真空の聲、静謐の旋律

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このお話はβルートエンディング後のエピソードになります。
先に本編後書から続くβルートをご覧になることをおすすめいたします。

   β:巡り音の箱1

 大聖堂の鐘に近いところだろうか。長い階段を登りきった奥の部屋の扉の前で、がくぽは騎士団長・カイトとともに沈黙のただ中に居た。わざわざ会話の糸口を探す気にもならず、がくぽは黙ってミクが入っていった扉を見つめている。
 ミクの『作りたいもの』の概要を聞いたがくぽはそれまでの魔術学習方針を変え、それに必要と思われる知識・技術を優先的に教えた。ただし、『作りたいもの』のために直接的な技術提供はしていない。これまでに学んだ知識と技術から、ミクが自分で作り上げたものである。
 魔術を使用した道具は過去がくぽが開発したものなどがあるが、それらの製造・販売は教会が認定した店に限られており、製造技術の保守義務と製造・販売数量の報告などが義務付けられている。
 そのため、今回ミクが作ったものも一般の市場で売るなら教会の許可を得なければならない。今日はその製造・販売申請のために司教に謁見を願い出たのである。
 謁見はミクひとりで行われるため、がくぽは司教に謁見することはできない。扉の前でただミクが出てくるのを待つばかりである。
「……あなたの噂は聞いている」
 沈黙を破り、青い髪の騎士団長・カイトが口を開いた。
「吟遊詩人マリイ殿。2年ほど前からミクと組んで歌っているとか」
「恐れ入ります」
 がくぽは帽子を胸に深々と頭を下げる。
「あなたは以前この国に来たことがおありか?」
「……昔、少し」
「出身はどちらか?」
「根無し草です。どこで生まれたのかもわかりません」
「楽器はフィドルを好まれるとか。フィドルを扱う吟遊詩人はこのあたりでは少ないと聞くが、どこかで習われたのか」
「独学です。目立ちたがり屋なので人とは違う楽器を弾きたかっただけですよ」
「……おいくつだったか」
「26になりますか。ずいぶんと質問攻めですね?」
 がくぽの声のトーンが一段低くなる。
「失礼、不躾だったようだ。では最後にもうひとつだけ答えていただきたい」
 カイトは緊張した面持ちでまっすぐにがくぽの藤色の瞳を見た。まるで射抜くかのように。
「……この髪に見覚えはないか」
 カイトが青い髪をかきあげた。がくぽが沈黙で答える。
「私もあなたもこの国では珍しい髪色だ。私はあなたのような藤色の髪を初めて見るが、他の国でこのような青い髪を見かけたことがおありか?」
「……さあ、どうでしたか。髪などいくらでも染められますから」
 がくぽが帽子を目深く被り直す。
「騎士団長殿。何をおっしゃりたい?」
「……ただの暇つぶし……、いや、素性の聞き取り調査とでも言うべきかな。ミクは私にとってかわいい弟子みたいなものでね。もしミクがおかしな男に騙されているのであれば、今ここで斬って捨てるべきかと思っていた」
 カイトが笑ってみせたが目の奥は笑っていない。がくぽが肩をすくめてみせる。
「私は歌の女神の下僕にすぎません。騙すなどとんでもない」
 がくぽがいつもの吟遊詩人の笑顔で応える。
「ミクの師匠の剣では受けられる自信がありません、命拾いしました」
「……それはよかった」
 カイトが腰に佩いていた2本の剣のうち、1本をがくぽに投げ渡した。
「抜け」
 がくぽが投げてよこされた剣を受け取るのと同時だった。カイトが白刃を一閃させる。
「……自信がないなどと、よくもぬけぬけと」
 カイトの剣はがくぽが抜いた剣によって止められていた。ぎりぎりと鍔を競り合い、間近く睨み合う。
「魔術師がくぽとお見受けする」
