために客席数が足りなくなっていた。そのため配置換えをして客席数を増やし、動線をよくしようという訳である。
それほど広い店ではなく、早朝からマスターと二人で始めた作業は昼前の終了を目指していたがそれよりもだいぶ早い時間に終えることができた。
店先にはまだ準備中の札をかけたまま、がくぽはマスターに出された果汁で味付けをした水を飲んでいた。
「なあマリイ、最近ミクがきれいになったと思わないかい」
嬉しそうにマスターがカウンター越しにがくぽに声をかける。
「え……」
「え、じゃないよ。あんたがミクを『女』にしたんだろ?」
何を今更とぼけているのかとでも言いた気なマスターの言葉に、がくぽが盛大にむせこんだ。
「……、マ……、ちょ……」
「この前ミクが3日間休んだときだろ? お祝いのつもりで蜂蜜酒をプレゼントしたんだけど、あれ、違ったか?」
「待っ……、マスター、ちょっと勘弁して下さいよ。私は……」
ようやく落ち着いたがくぽが赤い顔のままで取り繕おうとしたが、マスターがまあまあと手で収める仕草をして、
「あー……俺も客商売だから解るんだけど、俺とふたりきりのときくらい役を演じるの、やめてくんない? 俺も酒場の店主を演じてるからお前が言うなって思うかもしらんけど」
いつもにこやかなマスターの顔が真剣そのものになる。
「あんた、何者だ?」
殺気がある訳ではない。威圧感がある訳でもない。それなのに、言い逃れできる空気を微塵も感じさせない。根拠など何もない。ただ、マスターの前で一切の嘘は通用しない そう確信した。
「私はただの吟遊詩人で、ミクの歌声に魅了された僕に過ぎませんよ」
それがすべてではないが、そこに偽りはない。いつもの吟遊詩人の笑顔で微笑んでコップを口元に運ぶ。
「ふぅん……でもあんた、ここに来る前からミクと顔見知りだっただろ?」
コップが唇に触れる寸前で止まる。
「マスター、何を……」
「最初にあんたが店に入ってきたとき、歌ってるミクをまっすぐ見てたからさ。最初からミクがそこにいるのを知ってて、ミクが目的で来たって感じだったから、あれ? って思ったんだよ。今はそういう客もいるけど、1年前はそういうのはなかったからねえ」
1年前、森を後にしたとき ミクと一緒に王国には戻らなかった。がくぽは旅の吟遊詩人を装うために準備をしてから王国へと戻ったのだ。宿を取り、数日間そこに滞在してから偶然を装ってミクが歌う酒場へと向かった。がくぽは何日か客として酒場に通い、ミクに声をかけたのだ。
細心の注意を払い、慎重に行動したはずだった。それなのにマスターにはすべて見破られていたのだ。がくぽはその洞察力に舌を巻いた。
コップを唇の手前で止めたままがくぽが言葉を失っていると、マスターが肩をすくめていつもの飄々とした顔で続けた。
「ま、なんか訳ありっぽいのも普通じゃないんだろうなってのも解るし、ミクが幸せならあんたがどこの誰でもいいけどね。言っとくがミクを泣かせたら、ウチの常連客はただじゃおかないから覚えといてくれ」
それはがくぽも重々承知している。この酒場の客がどれほどミクをかわいがっているかは見ていれば解る。がくぽが吟遊詩人としてこの店で歌えるのも、ミクの存在が大きい。
「マリイがここに来てから1年くらいかね? 一緒に暮らしてるくせに今までよく手ぇ出さずに来たもんだ。どっか身体でも悪かったのかい」
「いや……その……」
「あー、すまん、いらんこと言っちまった」
言葉に詰まるがくぽにマスターが頭をかきながら笑った。何と言っていいか解らずに、がくぽが水を一口飲んだ。爽やかな味がからからに乾いた口の中に広がる。
「で、そういう関係になったんだろ? それでどうするんだい、結婚とか」
コップをテーブルに置いてがくぽが呆然とする。何を言われたのか解らないとでもいった様子のがくぽに、マスターが首を傾げる。
「何だ? 結婚するならお祝いをどうしようかと思ってるんだが……そういう話はまだしてないのかね」
「あ……それは……、その……」
がくぽの思考がついていかない。ミクと結婚どころか、自分が結婚することを想定したことがなかった。
