真空の聲、静謐の旋律

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   β:巡り音の箱3

 ミクの小さな悲鳴が甘い吐息と混ざり合った。
 がくぽの指がミクの額の汗にまとわりつく髪をとり、そのまま柔らかな頬を包む。促されるようにがくぽを見上げたミクが息を弾ませながら微笑んだ。汗をにじませながら頬を上気させるミクの眩しさに目を細めながら、がくぽは乱れた呼吸を少し整えてから唇を重ねた。背中に絡みついてくるミクの細い腕がまだ熱を帯びている。
 何度か唇を返し合い、がくぽはミクを抱きしめたまま隣に寝転んだ。すぐ間近に愛しいミクの顔がある。
「ミク」
「うん」
「好きだ」
「うん」
「それだけか」
「何て言って欲しい?」
 ミクの指ががくぽの言葉を誘うように彼の唇をなぞる。唐突に指先を吸われてミクが甘い吐息をもらした。
「……よかった」
「そうか」
「がくぽは? もうお腹いっぱい?」
「ああ、満足した」
「おいしかった?」
「最高だった」
 がくぽの言葉に満足したのか、ミクが嬉しそうに笑った。その笑顔をがくぽの大きな両手が包む。
「……どうしたの?」
「ミクが笑顔だ」
「うん」
「俺は嬉しい」
「……うん?」
「笑ってくれるようになった。前はいつも泣いてばかりで見ていて辛かった」
「それは……だって、しょうがないじゃない。本当に辛かったもの。でも今はもう辛くないよ?」
「ああ。良かった」
 心から安心したようにがくぽが笑った。ミクの頬を両手で包んだまま、嬉しそうに大切な笑顔を見つめている。
「なんか変なの」
「そうか?」
「んんー……変っていうか……。子供みたい?」
「子供?」
「すごく純粋な笑顔っていうか……?」
 考え込んだミクの言葉をおとなしく待っていると、適切な言葉に思い当たったのかミクの顔がパッと明るくなった。
「そうだ! すっごく満たされてる感じ! お腹いっぱいになった子供みたいな!」
「……そうだな」
 ミクの表現に苦笑する。
「今すごく満たされてる……。ミクが俺の腕の中にいて……、そんな眩しい笑顔を惜しげもなく見せてくれる……」
「どうしたの? 眠いの?」
 がくぽの瞼が重たそうに揺れていた。
「眠い訳じゃ……。ただ暖かくて気持ちいい……」
 そう言いながらうつらうつらと頭が揺れて、ミクの頬を包む手が滑り落ちそうになっている。
「寝ちゃう?」
「寝ない……。今寝るのはもったいない……」
「もったいない?」
「この感じをもっと満喫する……」
「え、でももう……」
 ミクの頬を包んでいた手は枕に滑り落ち、瞼は藤色の瞳を閉ざしてしまった。規則正しい吐息がミクの頬をなでる。
 枕に落ちたがくぽの手を両手で包んでがくぽの寝顔をのぞき込む。時に恐ろしささえ感じるほどの美貌が今は無邪気にさえ思える。
 悪戯心に唇を奪おうと顔を近づけてみれば、何か言いたそうに唇が動いた。息をひそめてがくぽの唇を見つめていると、
「……ん……ミク……」
 自分の名を呼ばれてどきりとする。
「ミク……?」
「うん。なあに?」
「好き……」
「うん」
「好きだ……」
「うん」
「ミク……」
「うん」
「愛してる……」
 心臓が跳ね上がる。胸の奥がきゅんと音を立てるのを聞いた気がした。
「私も愛してる」
 片手はがくぽの手を握ったままで、残る片手で藤色の髪を優しくなでる。額や首筋の汗に絡みついた髪をひとつずつほどいていく。
「ミク……」
「うん」
「……ミク……」
「うん」
 そこでがくぽの寝言は途切れた。しばらく待ってみても次の言葉が紡がれる様子はない。うっすらと開かれた唇から規則正しい吐息がもれるだけだ。
 思う存分がくぽの寝顔を間近で堪能すると、ミクは先程の悪戯心を満たすために再度唇を近づけた。触れるか否かの距離でしばらく待ってみても新たな言葉は紡がれない。がくぽの眠りを妨げないようにそっと唇を重ねた。