「騎士団長殿も誘導尋問とはお人が悪い。俺の正体を暴いてどうする? 追放か? 処刑か? だが何があろうと絶対にミクを手放したりはしない。絶対にだ」
 しばらくそのまま膠着状態が続いていたが、やがてカイトが身を引いた。カイトが剣を納めるのを見て、がくぽも剣を納めてカイトに渡す。
「……私はあなたに謝らなければならない」
 カイトが青い髪をかきあげる。
「あなたはこれに見覚えがあるはずだ。忘れるはずもないだろう」
 かつてがくぽに手傷を負わせ、ルカが水晶体の中に閉じこもる原因となった神官と同じ髪の色だった。
「かつて私の先祖は罪を犯し、その存在を抹消された。当時の親類は必死になって罪を償うために奔走したと聞いている。あれからずっとこの髪色は出なかったそうだが、この時代に   私にこの髪色がめぐってきたのはどういう縁なのかな」
 カイトが肩をすくめた。
「ミクが森から戻ったときの報告を聞いて、まさかと思ったんだ。慌てて先祖の遺品を漁ったよ。まるで捨てたいのに捨てられないもののように、荷物の奥底の箱からいろいろ出てきた。……その中に、あなたのことが書いてあった」
「魔術師への罵詈雑言でも?」
「まあ、そうだ」
 ふたりして苦笑する。
「下衆な言い方をすれば、私の先祖が聖女に横恋慕したせいでこのような事態を招いた。ただの横恋慕なら笑ってすませるが、神官が   しかも神官の地位を悪用して起こした犯罪だ。それをあなた一人に汚名を着せることになってしまった。私が謝って済むことではないと思うが……」
 跪こうとしたカイトをがくぽが止める。
「……それは騎士団長殿の罪ではないし、もう終わったことだ。気持ちだけありがたくいただいておく」
 カイトを立ち上がらせて、がくぽが苦笑いを浮かべた。
「参ったなあ、騎士団長殿はまっすぐ美しい心根でいらっしゃる。うちの歌姫が憧れるはずですよ」
「ミクが?」
「そりゃあもう。嫉妬に狂う私の身にもなっていただきたい」
 大げさな身振りで話すがくぽに、今度はカイトが苦笑する。
「……お気遣い感謝する。ミクの剣はいかがだったかな?」
「素質もあるのでしょうが、剣を持ったこともないような素人に3ヶ月であそこまで使いこなせるようにするとは。師匠が良かったのでしょう」
「……ミクは本当にかわいい……大事な弟子だ。もし泣かせるようなことがあれば、今度こそ容赦しない」
「肝に銘じておきます」
 がくぽが帽子を胸に、再度頭を下げた。

 3年前、大聖堂で歌った後に当時神職見習いだったココネに連れられて来た部屋に入ると、ミクは中で待っていた司教に頭を下げた。
「司教様、ご無沙汰しております」
 森から戻ったときに事の顛末を報告したときから司教とは顔を合わせてはいない。元々ミクのような一般人からすれば雲の上の人である。時折式典などの時に遠目で見かけることはあるが、このように一対一で対面で話すことなどまずない。
「久し振りですね。元気そうで何よりです」
 ミクの背側には扉、右手側には窓、奥に大きな姿見。それほど広くない部屋は3年前のままで、部屋の真ん中に小さな机と椅子が2脚置かれているだけだ。
 司教が椅子にかけ、ミクにも座るよう促した。両手で持っていた箱を机の上に置き、ミクも椅子に腰掛ける。
「今日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「堅苦しい挨拶は不要です。あなたには命懸けの勤めを果たしてもらったのに、何の栄誉も与えることができません。せめてあなたの求めることにはできる限り応えたいと思っています」
 ミクが魔術師の森へ向かったことは、向かう前同様伏せられたままだった。そのため与えられた一軒家も架空の実績に対する報酬となっている。