(俺が? 結婚? 何だそれは……)
考えたことなど一度もなかった。二百年前でさえ、ただの一度も。それは何故だっただろう。
「俺が……、結婚なんて……考えたことも……、考えることすら許されなかったから……」
ルカを求めることを、許されてはいなかったから。
だから、考えることを拒絶した。考えたら心を病んで身を滅ぼすだけだ。
「ふぅん? じゃあ今考えればいいじゃないか。あんた、ミクと結婚したいと思うのかね」
「それは……」
言いかけて、口を閉ざす。
現状において、がくぽはミクと同居している。結婚の事実の有無に関わらず、ふたりの関係性に変化があるとは思えない。
ただ、結婚とは公的な契約だ。つまり 結婚すれば、公的に『ミクは俺の女だ』と言えることになる。
ふと脳裏に孤児院で見た、笑顔で赤子をあやすミクの姿が鮮やかによみがえる。もし自分の子供を抱いて微笑んでいるミクの姿がすぐそばにあったなら 。
ミクの心に知らない男の影を見てしまった今、そしてまだ彼女の心にその男が生きている可能性があることを知ってしまった今 その公的な契約は、がくぽにとって非常に魅力的だった。
だが、それらはすべてがくぽの都合だ。ミクはどう思っているだろう。
「それは……、俺はまだミクに気持ちを疑われてる……。とても結婚なんて……」
がくぽ自身も気付かぬ内にマスターに弱音を吐露していた。コップを傾けて水に映る自分の情けない顔を見て、藤色の髪の吟遊詩人がため息をつく。
(ははぁ、一年もモタモタしてたのはその辺が原因かね)
少しずつ心の内を見せ始めたがくぽの言葉を静かに待ちながら、マスターも水を一口飲んだ。
「疑われてる? どこからか知らんがわざわざミクに会いに来たあんたを?」
「……それは……。恋人が目の前で死んでしまって……自分を見失っていたときの俺をミクは知っているから……。だからまだ、俺が心を残してるんじゃないかと疑っていて……、ミクのおかげで立ち直れたのに、信じてもらえなくて……」
(ああ……ミクが北の小国に3ヶ月慰問で行ってたときか?)
ミクが聖剣に選ばれたことも、3ヶ月間の訓練を経て森へと赴いたことも、公にはすべて北の小国への慰問に行っていたことになっている。マスターもそう聞かされていた。
「その亡くなった恋人とは結婚とか考えなかったのかい」
「……、……。身分が……。とても手の届くような相手じゃ……」
コップに映る自分の顔を見ながら、がくぽは素直に答えている自分に驚いていた。ミクにさえ見せない弱音も、マスターの前ではこんなにも簡単に吐き出してしまえるのは何故だろう 考えて、すぐに思い当たった。
(祖父に似てるのか……)
表情も声も話し方も何もかも、ひとつとして祖父を思い出させる要素などない。ただ黙って自分のすべてを受け入れてくれるような安心感が、かつて独学で魔術を学ぼうとしたがくぽを見守ってくれていた祖父を感じさせてくれる。
懐かしい気配に、がくぽは吟遊詩人でもない、伝説の魔術師でもない ただのひとりの少年に戻っていく。
「どんなに気持ちを伝えても疑われて……。自分は代わりなんじゃないかとか、自分よりも昔の恋人の方が好きなんじゃないかとか……。どうしたらいいのか、もう解らなくて……」
黙って聞いていたマスターがふぅんと腕組みをする。
「ミクになんて言ったんだい」
「好きだ、と……」
「それ何回言った?」
「え……。さあ、覚えてない……」
「昔聞いた話だけどな、女は男の百倍欲しがるっていうのがあって、例えば男が1回好きだと言えばいいと思ったら、女は百回好きだと言われないと満足しないって言うぜ?」
「百回!?」
「そうそう。だからとにかく数をこなさなきゃ駄目だし、逆に言えば1日に1回しか好きと言わない本当に好きな男より、1日に百回好きだと言ってくれるどうでもいい男に女は流されるって訳だ」
「ほとんど催眠術に近いんじゃ……」
「まあ、実際やってみたけど本当だったな。俺、全然相手にされてなかったけどかみさんに1日百回は好きだって言ったし。ラブレターなんか1日に何通書いたっけ?」