 これが物語だったら眠り姫が目を覚ますのに、などと思いながら、深い眠りに落ちていったらしいがくぽの唇を幾度も求めた。眠っているがくぽが応えるはずもなく、悪戯心がミクの耳元で悪魔の囁きをする。
 いつ、どこまで行ったら目を覚ますのだろう。目を覚ましたとき、どんな顔をするのだろう。
 ミクはそんなことを考えながら、うっすらと開かれたがくぽの唇の間に舌を忍び込ませた。すぐにがくぽのそれに触れる。おそるおそるがくぽの舌をなぞってもやはり反応はない。時々息苦しいのか小さな呻き声がする。
(んー……起きないと起きないでつまんないな……)
 眠っているのだから当然がくぽから求められることもない。悪魔の囁きに乗ってはみたものの面白いことにはならなかったなあとミクが身を引こうとしたときだった。
「んん……っ!? んー!」
 それまで何の反応も示さなかったがくぽの舌が急にミクのそれに絡みついてきたかと思えば、そのまま有無を言わさずミクの口の中に乱暴に侵入してきた。驚いたミクが身体を離そうと思っても、いつの間にかがくぽの腕に絡めとられていて身動きが取れない。
「んんー!! んー! んー!!」
 がくぽの胸板を拳で叩いて抗議するミクの両腕は、いとも簡単にがくぽに押さえられてしまう。抵抗も虚しくされるがままだ。
 一瞬だけがくぽの唇が離れた。間近で目が合う。ミクの瞳を確かめるようにのぞき込んだがくぽがニヤリと笑って再びミクの唇を貪った。
「ちょっと……、待って……!」
 何とかがくぽの唇を振り切ってミクが涙目で訴える。
「待てと言われて待つバカがいるか」
「寝てたんじゃないの!?」
「少しな。すぐ目が覚めた」
「いつ!?」
「夢の中でミクの声が聞こえた」
「そこから!? じゃあさっきの、ずっと……」
「起きてた」
「ひどい!」
「どっちがだ」
「がくぽに決まってるでしょ!」
「納得がいかない。先に手を出したのはどっちだ」
「だって寝てると思ったんだもん」
「人の気配を読めないお前が悪い。俺は続きを要求する」
「ダメ! 絶対ダメ!」
「……最中にダメとか言われると傷つくからやめてくれ」
「さ、最中とか何言ってるの!?」
「誘っておいてその態度は失礼だろう」
「だって、そんなの、え? 何で!? さっきまでしてたことは何!?」
「抱いた」
「きゃー!」
「また抱きたい。今すぐ」
「ダメだし! おかしいからその言い分!」
「身体の方はお前と意見が違うようだが」
 ミクの顔が一瞬で赤くなる。
「正直な身体で助かる」
「違うから! ダメだってば!!」
「……傷ついた」
「だから、その……、ダメっていうか、あの……」
「じゃあいいんだな」
「違う……、あの、私……」
 ぐぅ。
「……」
「お腹すいて倒れそうなの……」
「…………」
 たっぷり10秒は考え込んで、
「……解った」
 渋い顔でがくぽが唸った。顔を赤くしたままのミクの額にキスをする。
「このままだと風邪を引くしな。少し待ってろ」
 頭をなでてミクから身体を離し、すぐ近くの椅子にかけてあった布を腰に巻いてベッドを下りた。
「はぁ……」
「どうした。寂しいか?」
 背後に聞こえたミクの大きなため息に振り向かずに問いかける。
「寂しいっていうか……なんか……欠ける感じがする」
「喪失感?」
「うん……私の中にあるはずのものがなくなっちゃった感じ……」
「……」
「いつも一緒にいるし、今だってすぐそこにいるのにねえ? 身体を離すだけでいつもそう……。変なの?」
「……そうか」
 水差しとコップをふたつ持ってきたがくぽが水を注いでミクに手渡す。
「ありがとう」
 がくぽも水を一杯飲んでから、今度は水瓶から水を洗面器に満たしてテーブルの上に置く。右手を水に浸して何か呟いた。そこに手拭いを2つ入れる。手拭いを固く絞ってミクのコップと交換する。
「ありがとう……そういえば、今の魔術だよね」