「お気遣いありがとうございます。早速ですが、こちらをご覧いただけますか?」
 ミクが机の上に置いた箱を開け、何かの操作をする。司教が見た箱の中身は赤い別珍の布が張られているが何も入ってはいない。箱全体の容積のうち、半分ほどしか物が入れられないようになっている。
「ミク。この箱は一体……」
「巡り音の箱と言います」
「めぐりねのはこ?」
「はい。作るのに2年かかりましたが、ようやく形になりました。司教様に是非ご覧に入れたかったんです」
「ですが……これは……」
 ただの箱ではないか、と言いかけた司教の前で、ミクが再度箱を操作する。
『ミク。この箱は一体……』
『巡り音の箱と言います』
 先程の会話がそのまま箱から流れ出す。
「これは!?」
『めぐりねのはこ?』
『はい。作るのに2年かかりましたが、ようやく形になりました。司教様に是非ご覧に入れたかったんです』
『ですが……これは……』
 驚く司教の前で箱から繰り返された先程の会話はそこで途切れた。
「……巡り音の箱と言います」
 言葉を失った司教に、ミクが箱の蓋を閉じながら微笑んだ。
「箱の中を少し操作すると、周囲の音を取り込みます。そして取り込んだ音を何度でも繰り返して聞くことができます。音が何度も巡るから、巡り音の箱」
「それを……あなたひとりで作ったのですか」
「いいえ、基礎理論に関しては教えを請いました。ただ作ったのは私ひとりです」
 箱の外見はそっけない、ただの木箱だった。木目にヤスリがかけられ、表面はなめらかになりツヤ出し加工をされている。
「音を入れなければただの小物入れです。装飾を施せば贈り物にいいかもしれませんね」
 にっこりと笑って、ミクが続けた。
「巡り音の箱の製造・販売許可をいただけませんか」
 司教の顔が凍り付く。
「あなたは自分が何を言っているのか解っていますか」
「理解しているつもりです。これを市場で販売するには教会の許可が必要ですよね?」
「……つまり、あなたは魔術に手を染めたと認めるのですね」
「魔術を使用することそのものは禁じられていませんよね? 現に魔術を用いた道具は教会の管理下において製造・販売されています。殊更に魔術を禁忌とされるのは何故でしょうか」
 ミクの真摯な瞳に司教が苦しそうに呻いた。
「それは……」
「魔術は使い方を誤りさえしなければとても便利なものです。私が森に向かったときに渡された着火具も、あれがなければ火を起こすのにも苦労したはずです。人が魔術を畏れるのは魔術について何も知らないからで   正しい使い方を学べばもっと人は魔術の恩恵を……」
「ミク。それ以上口にしてはなりません」
「司教様!」
「本日の謁見の目的はその箱の認可でしたね」
「……はい」
 司教の毅然とした   切り捨てるような態度に反発しかけたが、ミクはこらえて頷いた。まずはミクが開発した箱を市場に出す方が先決だ。
 司教が襟を正して続ける。
「まずはその箱の魔術の理論概要……、いいえ。誰に師事したのか教えていただけますか」
「はい、あの……部屋の前で待ってもらってます。呼んでもよろしいでしょうか」
「……構いません。どうぞ通して下さい」
 ミクが立ち上がり、司教に一礼して背を向ける。扉を少しだけ開けて、その前にいるはずの連れ合いの顔を見た。
「……ミク?」
 扉のすぐ前に怪訝な顔をする吟遊詩人マリイ   がくぽがいた。隣には騎士団長カイトがいる。
「あの、来てもらってもいい?」
「……? いいのか?」
 謁見を申し出たのはミクひとりのはずだった。がくぽがミクとカイトの顔を見比べるが、カイトも困惑気味である。
 扉の前の様子を察したのか、部屋の中から司教の声がした。
「私が許可しました。どうぞこちらにお通しして下さい」
