全部だきしめて
2.
夏休みを間近に控えた7月は、朝からすでに暑い。照りつける強い日差しが容赦なく肌を刺してくる。それでもまだ登校する生徒もまばらな早朝の校舎の廊下は、静けさに包まれたまま、まだどこかひんやりとしていた。
松木ひなたが登校するのは8時を過ぎたくらいで、この時間はまだ彼女のクラスの生徒は誰も登校していないか、部活の朝練で教室にはいない。そのため教室の鍵を職員室に取りに行くのは彼女の日課になっていた。それでも一応は教室に向かい、開いているかどうかを確認するのが彼女らしいところだろうか。
カラ……
教室の扉がすんなり開いたことに少々戸惑いながら、松木はそっと教室に入ろうとした。
瞬間、
「お……おはようっ」
ためらいがちに挨拶しながら彼女の席の方へやってきたのは、背の高い男子生徒……長瀬一だった。
「おはよう」
何だろうといぶかしみながら、松木はカバンを机の上に置いて挨拶をした。
「あ、あのさ」
一見すれば挙動不審ともとれる様子で長瀬が松木に差し出したものは、小さな白っぽい缶。
”ロイヤルミルクティー”
そう書かれていた。
「昨日のお礼……だけど、これ好きかなぁって……」
長瀬は顔色を窺うように……否、その必要もないほど、松木の瞳が輝いていた。
缶を受け取って嬉しそうに頬擦りする彼女に半ば呆れながら、
「松木って紅茶好きなの?コーヒーとかより」
「うん、大好き♪」
コーヒーも好きだけどね、とフォローを入れつつ彼女が微笑んだ。
「笑われるかもしれないけど、ティーポットでちゃんと葉っぱから紅茶を入れて……蒸らしてたりすると、何だか落ち着くの……みんなに優しくしてあげられるような、そんな気がするの」
穏やかであたたかい、夢見るような笑顔で語る松木がとてもしあわせそうで、こちらまで優しい気持ちになっていくようで、長瀬は微笑み返した。
そんな彼の笑顔を眼鏡越しに、不思議そうに見つめていた松木だったが、廊下から聞こえてくる声にふと我に返った。
「あ……っ、じゃあ」
別にやましいことをしているわけではないのだから、慌てて席を外すこともないのだが、どうにも一緒にいること自体がうしろめたかったのか、長瀬は速やかに松木に背を向けた。
「長瀬君!」
呼び止められて肩越しに振り向いた。
「ありがとう」
嬉しそうにそれだけ言うと、すっと視線を戻してしまった。
他の生徒たちが教室に入ってきたため、長瀬は自分の席に戻って、ちらりと松木の方を見た。机の上に置いたままのカバンをサイドのフックにかけて、彼女が腰掛けるところだった。その顔にはすでに一切の表情がない。
(あ……そうか)
その他大勢がいないところで、一対一で自分の好きなことに関してならそれなりに話をするのだろう。あるいは、人ごみが嫌いなのかもしれない。
(また明日も早く来ようかな……)
松木の、今まで見たこともないような笑顔を思い出して、長瀬はそっと思った。
放課後。
(俺っていつも貧乏くじな気がするなあ……)
長瀬はひとり体育館に向かって歩きながら呟いた。
何の事はない、誰が保健のノートを体育館にある教官室に持っていくかでジャンケンをして、見事にひとり負けしてしまったのである。人はそれを貧乏くじとは言わない。
本当は今日は松木を図書室にでも誘おうと思っていたのだが、彼の保健の担当教師は話し出すと長いので、捕まったら最後、松木を誘うことはできないだろう。
(は〜ぁ……。でも俺、図書室に誘ってどうするつもりだったんだろう)
図書室に紅茶の本があったのでそれを教えようと思ったのだが、考えてみればわざわざ一緒に図書室に行かなくてもいい訳だし、その前に紅茶好きの彼女ならすでにその本を持っている可能性だってあるのだから。
めんどくさそうにノートを抱え直して体育教官室のすぐ横に差しかかったとき、
「松木さん」
教師の声に、長瀬は思わず身をこわばらせ、内側から見つからないように窓のすぐ横の壁にはりついた。
「ひとりですか?他の3人はどうしました」
そういえば。
昨日、松木は帰り際に掃除当番表を持っていたような気がする。ということは彼女は体育教官室の掃除当番な訳だが……4人の班であるにも関わらず、そこにいるのは松木ひとりであるらしかった。
「……来てませんか?」
静かな声で松木が逆に問い掛けた。今朝の紅茶を語る彼女とはまるで別人のような、心にすきま風が吹くような、冷たい声で。
松木と同じ班の残り3人の内、ひとりは今日は休みだが、あとのふたりはそれなりの問題児だ。掃除をサボるくらいは日常茶飯事であろう。
髪を茶色く染め、ピアスをし、いつも真っ赤な口紅を塗っている森と、外見を飾りはしないがとにかく口が悪い守田はいつもつるんでいたはずだ。授業中騒ぐのも目に余るものがあるし、いい機会だから教師に訴えれば……心の底で意地悪く笑った長瀬の耳に届いた言葉は、意外だった。
「さあ? ……私は存じません」
…………え?