 受け取った手拭いは温かい。
「今頃気づいたのか」
「前から気づいてたけど……。普段使わないのにこういうときだけ使うよね?」
「お前の健康に関わる時だけだ。汗をかいたままで風邪を引かせる訳にはいくまい」
 もうひとつの手拭いも固く絞って、がくぽは椅子に座って汗に濡れた自分の身体を拭いた。
「冷める前に早く拭け。それとも手伝って欲しいのか?」
「……ひとりでできるから大丈夫。こっち見ちゃダメだからね」
「さっきあれほど……」
「いいから! 見・な・い・で!」
「はいはい」
 以前ミクの身体を拭くのを手伝おうとしてひどく嫌がられたことがある。それ以来絶対見るなときつく言われており、いつも背中合わせで身体を拭いている。
「うちにお風呂があればいいのに……」
「贅沢だな。この時間なら孤児院で借りたらどうだ。公衆浴場はまだやってないと思うが」
「そうだけど……。それじゃ一緒に入れな……。あ……」
 しまった、という顔をして振り返ったミクと、ニヤリと笑ったがくぽの顔が向かい合った。
「ほう」
「あ、うん。無理……でしょ?」
「……そうだな」
 視線を戻したミクの背中に貸し切りという言葉が聞こえてきたが、とりあえず聞かなかったことにする。
「ミク」
「え、あ、うん」
 差し出されたがくぽの手に手拭いを渡すと、すぐに濯いでミクに返してくれる。
 さっさと拭き終わったがくぽは手拭いを放り込んだ洗面器を床に置いて、テーブルの上の籠の中身を確認した。皿にふたつみっつパンを乗せる。
「飲むか?」
「何?」
蜂蜜酒(ミード)だ」
「飲む!」
 ミクが床に落ちたままのがくぽのチュニックを拾って着込む。ベッドから下りて手拭いを洗面器に放り込んでがくぽの向かいに腰掛ける。
「マスターってよく蜂蜜酒をくれるよね?」
 酒を注がれたコップを受け取りながらミクが首を傾げた。
「何でだろ?」
「……。ミクが前に甘くておいしいと言ったからじゃないのか」
「言ったけど、でもいつも悪いなあって……」
「今はありがたくいただいておけ。いつかお返ししような」
「うん。やっぱりおいしい!」
 一口飲んだミクが嬉しそうに笑った。皿の上から小さなパンをひとつ手に取ってしあわせそうに頬張る。毎日見ているそんな光景がいつ見ても色褪せることなく愛おしい。
「がくぽは? 食べないの?」
「ああ……」
 自分の中にある感情を表す言葉を探しながらぼんやりとミクを見つめていたがくぽは、籠の中からパンを取り出してかじりついた。
「……?」
「どうしたの? 疲れてる?」
「いや……」
 言葉を濁してもミクが心配そうに見つめてくる。
「何でもない。漠然と……、何だ。言葉が見つからない」
「ふうん?」
「さっきから引っかかるんだが、それをどう表現すればいいのか解らん。……詩人のくせにな」
「んー……? 空を見たことのない人に、その青さは語れない……だっけ?」
「ずいぶん古い言葉を持ってくるな」
「がくぽが表現したいものが何か解らないけど、見たことのない空の青さなんじゃないの?」
「……そう、かな……」
「見当違いだったらごめん」
「いや、そうかもしれん。ありがとう」
 がくぽがコップの酒を飲み干した。

「あの」
 パンを食べ終えたミクが両手を膝の上に乗せてかしこまった。
「どうした」
「聞きたいことがあるの」
「そうか」
「怒らないで聞いてくれる?」
「怒るかどうかは聞いてから決める」
「そうだった……。じゃあ、怒ってもいいから最後まで聞いてくれる?」
「わかった」
 テーブルを挟んで向かい合うミクの言葉を待ってみても、うつむいてもじもじとするだけでなかなか話を切り出さない。促そうかとも思ったが、もしルカ絡みだったら面倒だなとも思いがくぽは黙ってミクの言葉を待つ。
 自分を落ち着かせようとしているのか、ミクが幾度か深呼吸する。
「がくぽってさ」
 顔を上げたミクの顔が白かった。