 司教の声を受けてカイトが扉を開けた。がくぽが入室したのを確認して、そのまま部屋に残るべきか退室するべきか迷ったが、司教の仕草を見てカイトは退室して扉を閉めた。
 部屋の中央に置かれた小さな机を挟んで、司教とミク、がくぽが向かい合う。
「あの、紹介します。今一緒に歌ってる吟遊詩人のマリイです」
「……初めてお目にかかります。しがない吟遊詩人のマリイと申します」
 戸惑いながらもがくぽは帽子を胸に跪いて司教に挨拶する。がくぽが立ち上がるのを待ってから、司教も椅子から立ち上がりがくぽの前に歩み寄る。
「……あなたがミクの魔術の師匠ですね」
 司教の言葉にミクはばつが悪そうにがくぽから視線をそらし、がくぽはその一瞬ですべてを察したかのように平然と、
「はい。南で魔術をかじりました。今回はミクがどうしても作りたい物があるというので基礎理論を教えました」
 帽子を胸に当てたままで続ける。
「興味本位でかじった魔術です。本来ならば人に教えるものではないのでしょう。ただ今回は彼女が作ろうとしている物に対して詩人としても興味が……」
「魔術師がくぽ殿でお間違いありませんね」
 断定するように司教が言い切った。ミクが顔色を失い、喉元まで出かかった悲鳴を必死に飲み込む。
 がくぽは眉一つ動かさず、
「……司教殿もお人が悪い。いかにも俺が魔術師がくぽだが、どこかでお会いしたことがあったかな」
 帽子を目深く被り直した。
「いいえ、お会いするのは初めてです。ですがこの箱を作るのに必要な高度な魔術の知識を教えることができる魔術師は限られています。ミクが森から帰還したときの報告にも、魔術師は消息不明としかありませんでした。あのときの報酬に求められた一軒家が魔術道具を作るためのものであるとしたら、ミクは最初からあなたに教えを請うつもりだったと推測できます」
 司教が淡々と述べるのを聞きながら、がくぽは隣に立つミクをちらりと見た。すべて見透かされたミクはうつむいてへこたれている。
「すばらしい洞察力であらせられる。それで、俺をどうされるおつもりか。追放か? 処刑か?」
 カイトに向けたのと同じ問いを投げかける。司教は答えず、
「がくぽ殿。ここが何処かご存知ですか」
 司教の言葉の意味を捉えあぐねたミクががくぽを見上げる。藤色の瞳がどこか遠くを見つめたような気がした。
「……ご存知も何も」
 がくぽがため息をついた。
「思ったより広い部屋で驚いた。主のいない部屋はずいぶんと寂しいものだな」
「え? 何?」
 自分の知らないところで話が進められて付いていけずに混乱するミクの頭をそっとなでて、
「ここはな、かつてルカの部屋だったんだ」
 がくぽが懐かしそうに   どこか寂しそうに笑った。
「司教様?」
「かつてここは聖女の居室でした。その窓から魔術師殿が聖女を連れて飛び出したのです」
「え? ……え?」
「通常窓からは侵入・脱出ともに不可能、入り口は一カ所のみ。監禁するには最適だろう」
「……護衛するのに最適でした」
「そうだったな」
 がくぽが苦笑する。
「それで、その聖女を奪い去った魔術師を前に昔話か? それとも恨み言か?」
 一切表情を変えない司教に、がくぽは凄みすらある笑みを浮かべた。
 がくぽがかつての罪で裁かれるというならそれもいいだろう。だがこの話の流れではミクを巻き込みかねない。それだけは何としても避けなければならなかった。もしもミクに何らかの罪が及ぶというのなら容赦はしないつもりだった。
「いいえ。現司教として魔術師がくぽ殿に伝えなければならないことがあります」
 がくぽの意に反して、司教は穏やかな声で続けた。真摯な瞳がまっすぐがくぽを見つめている。