「そうですか」
教師もその一言で済ませてしまった。
「掃除終わりました」
「お疲れさん」
それ以上松木が何か言う気配も、教師が詳細を問いただす様子もない。
教官室から出ようと扉に近づく松木の気配を感じて、どうしようかと思った長瀬だったが、身を隠す間もなく彼女と出くわしてしまった。
「あ……っ」
「ご、ごめんなさい」
ぶつかりかけてお互いに身を引いて相手を確認した上で、うろたえる長瀬よりも早く松木の方が謝った。
そのまま立ち去ろうとする松木の腕を捕まえて、長瀬は半ば自棄気味に、
「す……すぐ用事終わるから、ここで待ってて!」
相手の了承を得ぬままで教官室にすべりこんだ。
「保健のノート持ってきました!」
一礼して教師にノートを押し付けると、捕まる前に一目散に逃げ出した。
教官室に取り残された教師が、その後姿をあっけに取られながら眺めていた。「どうしたの?」
自分を呼び止めた長瀬に、松木は素朴な疑問を投げかけた。
「ああ、えっと。図書室に紅茶の本が入ってたんだけど、知ってるかなと思って」
「そうなの? 学校の図書室ってあまり行かないから……」
少し意外な感じがした。外見優等生な松木のことだから、本の虫といったイメージがあったのだが、学校の図書室はあまり活用していないようだった。
「本とか好きそうだと思ったんだけど……」
「本は好きだけど、学校のはね。たいてい近くの図書館に行っちゃうし」
学校から割と近くに、それなりの大きさの図書館がある。長瀬はまだ利用したことはないのだが、試験前はここの学校の生徒がその図書館に集まるという話を聞いたことがある。
「みんなそこの図書館、よく行くよなあ。俺は場所知らないけど」
「……これから一緒に行く?」
思いもよらぬ誘いに、長瀬は一瞬息が止まった。
「よければ連れてってくれるとうれしいな」
舌をかまずに台詞を言えたのは奇跡だったに違いない。
教室に一度戻って下校の準備をすませると、ふたりは裏門に向かった。図書館に行くなら正門よりこちらのほうが近いのだ。あまり日の当たらぬ裏門側は涼しい。
「あれ? 猫が鳴いてる?」
かすかに聞こえた鳴き声に、長瀬が足を止めて辺りを見回した。
「ああ……あの子。よくここら辺で遊んでるの、きっと野良だろうね」
彼女も足を止めると、生い茂った雑草の間から、真っ黒な子猫がぴょんと飛び出してきた。子供特有の畏れを知らぬ、あるいは無邪気さで人間たちの足元にまとわりついて、愛らしい声で鳴いた。
にゃぁ〜……
「よしよし……ごめんね、今日は何もないの」
子猫の頭を撫でながら呟く彼女の傍らに立って、長瀬はその光景をしばらく見守っていたが、
「松木、猫派?」
「うん猫」
「俺も猫派だよ」
紅茶以外の接点をひとつ見つけて心躍っていたが、外見だけは平静を保っていた。
その光景を刺すように睨みつける視線にも気づかずに。