「その……子供とか、どう思ってる?」
「……出来たのか」
「あの、違う、そうじゃなくて……」
「欲しいのか」
「えっと、今すぐっていう訳じゃないんだけど……その……」
 白かった顔が青くなったかと思えば今度は赤くなる。ミクのひとり百面相が落ち着くまでがくぽはその様子をじっと静観している。
 ようやく落ち着いたミクは上目遣いでがくぽの様子を伺いながら、
「今すぐじゃなくていいけど……いつかは……欲しいなって……」
 消え入りそうなほどにか弱いミクの訴えに、がくぽが難しい顔をする。怒ってはいないようだったが、明らかに賛同しかねると言った表情だった。
「あの……ごめん、別に……。がくぽが嫌なら……」
「そうじゃない」
 意気消沈するミクにがくぽがため息で答える。
「ミク。今までお前に黙っていたことがある。怒らずに聞いてくれるか?」
「……怒るかどうかは聞いてから決める」
「賢明な判断だ。怒っても構わんが最後まで聞いてくれ」
「……わかった」
 しばらくの沈黙の後、意を決したようにがくぽが口を開いた。
「……俺は今こうして生きているが   元々は200年前の人間だ。それは解るな?」
「うん」
「あの森は時間と空間を切り取るためのものだと言った。まずここまではいいな」
「うん」
「あの森の中で俺の時間は止まっていた。だから老いることもなく生き続けた。200年の時を経て俺の時間は動き出し、おそらく普通の人間と同じように老いていくだろう」
 ミクは神妙な面持ちで黙って聞いている。
「あの森も時間が止まっているはずだった。だが新たに草は芽吹き、お前が植えたあの花も咲いた。これがどういうことか解るか?」
「……時間が……流れてる……?」
「そうだ。あの森はすべての時間を止めた訳ではない。正直なところ、世界から隔絶された結界として森を作ったのは俺だが、そのすべてのからくりを把握してる訳じゃない」
「え……え?」
 魔術とは世界を構築する元素と力と理論を理解し、行使する力である。魔術を使った本人が知らないなんてことがあるのだろうか。
「あのときの激情にかられて咄嗟に組み立てた魔術だ、どこに綻びがあってもおかしくはない。もう一度やれと言われても再現できる自信はないな」
「つまり……それって、それってまさか」
「お前は優秀な弟子だ。魔術とは世界を構築する元素と力と理論を『正しく』理解し、行使する力   正しく理解しないままに使った場合はどうなるんだった?」
 失敗を学べとがくぽはミクの前で敢えて魔術を失敗して見せた。小さな水の魔術は弾けてがくぽの服を水浸しにした。
「……魔術師に反動が還る……」
「昔はよくやらかしたもんだ」
「でも……、あんな大きな魔術の反動……、そんなのが来たら……」
「間違った理解ではなく正解に限りなく近いが微妙にそこからずれていた場合、魔術は成立することがある。ただしその綻びがどう魔術師に返るのかは誰も知らない。そんなことをやらかす魔術師などいないからな」
 がくぽが自嘲して蜂蜜酒で満たされたコップを傾ける。
「外見は変わらず   これから年とともに老いていくだろうが、俺の身体の内側がどうなっているのかは確かめようがない。このまま寿命を全うするのか、ある日突然命を落とすのか」
 ミクはもう言葉もなく今にも泣きそうにがくぽを見つめて震えていた。
「どうして今まで黙ってたのよ」
「……そうやってお前が怒るからだよ」
「そんなの……っ」
「お前は本当に隠し事が下手だ。俺のために何かしようなどと考えなくていい」
 先手を打たれたミクは黙るしかない。
「こんな事態は前例がなく、俺の身体がどうなっているのかも解らないんだ。文献をいくら漁ったところで手がかりなどない。……だから、すまない」
 沈痛な面持ちでがくぽがミクを見つめた。こぼれそうな涙を必死に堪えている姿が痛々しい。
「俺に子を成せるかどうかはわからない。だから……、もしどうしても子供が欲しいというなら俺は……」