「まずは邪心を持つ者に神官職を与えた罪。神官でありながら聖女に危害を加えようとした者から、あなたは聖女を護って下さったのに   教会の名誉を優先して永きに渡り不名誉な言い伝えを残してしまった罪。真実を白日の下に晒すこともできず、あなたから魔術師がくぽとしての名を奪った罪。いずれも今更許しを乞えるようなものではないと重々承知しております。その上で申し上げます」
 司教が魔術師の前に跪き、頭を垂れた。
「数々の非礼、心よりお詫び申し上げます。そして……最後まで聖女をお護り下さったこと、本当に……、本当に……心から感謝いたします」
 がくぽの心の中で、時が止まった気がした。
 200年前、がくぽは間違いなく聖女を誘拐した。いかなる理由をつけようが、教会側の立場からすればその事実は変わらない。がくぽもそれを否定したことはない。自分の正当性を主張しようと思ったこともない。
 聖女を奪った件において、いくら汚名を着ようが気にしたことはなかった。
 それを、教会が『魔術師は聖女を護った』として、正当性を認めたのだ。
 一体何が起きているのか、がくぽには解らなかった。誰かが魔術でも使って幻を見せているのではないかとすら思った。
 現司教が   教会における最高責任者が、過去の判断を過ちと認め、魔術師に跪いて謝罪するなどと   これが現実であるとはにわかに信じられなかった。
 呆然とするがくぽの袖を引っ張って、ミクが小声で囁いた。
「よかったね」
 とても、うれしそうに。
 夢でも幻でもなく、これが現実なのだ。
 ミクの声にようやく我に返ったがくぽは、ミクの頭をなでて微笑んだ。そしてその場に跪き、頭を垂れたままの司教の手を取る。
「どうぞ顔を上げて下さい。魔術師がくぽはすでに伝説の中にのみ生きる存在です。今に生きない者の名誉のために、何故司教様が心を痛める必要があるのでしょう」
「ですが……」
「司教様のそのお言葉が聞けただけで充分です。聖女を護ったと認めて下さっただけで、救われる思いです」
 がくぽの本心だった。
 司教を立ち上がらせて、がくぽは改めて帽子を胸に跪いてお辞儀をした。
「もしわがままをひとつ許していただけるのなら……」
 跪いたまま司教を見上げる。
「私を次回の北の小国への慰問団にお加え下さい」
「……がくぽ!?」
「がくぽ殿、それは……」
 聖女を連れ去る前に、魔術師は北の小国の半分を壊滅状態に追いやっている。魔術師の悪名は聖ボカロ王国以上に語り継がれているはずだった。
「私の罪を償いに行かねばなりません。自分で蒔いた種です、自分で刈らねばならないでしょう」
 ミクががくぽの横顔を見上げた。そこには北の小国の話をする度に表情を凍らせたかつてのがくぽはもういない。自分の犯した過ちに向き合う覚悟をした表情だった。
「我が国で一、二を争う人気の吟遊詩人殿の歌声なら、きっと戦で傷ついた方たちの心を癒すことでしょう。こちらからもお願いいたします」
 司教が深く頭を下げる。
「北の小国の慰問についてお願いがあるのですが……」
「司教様! お願いがあります!」
 がくぽが言いかけたのを見て、ミクが本来の目的を思い出す。
「あの、魔術道具を北の小国で売る許可が欲しいんです! この箱もそうなんですけど、今売られている着火具とか、そういうのも!」
 横から割って入ったミクに驚いて、司教の視線がミクとがくぽの顔を行き来する。困惑する司教の様子を見たがくぽが、言葉が足りなさそうなミクを押さえて改めて説明する。
「現状、王国内でのみ販売されている魔術道具の国外での販売を許可していただきたい。これから復興・発展していく北の小国では、今後必要となるでしょう。製造はこれまで通り王国内でのみとし、仕入れ及び売り上げ・在庫に関しては毎月報告する形で管理していけば問題はないかと思われます。……それに、元々この箱は北の小国での慰問のためにミクが作ったものです。どうかご検討いただきたく……」
