真空の聲、静謐の旋律
β:巡り音の箱4
久し振りに訪れた森の跡地には薄紅色の花が咲き誇っていた。最初は一輪だけだったものが、周囲にだいぶ広がっている。
「うわあ……増えたね。水はどうしたの?」
「ここを離れる前に近くの水脈から地下に水の管を引いた。一定の気象条件時に水が通るようになってる」
「そっかあ……きれいだね」
「ミク」
「うん」
がくぽに促されてミクは真鍮の箱を花の前に置いた。蓋の中央には青い宝石が輝き、周囲に小さな薄紅色の宝石がちりばめられている。それ以外にも精巧な彫刻が施されており、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
司教と何度かの打ち合わせの末、巡り音の箱は製造・販売の認可を受けることができた。まだ工房での生産など市販できる段階にはないが、アクセサリー職人に依頼して特注で箱を作ってもらったのである。中身の魔術が絡む部分はミクが自作した。この真鍮の箱は試作品を除き第一作目となる。
明日、北の小国への慰問団が出発することとなった。それに参加するがくぽとミクは、旅立つ前に記念すべき第一作目の巡り音の箱に、ふたりでルカに捧げる歌を入れることにしたのである。
「準備はいい?」
「ああ」
がくぽがフィドルを手に頷いた。ミクが頷き返して、箱の蓋を開けて操作する。音を立てないように静かに立ち上がった。がくぽと目で頷き合う。
手にした笑顔の数より涙は多いかもしれないけど
“そばにいる”
それが僕の、君のためにできること
<君のためにできること>
ルカに捧げる歌は何にしようかと話し合い、新しく作ろうかとも思ったのだが、ミクの提案によりルカとの思い出の曲になった。
聖女ルカと吟遊詩人マリスが太陽の祝福の下で声を重ねた思い出の曲だった。今はミクの声が重なる。
ルカとの思い出が残るせいか、この曲は吟遊詩人マリイとして歌ったことはなかった。ミクに対する後ろめたさもあったかもしれない。だが今がくぽの歌声に乗ってあの日のように澄んだ青い空に響きわたるのは、ルカへの愛と感謝と 今のしあわせだった。
隣で歌うミクは何度もこの曲を練習して ルカの背中を追うことをやめた。どれだけ聖女の伝説に追いつこうとしても、結局それはルカの真似事でしかない。何度も『ルカとミクは違う』とがくぽに言われたことをようやく理解したミクは、自分だけの歌い方を求めて今も試行錯誤の最中だった。
ルカとがくぽの思い出の歌を歌うミクの声はどこまでも素直でまっすぐな、空の青さを思わせる。遠く澄んだ歌声は懐かしさと 心の奥底にしまいこんで忘れかけていた純粋さを思い出させる。
いつだって君だけは変わらないで側にいて
僕の腕で抱きしめた時からこの予感に気付いたから
いつだって僕だけは君を離したりはしないから
僕が君を守ってみせるから
この予感に気付いたから
フィドルが最後の音を奏で、ミクは静かに屈み込んで箱を操作した。蓋をして両手で大切そうに抱える。
「試しに聴いてみる?」
「そうだな」
がくぽがフィドルをケースにしまいながら答えた。ミクが蓋を開けて操作する。
『手にした笑顔の数より涙は多いかもしれないけど
“そばにいる”
それが僕の、君のためにできること』
「……あれ?」
先に声を上げたのはミクだった。がくぽの顔を見上げれば、驚きを隠せないといった表情で箱を見つめている。
「今……聞こえたよね?」
「ああ……」
「ほら、今も!」
鈴の音のような、風の囁きのような、もし目の前に咲く薄紅色の花が歌ったらこんな音がするのではないか そんな音がふたりの声に重なっていた。
歌っている最中、他の音はしなかった。馬は遠くに繋いでいる。もし可能性があるとしたら花に潜む虫くらいだろうか。あるいは地下を流れる水の音 。
箱を見つめたまま思案するがくぽの腕をミクが引っ張った。がくぽがミクに視線をやると、花がほころぶような笑顔で、
「きっと一緒に歌ってくれたんだね」
嬉しそうに囁いた。
「……ああ、そうだな」
がくぽも笑った。
「さあ、戻るか。明日の準備もあるしな」
「うん!」
馬に向かって歩き出したミクの背中を見つめ、がくぽはふと足を止めて振り返った。
「……なあ」
誰にともなく呟いていた。
「また来てもいいか……?」
がくぽの切ない声に、薄紅色の花が風に吹かれて静かに揺れる。
「……そうか。そうだよな」
苦笑しながら空を見上げた。空はいつも青かった。あの日も今日と同じように澄み渡っていた。
「……今までありがとう。本当に……」
名残惜しそうに薄紅色の花を見つめていたが、やがて踵を返して歩き始めた。
「がくぽー?」
「ああ、今行く」
ミクに呼ばれて小走りに駆け出した。
フィドルケースを背負って先に馬上の人となったがくぽは、軽々とミクを引き上げて手綱を取る。
「ミク、飛ばすぞ。しっかり掴まってろ」
「うん!」
馬が軽く嘶いて聖ボカロ王国へと駆け出した。ふたりの髪が風に踊る。
その様子を薄紅色の花だけが見守っていた。
後に北の小国に永住するふたりがこの地を再び訪れることはなかった。ただ記念すべき巡り音の箱は、後世まで子孫たちによって大切に受け継がれていくことになる。
終
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