「バカ! 男ってほんとバカ!」
 ミクが椅子を蹴って立ち上がった。両目からぼろぼろと涙をこぼしながら小さな肩を怒りに震わせている。
「バカバカバーカ! がくぽのバカ!」
 ずかずかとがくぽのそばに歩み寄って、ミクが思い切りがくぽの肩を掴んで揺さぶった。持っていたコップを落としそうになり、慌ててテーブルに置いてミクの両手を捕まえる。
「おい、ミク」
「何よ! あれだけ私のこと好きとか言っといて! 今、どうしても子供が欲しいなら俺は身を引くって言いかけたでしょう! ふ・ざ・け・ん・な!!」
 両手を掴まれたまま、顔だけ近づけてミクが怒鳴った。顔に飛んできた唾液にがくぽがしかめっ面をする。
「ミク、おい」
「私は! 誰でもいいから子供が欲しい訳じゃないの! がくぽだから欲しいの! 解ってるの!? 舐めたこと言ってんじゃないわよ!!」
「ミク」
「がくぽが好きだから! 好きな人との子供だから欲しいの! もしがくぽが子供は欲しくないっていうならそれでいいし、できなきゃできないで仕方ないじゃない! それを何勝手に悲劇のヒロインごっこやってんの!?」
「……ヒロインは違うだろう」
「うるさい! 寿命だってそんなの、明日死ぬかもしれないのは私だって同じじゃん! だったら毎日を大切にしていけばいいだけの話だし、それは今までと同じでしょ!? 何でがくぽだけ先に死ぬかもしれないっていう前提で話が進んでるの!? 私を置き去りにしないでよ!」
 がくぽに噛みつく勢いで怒鳴り続けたミクが気が済んだのか、顔を離して小さくため息をついた。両手を掴むがくぽの手を振り切って、驚いたままの顔を小さな両手で包み込む。
「お願いだから……そうやって何でもひとりで抱え込まないでよ……。私にがくぽの隣を歩かせて。一人で先に行ってしまわないで。重い荷物があるなら一緒に持てばいいじゃない。私じゃ頼りないかもしれないけど、少しくらいは力になれると思うから」
 泣きじゃくりながらミクが訴えた。
「……ミク」
 胸の奥が熱くなるのとは違う、何かがにじみ出るような感覚は何だろう。それが解らなくても、今自分がするべきことは解っている。
 がくぽは自分の頬を包み込むミクの手を取って引き寄せた。素直に誘われてミクはがくぽの膝の上に腰掛ける。
「いつだってお前の方が一歩先を行くくせに……。俺はミクについていくのが精一杯だ」
 ミクの瞳からはまだぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。目を腫らしながらすがるようにがくぽを見つめるミクが切なくなるほど愛しくてたまらない。
「男はバカなんだよ。好きな女の前でカッコつけて何が悪い」
「そんなので女が惚れると思ってるの?」
「さあな。好きな女の中ではカッコいい男でいたいんだよ。それで惚れてくれたら嬉しいがな」
「……救いようのないバカ」
「ああ、そうだな」
 ようやく涙が収まったミクを肩に抱き寄せてがくぽが続ける。
「俺はずっとひとりだったからな。人に頼るとか、打ち明けるとか、どうすればいいか解らないんだ。何せ200年も膝を抱えてうじうじしてたくらいだ」
「意地悪……」
「今頃気づいたのか? 俺はどうしようもなくバカで意地悪なんだよ。いつもお前の後手でしかない。……だからお前が俺の手を引いてくれ。ミクがいなきゃどうしようもないんだ」
 甘えるようにミクががくぽを抱きしめて小さくため息をついた。
「しょうがないなあ」
 がくぽの耳元にそっと息を吹きかける。くすぐったそうにがくぽが身をよじらせてミクを抱きしめた。
「一緒にいてあげる。これからもずっと」
「ああ、よろしく頼む」
 誓い合うように唇を求め合った。重なる唇が蜂蜜酒の余韻を残して、甘い。
「ミク、知ってるか? 昔は新婚の新婦が外出しないで一ヶ月蜂蜜酒を作ったそうだ」
「新婚で? 何で?」