「良いでしょう」
 がくぽの言葉を最後まで聞くことなく、司教は言った。
「その代わり、販売はあなた方が直接行うことを条件とします」
「慰問団として行く度に販売する……キャラバン?」
「そちらの言い方の方が近いかもしれませんね。王国の目の届かないところでの流通となると、魔術が絡む以上誰にでも任せられるものではありません。その点あなた方なら魔術道具の扱い方も心得たものでしょう」
「あの、司教様。それなんですけど」
 がくぽと司教の取引に割って入っていいものかどうか悩んだが、ミクは思い切って声をかけた。がくぽの視線がどうかしたのかと訊ねている。一瞬躊躇したが、ミクは先刻言いかけた言葉を再度口にした。
「魔術道具を誰にでも任せられる訳ではないのは、魔術の知識がないからですよね? だったら正しい魔術の知識があれば……」
「ミク?」
「それは先ほど申し上げた通りです」
 それ以上口にするなと、そう言われた。教会は魔術そのものを禁じてはいないが、神職者はすべて魔術の使用を禁止されている。教会で保たれる国は教会の教義に沿う。結果として聖ボカロ王国内では神職者以外が魔術を使うことを直接禁じてはいないが、習慣として禁忌とされているのだ。
 人は解らないものを畏れ、差別する。正しく知れば、恩恵を享受し、それを活かすこともできる。魔術師への差別もなくなるはずだった。
「ですが、魔術が正しく普及すれば、もっと……」
「ミク、黙れ」
 がくぽの驚くほどに冷たく低い声に、ミクがびくりと身体を震わせて沈黙する。
「司教殿、申し訳ない。帰ってからよく言って聞かせる。ここは俺に預けてもらえないだろうか」
「何で? がくぽだって……」
 魔術が人の役に立つということを証明したいと語っていた。そのためにはまず魔術が正しく人に理解される必要があるはずなのに、がくぽはミクの支援をするどころか冷たく突き放したのだ。喜んでくれると思ったものを否定されて、ミクが今にも泣き出しそうな顔をする。
「……ミク。魔術とは何だ」
 それは最初に習ったことだ。
「魔術とは……、世界を構築する元素と力と理論を理解し、行使する力」
「そうだ。では力とは何だ」
「力そのものには善も悪もなく、使い方次第で人を活かしも殺しもするのは火も水も同じ事」
「模範解答だ。お前は本当に優秀な弟子だ。だが……俺の教え方が悪かったかもしれん。お前は重大なことを忘れている」
 困惑するミクにがくぽが向き直る。どこか悲しそうな藤色の瞳がミクの胸に突き刺さった。
「手に入れた力に対して敬意を払う人間は稀だ。例えば、金でも地位でも権力でも……武力でもいい。それらを手にした者はすべてがそうとは言わんが、大抵はその力を己の欲望のために行使する。一兵卒から軍を指揮するまでにのし上がった者なら武勲を笠に着るだろうし、領主の地位を得た者ならその地位をいいことに好き放題する輩もいるだろう。金でも地位でも……このあたりなら直接その力で人を殺めることはないだろうが、魔術となると話は変わってくる」
 がくぽの言おうとしていることを何となく理解して、ミクが悲しそうな顔をした。それでもがくぽは弟子に噛んで含めるように話を続ける。
「魔術は確かに便利だ。だが同時に人を殺める力を持つ凶器でもある。その力を手にしたとき、平時にその力に対して敬意を払っていられたとして……何かの時にその力を凶器として使うことへの誘惑に耐えられるかどうか。魔術は力そのものだ。手に入れた力の誘惑に勝てる者以外が手にしたらどうなるか、解るな? 力を持つことの責任がどういうことなのか、俺はお前にそれを教え損ねていたようだ」
 ミク以上にがくぽの方が悲しそうだった。魔術を人の役に立てようとしていた彼が、どれほどの苦い経験の上で今の持論にたどり着いたのだろう。