「え!? 奥さん!? 本当に!?」
酒場に1年通ったが一度もマスターの奥さんなど見たこともなければ話を聞いたこともない。あまりのことにがくぽは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「失礼な、俺だっていい年だよ。嫁さんくらいいるっつうの。ついでにバカ息子が四人いる。もうみんな成人してて、あちこちでそれぞれ修行してるんだよ。かみさんは一番下の息子と西の国に行ってて、たまーに帰ってくるよ。こっちは会いたくて仕方ないってのに」
拗ねた子供のようにマスターが唇を尖らせた。
「ま、だからマリイも1日百回くらい好きだって言うつもりでいれば、いつかミクにも届くんじゃない?」
軽いノリで言われてがくぽが黙り込めば、
「届かないなら届かないで、ウチのバカ息子は喜ぶけどね〜」
「は!?」
「一番下のがミクと年が近くてね、昔っからミクにメロメロだったんだよ。まあミクもああだから全然気付いてないみたいだったけど。うちは娘がいないから、ミクが俺の娘になってくれたらそりゃ嬉しいけどね」
マスターが涼しげな笑顔で容赦なく煽り立てる。
「ウチの常連客はみんなミクを家族みたいに大切に思ってるからさ、ミクをどうこうしようってのはいないけど、最近はミク目当ての客も増えてきたし、モタモタやってる間に横からかっさらわれても知らねえよ?」
もしそれでミクが幸せになるというのならがくぽは黙って見守るだろう。だが もしミクを不幸にするような男だったら?
ざわりとした。全身の感覚が一気に臨戦態勢に入る。一瞬血の気が引くように視界が暗くなったかと思えば、心臓が騒ぎ出すのと同時に急激に視界が鮮明になる。
居ても立ってもいられずにがたりと椅子を蹴って立ち上がった。
「早い時間だし、走れば大聖堂の捧歌に間に合うんじゃないか?」
捧歌とは毎朝歌唱隊が大聖堂で歌う儀式である。一般に開放されており、その時間に大聖堂へ行けば誰でも聴くことが可能だが、日によっては混雑することもある。
がくぽはまだ大聖堂で歌うミクを見たことがない。彼の知らないミクの姿を、『初めて好きを越えた相手』は知っているのだろうか。
マスターの言葉に背中を押され、がくぽは弾かれるように店を飛び出そうとした。
「マリイ!」
呼び止められて足を止める。
「がんばれよ」
振り返ったがくぽは笑顔で応え、そのまま大聖堂に向かって走り出した。
王国の中心にある大聖堂は孤児院のある地区からでは少々距離がある。飛行魔術を使う訳にもいかず自分の足で走ったがくぽは息を切らせて大聖堂の前で足を止めた。
前回来たときは聖歌祭の最中で人混みに押されてまともに見ることも中に入ることもできなかったが、改めて平時の大聖堂を見上げてみれば 二百年前のまま変わらずそこにある姿を見て思わず感慨に耽った。
(大聖堂はあのときのままか……)
息を整えてから大聖堂の入り口へと向かう。門番に会釈をして美しい声が漏れ聞こえてくる扉を開いた。
荘厳なステンドグラスを背景に、雛壇に並ぶ少女たちの澄んだ声が大聖堂を満たしていた。
座席は半分ほどが埋まっており、がくぽが空席を探して周囲を見回したとき ひときわ美しい、煌めく流れ星のような歌声が響きわたった。
いつもの聴き慣れているはずのミクの声は、大聖堂の反響効果でよりいっそう深みを増していた。まるで流星の雨の中に立ち尽くしているような錯覚さえ起こす。
(まるであの時の……)
立ち尽くしたまま、がくぽは雛壇で歌うミクを見つめた。かつて孤独な森の中で見た流星群を思い浮かべながら、ただまっすぐにミクだけを見つめていた。
二百年前、大聖堂で歌うのは聖女ひとりだけだった。今は十数人の少女たちが合唱しているというのに、彼の耳に届くのは 彼が求めている声は何よりも透く澄んだ流星の歌声だけだ。
まるで世界中にふたりきりしかいなくなってしまったかのような感覚に陥っていると、一瞬ミクと目が合い 微笑んだような気がした。
いつまでもこの歌声を聴いていたい 。
そう想いながら、がくぽはその場に立ち尽くしていた。