「夫に飲ませて子作りに励んだらしい」
「そうなんだ……。……ん? そうなの?」
「どうする、飲むか?」
 がくぽが悪戯っぽく笑った。一瞬考えたミクだったが、
「飲む」
 はにかみながら頷いた。
 がくぽはテーブルの上に置いたコップを取って酒を含むと、嬉しそうに唇を差し出すミクに口移しでそれを飲ませる。
「さっき飲んだより甘くておいしい」
「そうか。もっと飲むか?」
「うん」
 二口、三口とがくぽの唇から蜂蜜酒をそそぎ込まれながら、酔いが回ってきたのかミクの瞳がとろんとしてきた。潤んだ瞳で間近くがくぽを見つめて、
「あれ? おかしくない?」
 蜂蜜酒に濡れた唇をへの字に曲げる。
「どうした」
「私が飲んでちゃダメなんじゃない? がくぽが飲まないと意味ないんじゃないの?」
「一緒に飲めばいいだろう」
「じゃあ私ががくぽに飲ませてあげるぅ」
「もう酔ったのか」
「酔ってないよー?」
 頬を赤らめるのとは違う感じで顔が赤い。がくぽの手からコップを取り口元に持っていこうとするが、なんだかふわふわしている。
「大丈夫か?」
「大丈夫だってば」
 ゆるゆるふわふわと揺れながら、ミクが酒を口に含んでがくぽの唇に重ねた。そのまま悪戯するように舌を絡めたせいで、がくぽの唇からこぼれた酒が首を通って胸元まで伝っていく。
「……」
「ごめんなさい……」
 ミクの手からコップを奪いテーブルの上に置くと、がくぽは手の甲で口元の酒を拭った。膝の上に座っているミクを立ち上がらせて、首から下を拭おうと洗面器に手を伸ばす。
「……ミク?」
 伸ばした手を掴まれて、がくぽが顔を上げた。照れるように笑うミクの顔がすぐそこにある。
「あのね、」
 言いかけてミクはがくぽに優しく口づけた。唇からすぐ唇の横へ、唇の横から首筋へ、がくぽの肌を伝う蜂蜜酒をミクがその唇で拭っていく。
「ずいぶん積極的だな」
「積極的な女の子は嫌?」
「好きな女に求められて嫌な男などいない」
「良かった」
 ミクの蠱惑的な笑顔に目眩がしそうだった。
 首筋から鎖骨を通って、ゆっくりとミクの柔らかい唇ががくぽの胸板を下っていく。ミクが椅子の隣に膝をついてがくぽのみぞおちに唇を這わせる。
「ミク」
「なぁに?」
「そんなに頑張らなくていい」
「ええー? 私、お酒の力を借りないともう頑張れないよー? いいのー?」
「俺としても楽しみたいところだが」
 挑発するように微笑みかけてくるミクの頭をなでてから、
「……ちょっと立ってみろ」
「えー? なぁに……、あれ、え……?」
「ほら見ろ」
 立ち眩みを起こしたミクが顔を白くして足をふらつかせた。その場に座り込みそうになるミクを再び自分の膝に座らせる。
「飲み過ぎだ。少し休め」
「えー……。ずるい……がくぽの方が飲んだのに……」
「身体差を考えろ」
「納得がいかない。私は続きを要求します」
「拒んではいない。だが今は少し休め。俺は逃げない」
「えぇー……」
「今無理して倒れるより、少し休んでからたっぷり楽しませてくれ」
「うー……。わかった……」
 ふてくされながらミクが足をぷらぷらとばたつかせる。不満そうな顔をしながら、がくぽの肩に甘えるようにもたれかかってくる。赤みが戻ったミクの頬に自分の頬をすり寄せれば、赤さが移りそうなほどに熱い。何やらまだぶちぶちと不満を呟いていたが、がくぽに唇を塞がれて照れくさそうにうつむいて黙ってしまった。
「ミク」
「うん」
「好きだ」
「うん」
「……好きだよ」
「ひゃう!?」
 熱い吐息とともに耳元で囁かれて、ミクがびくりと身体を震わせる。
「な、な、なに今の……! いつもと違う!」
「たまにはいいだろう」
「いいけど、その、あの……」
「どうした」
「ドキドキして……余計酔いが回りそう……」
「それはすまない」
 まるで反省の色を見せない笑顔でがくぽが謝る。ぽやんと夢でも見ているかのように唇をうっすらと開いたままで、ミクはがくぽの笑顔を見上げた。