 やりきれずにミクががくぽの腕を掴んだ。
「でもがくぽ、私は……」
 うつむいたミクの頭をなでてやる。
「お前は希有な存在なんだ。これだけ便利な力を手に入れておきながら、本当にあの箱を作ることにしか使わなかった。日常生活でもいくらでも使えるというのに」
「……それは、がくぽがそうだったから……」
「祖父がそうだったからな。『必要以上に魔術に依存しない』というのが信条だった。いつも力に対して敬意を払う謙虚な人だったよ」
「……でも」
「でもじゃない。司教殿はそれを理解している。だからお前の主張は受け入れられない。わかるな?」
 頷きつつも不満が残るのか、ミクが頬をふくらませる。頬をつつきたいほど可愛かったが、愛弟子の頭をなでるに留めてがくぽは続けた。
「それに魔術なぞ畏れられてなんぼだ。普及したらありがたみが薄れるしな。あれば便利かもしれんがなくて困るほどのことでもない。稀少だからこそ魔術の価値が上がる。そのおかげで儲けられると思えばそう悪いことでもない」
 おどけて見せたがくぽに、ミクはその裏にあるあきらめと悲しさを感じ取って沈黙した。
 その沈黙を破ったのは、それまで師弟の会話を見守っていた司教だった。
「ミク、あなたは良い師匠を得ましたね」
「時に司教殿。あなたはどちらで魔術を学ばれた?」
 司教の穏やかな笑顔が厳しい表情へと変わり、ミクは突然のがくぽの言葉に混乱する。魔術を禁じているはずの教会の最高責任者が魔術に手を染めているなど、咄嗟に信じられるものではなかった。
「……よくお気づきになられましたね」
「あの箱に関わる魔術が高度である、ということを見ただけで理解できるなら   それはもう魔術師を名乗ってもおかしくはない」
「え? え? そうなの?」
 またしても会話についていけず、ミクが困惑しながらがくぽの腕を掴む。
「……まあ、お前の場合は目的のために魔術を学んだからな。どの魔術が高度になるのかは解らなくても問題ない」
 がくぽとミクの視線を受けて、司教がしばし目を閉じて思案した後、
「……あなた方には伝えておいた方がいいかもしれません」
 静かにため息をついた。
「司教になる資格は神職者としての学びと勤め、人格や人望などありますが……最後に魔術の基本を学びます。そして、魔術という力の誘惑に打ち勝つことが司教になるための最終試練です」
 司教がまっすぐミクを見つめて続ける。
「誘惑に負けた者は司教になる資格を失い、処罰を受けます。魔術は代々司教から次期司教へと口伝され、魔術を学んだこと自体が伏せられます。司教とは教会での最高責任者。地位と権力というふたつの強大な力を得ることになります。司教に必要な資質は、力に敬意を払い謙虚でいられること。力の恐ろしさを理解していること。それに振り回されない鋼の意志。力を持つことの責任がどういうものであるのか、それをよく理解していること」
 つい先刻、がくぽがミクに言って聞かせたのと同じ言葉を司教が語った。
「魔術を学ぶのはその力を正しく理解するためです。邪心から魔術を学ぼうとする者がいれば止めなければなりません。また悪意を持って魔術を行使する者がいれば対抗策を練らなければなりません。何故教会が魔術を禁じているか解りましたか」
 司教の言葉を受けて、ミクが深々と頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
 ミクは純粋に魔術の良いところしか見ていなかった。ミク自身が魔術を人々の役に立てようとしか思っていないため、それを悪用する者がいるということに思いが至らなかったのだ。
「司教様の深いお考えにも気づかないで……勝手なことばかり申し上げました。申し訳ありません」
「解っていただけたのなら良いのです」