歌が終わり歌唱隊が舞台袖に下がってしまうと、聴衆は余韻に浸りながら席を立ち、入り口付近に立ち尽くしているがくぽを避けて大聖堂を後にした。
誰もいない雛壇を眺めながら、がくぽは遠い昔に思いを馳せた。
二百年間世界から切り離された自分の殻に籠もり続けていた間に、人々はいくつもの世代交代を繰り返し、彼の本当の姿を知る者はミク以外に誰もいなくなってしまった。時代は変わり、世の中は変わってしまった。
それでもこの大聖堂は二百年前のあの日のままで、歌が人の心を震わせる力を持っていることも二百年前と変わらずに確信している。
だが 大聖堂で歌う聖女はもう、どこにもいない。彼女は伝説になってしまった。
同じく伝説となっていた魔術師は、伝説の中に名前を残して心を現世に帰したのだ。彼はもう、伝説の人ではない。この世に生きる、ただの人間だ。
ならばもう 変わらなければいけない。
失うものなど何もなかったあの頃の自分ではない。今はもう、守りたい大切なものを見つけてしまった。かけがえのない、何でもない日常が愛しくてたまらない。
もう二度と手に入れることはないだろうと思っていた、愛しい人のいる平凡な日々。これから先も続いていくだろうと信じられる、そんな日常。
ミクがいてくれる未来。
(これから先も、ずっと……)
「マリイ!」
いつの間にか誰もいなくなっていた大聖堂にミクの声が響き渡った。
我に返ったがくぽが声のする方を見れば、ミクがすぐそばで心配そうに見上げていた。
「途中で入ってきたの、すぐ解ったよ。いつも来たことないのにどうしたの?」
「あ……それは……」
何をしにここへ来たのか、ミクに何を伝えようとしたのか。
勢いに任せて飛び出して来たものの、いざミクを前にしてしまうと言葉が出ない。先日想いを告げたときも彼女にとっては突然すぎて戸惑ったはずだ。今ここで結婚について触れたとして 同じように困惑させてしまうのではないだろうか。
あのとき、ミクはひどく困ったような顔をして泣きじゃくった。またあの顔をされたらと思ったら、がくぽはとても想いを言葉にすることができなかった。
「ミクに……、逢いたかったから……。どうしても、すぐに……逢いたかったんだ」
飲み込んだ言葉を他の言葉に置き換える。
がくぽの葛藤を知る由もないミクは、純粋にその言葉をまっすぐ受け止めて嬉しそうに笑った。
どこまでも眩しくて清しい、あどけない笑顔に見とれていると、
「あのね、みんなが今日は先に帰っていいよって言ってくれたの。だから一緒に帰ろ?」
ミクががくぽの腕を揺さぶった。
「そうだな」
がくぽも笑って扉へと向かう。
ふたり揃って門番に会釈をし、大聖堂を後にする。
「あれからちょっと考えてたんだけど」
「うん?」
「好きと愛してるの違い」
「ああ」
「楽譜見てて思ったの。歌みたいだなあって」
「歌?」
「例えば……『好き』は楽譜の1小節なの。それで、1小節の積み重ねで曲になるでしょ? だから、『愛してる』は歌になるの」
「そうか。じゃあ俺はまだお前に『好き』しか伝えられてないんだな」
「え?」
「なるべく早急に完成させるようにする。この前歌った作りかけの お前のための歌を」
がくぽがミクに想いを告げた夜に歌った、あの歌を。
「うん、楽しみにしてる」
がくぽを見上げて微笑んだ。
大聖堂から家までは少し距離がある。ふたり並んで歩きながら ミクが左手を伸ばしておずおずとがくぽの右手の小指に触れた。震える小さな手を、大きな手が包み込む。
ミクが再び見上げれば、藤色の眼差しはまっすぐ前を向いたままで ぎゅう、とミクの手を握りしめた。小さな手が嬉しそうに握り返す。
「ねえ、お昼どうする?」
「何か食べたいものはあるか?」
「んー、どうしようかなあ……」
「たまには一緒に作るか」
「うん!」
昼食の献立について歩きながら話し合うような、なんでもない日常。そんなふたりを、正午にはまだ早い太陽が優しく穏やかに見守っていた。
終
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