「がくぽ……」
「うん?」
「好きです」
「ああ」
「……あれ? いつもと同じ反応?」
「お前がいつもと変わらないだろう」
「納得がいきません。不公平です」
「無茶を言うな」
「えー……」
 再びふてくされたミクが今度はがくぽの鎖骨を指でなぞる。鎖骨から首筋を指でなぞられてがくぽがくすぐったそうに笑った。してやったりとばかりにミクも笑った。目が合い、引き寄せられるように唇を求め合う。
 ミクの両手ががくぽの首に絡みつき、がくぽは片腕でミクの腰を抱え、もう片方の手で細く白い脚に触れる。膝から少しずつ、焦らすようにゆっくりと、上へ、上へとなでていく。
 がくぽのチュニックは小柄なミクには膝上丈のワンピースのようだったが、簡単にがくぽの手の侵入を許した。何の防御力もないただの布に潜みながら、膝上から太ももへ、じわじわと内側へと忍び込んでいく。
「ん……」
 ミクに強く唇を求められてがくぽもそれに夢中で応える。
「……ねえ」
 唇を離したミクが上目遣いでがくぽの顔をのぞき込んでくる。少し驚いたような顔をしたのに満足したのか、ミクが楽しそうに笑った。
「正直な身体で助かるでしょう?」
「な……っ」
 言われたがくぽの方が顔を赤くしてしまう。
「これで公平になったかな?」
 意地悪くミクに笑われてがくぽが渋い顔をする。
「もう酔いは落ち着いたのか」
「うん、もうだいぶ平気」
「それはよかった」
 口づけてからミクを膝から下ろし、足下がふらついていないことを確かめてからがくぽも立ち上がった。ミクを抱き上げようとして、
「待って! ちょっと待って!」
 がくぽの腕を避けるようにミクが一歩下がる。
「……何だ」
「あのね、お願いがあるの」
「どうした」
 がくぽの腕を捕まえて、ぐいぐいと引っ張る。
「こっち」
「……?」
 ベッドの横まで引っ張られたかと思えば、今度はベッドに座るように促される。言われるままにミクに従えば、今度は両肩を押されてがくぽはベッドに横になった。
「……何だ?」
「お姫様だっこができればよかったんだけど」
 ミクもベッドに上がってがくぽの隣に寝転んで、不思議そうな顔をしたがくぽに口づける。
「がくぽは何もしなくていいから。今日は私がするの」
 悪戯っぽく笑った。あまりのことにがくぽは完全に言葉を失ってしまっている。
「……」
「え……そんな顔するの? 期待してたのと違う」
「いや……その」
 自分を見下ろすミクの表情が妖艶すぎて、一瞬気圧されてしまった。
「驚いた……。ミクがいつもと違うから……」
「ふーん? そうー?」
 勝ち誇ったようにミクががくぽを見下ろしている。
「ああ……。本当に今日はどうしたんだ。ずいぶん積極的だな」
「やっぱり本当は積極的な女の子、好きじゃないんじゃない?」
「さっきも言っただろう。好きな女に求められて嫌な男などいない。俺は大歓迎だ」
「本当? やったあ!」
 妖艶さもどこへやら、いつもの眩しい笑顔でミクががくぽの胸に頬を埋める。
「あのね、思い出した」
「何だ」
「さっき言ってたやつ。自分の中の何かがなくなっちゃう的な」
「ああ……」
「つがいの鳥って言うんだよね」
「……それを言うなら比翼の鳥だな」
「あれ? そうだっけ?」
「つがいの鳥は普通に雄と雌だ」
「そっか。じゃあ比翼の鳥だね、私たち。ふたりでひとつなの」
 甘えるようにがくぽの胸に頬をすり寄せながらミクが笑った。逞しい腕に抱きしめられて、嬉しそうにがくぽの胸に耳を当てて愛しい人の脈打つ鼓動を聞いている。
「ああ……そうだな」
 腕の中の小さな温もりを確かめるように、がくぽは抱きしめる腕に力を込めた。肌に触れるミクの温もりに呼応するように、がくぽの胸の中から何か暖かいものがにじみ出るような気がした。
 与えられるものではない。自分の中にあって、ミクによって引っ張り出されるようにあふれてくるもの。