 畏まるミクに司教が微笑んだ。
「……さて、巡り音の箱でしたね」
 司教が机の上の箱を手に取る。
「これに関してはまた日を改めましょう。魔術の理論概要、初期投資と作成にかかる行程と費用、販売価格と収益の配分。これらについてまとめておいていただけると助かります。製造・販売の許可はそのときに」
 司教の言葉にがくぽとミクが深々と頭を下げる。
「それと   現在市販されている魔術道具に関する収益の配分ですが」
 驚いたがくぽに司教がにっこりと微笑んだ。
「これまでの非礼を金銭で贖えるとは思っておりませんが、他にできることもありません。それに魔術とは稀少だからこそ価値があり、そのおかげで魔術師は儲かるのでしょう?」
「……司教殿、本当にお人が悪い」
 恥ずかしそうに鼻の頭を掻いて、がくぽはしばらく思案した。
「ではお言葉に甘えて……。これまでの分、金貨200枚。今後は毎年金貨1枚で手を打とう。それ以上はまからん。悪い話ではないと思うが」
 がくぽが提案した金額が相場通りなのかそれ以上なのか以下なのか、さっぱりわからないミクは司教とがくぽの顔を見比べるばかりである。
 司教は小さくため息をつき、
「……解りました。次回までに用意しておきます。次は最初からミクとふたりでお越し下さい。お待ちしています」
 ふたりに退室を促した。
 がくぽは帽子を脱ぎミクとともに再度深く頭を下げた。ミクは司教から箱を受け取って扉へと向かう。
「……本当に欲のない……」
 ため息交じりの司教の言葉は扉を開けたミクの耳には届かなかった。

「やあミク、話は終わったのかい?」
 大切そうに箱を持って扉から出てきたミクにカイトが声をかける。
「はい! また司教様に会いに来ます!」
 嬉しそうに返事をしたミクの背後でがくぽが微妙に嫌そうな顔をした。カイトがそれに気づいてほくそ笑む。
「たまには私にも会いに来て欲しいな。ココネも喜ぶと思うよ」
「ありがとうございます!」
 がくぽの眉間にみっちり皺が刻まれたのを見て、ミクに解らないようにカイトがニヤリとした。一瞬顔をひきつらせたがくぽだったがすぐにいつもの吟遊詩人の表情に戻り、
「ミク。私が持とう」
 ミクが抱えていた箱を受け取った。
「外まで送ろうか」
「いえ結構です」
 カイトとがくぽの何気ないやりとりの裏にあるものをこれっぽっちも感じないミクは、ただ嬉しそうに微笑んでいるだけである。
 カイトに背を向けて廊下の先にある階段を降りようとしたミクを騎士団長が呼び止める。
 不思議そうな顔をしたものの、がくぽを階段前に待たせてカイトの側に歩み寄る。
「はい?」
「君に聞きたいことがあるんだ」
「何でしょう? 改まって」
 ミクが首を傾げ、
「ミク、君は今しあわせかい?」
「はい!」
 カイトの問いに元気よく答えた。
 一瞬の言い淀みもなく眩しいほどの笑顔で答えたミクの頭を撫でて、カイトも笑った。
「それは良かった。引き留めてすまなかったね。あとマリイ殿に今度一緒に飲まないかと伝えてもらってもいいかな」
「はい、もちろん! では失礼します」
 ミクが頭を下げてカイトに背を向け、小走りで吟遊詩人の元へと向かう。吟遊詩人を見上げて二言三言言葉を交わし、階段を下りようとした時。
 ミクの左側にいた吟遊詩人が両手で持っていた箱を左手で持ち直し、右手をするりと下ろした。そこへ吸い込まれるようにミクの左手が包まれる。
 まるで呼吸をするかのようにごく自然に行われたそれに、カイトが小さくため息をついた。
「あー、こりゃマリイ殿に奢ってもらわなきゃなあ」
 ごちそうさまと呟いたカイトの声は、当然ふたりに届くはずもなかった。
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