 それは何だっただろう。
「あのね、がくぽ聞いて?」
「ああ」
「私、今すごくしあわせ」
 ミクの柔らかな唇ががくぽの胸に触れた。
「ああ……、そうだな……。そうだったな……」
 しばらくがくぽの胸に頬を預けていたミクだったが、ふと顔を上げた。
「……がくぽ」
「……何だ」
「泣いてるの……?」
 がくぽが藤色の瞳からあふれる涙を拭うこともせず、時折しゃくりあげながら泣いていた。ミクに顔をのぞき込まれて泣きながら照れくさそうに笑う。
「悔しい訳でも苦しい訳でもないのに……しあわせっていうだけで泣けるものなんだな」
「がくぽ」
「ミク、お前に解るか? しあわせすぎてたまらなく満たされてどうしようもなくて   涙が止まらないんだ。胸の奥が暖かくて   次から次へとあふれてきて   
「うん」
「いつだって現実は俺に優しくなんかなかった。冷たくて厳しくて残酷だった。俺は誰にも何も求めなくなった。なのに……なのにお前の歌が俺の心に入ってきて……、もうずっと忘れてたのに……、しあわせなんて、そんなもの……」
「うん」
「愛とかしあわせとか、そういうものは自分の内側からあふれてくるものだったんだな……」
「……うん」
「今こんなにも……ミクが愛しい。ミクだけじゃない、この国が……世界すべてが愛しくてたまらない。あんなにも俺を苛んだ過去すら輝いて見える。何もかもが美しい……」
「うん」
「しあわせすぎて怖いくらいだ。こんなに満たされて、罰が当たるんじゃないかとさえ思う。しあわせな気持ちが次から次へとあふれてきて……どうすればいいかもわからん。なあミク、お前にこの気持ちが解るか?」
 泣きながら困ったように笑ったがくぽに、ミクが微笑んだ。
「解るよ」
 がくぽの手を取り、自分の手を合わせる。大きな手はミクの小さな手では包みきれず、指を絡ませて優しく握った。
「あのね、これから私が言うのと同じ気持ちだったら握り返してね?」
 不思議そうな顔をしたがくぽに、ミクがとびっきりの笑顔を見せる。
「愛してる!」
 一年前、同じことをがくぽも言った。あのときミクはどんな顔をしていただろう。泣いているような、困っているような、笑っているような。
 がくぽがミクの手を握り返した。何度も何度も、かつてミクがそうしたように。
「ああ……そうか。そうなんだな……」
 安心したような、つぼみが花開くような、夢見るような笑顔だった。今まで見せたことのないがくぽの表情に、ミクは穏やかに微笑んでそっと口づける。
 名残惜しそうに唇を離すと、がくぽが照れくさそうに笑った。
「……今日はみっともないところばかり見られたな。カッコつけがいいザマだ」
「そんなことないよ?」
 ミクが慈しむように藤色の髪をなでる。
「カッコいいがくぽも好きだけど、そうじゃないがくぽもかわいくて好きだよ」
「かわいいか」
「うん」
「まったくお前は本当に大した奴だよ」
 愛しそうに頬をなでるがくぽに、ミクが意地悪く笑った。
「何を余裕ぶってるの? これからがくぽのみっともないところをいっぱい見せてもらうんだからね?」
「ミク? ……あ、おいっ!」
「ふふーん? どうしちゃおうかなあ?」
「ちょっと……、待てお前……っ」
「待てと言われて待つバカはいないんだったよね?」
「この……っ!」
 がくぽが身体を起こしかけたが、耐えきれずに吐息を漏らして敢えなく撃沈した。くすくすとミクの笑い声が聞こえてくる。
 抵抗しかけてがくぽはすぐにあきらめた。両手を挙げて降参する。
「……好きなだけ俺を翻弄してくれ。お手並み拝見だ」
「ふふ、楽しみにしてて」
 がくぽはミクに誘われるままに身を委ね、甘い夢の中に溺れていった。

 蜂蜜酒の飲み過ぎには気をつけよう、とふたりが思ったのは夜半過ぎのことである。
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